星と羽翼 10
小振りなワゴン車が、へたり込んだ俺の鼻先を横切った。
どれほど走ったか分からないが。あの不気味な倉庫群を遙か後方に置き去りにして、俺は――俺たちは、元いた公道脇の歩行者路まで、駆け戻っていた。
両手両脚を地面に付けたまま、首だけで後ろを振り返る。
そこには、息一つ荒らげていない少女が、口を尖らせてこちらを見下ろしていた。
街灯に照らされ、初めてまともに見た、少女の顔は。
大人びた凛々しさと、少女らしいあどけなさが同居しているようで。
なんというか。
なんとも言えず。
かわいかった。
「なんなんだ、お前は」
もしや心を読まれたのではないかと、思わず身が震えた。
ともすれば、侮辱するかのように吐き捨てられたその台詞からは、しかし。
さっきまで、痛いほどにぶつけられていた敵意が、すっかり抜け落ちているようだった。
「なにって、いや、俺は」
言いづらかった。
怖かったから走って逃げたのだと。今思えば、そうとしか説明できなかったが。そんなことを軽々と口にするには、なけなしのプライドが邪魔だった。
お化け屋敷の出口を、走ってくぐってきたような気分だ。
息を整えながら、尻餅を付いて、走ってきた細道の方を見る。
当然視界には入らない、ずっと向こう側には――まだ何か、嫌な感じが残っている。
「お前、首から何を提げている?」
「え?」
「首飾りか何かか? ずっと押さえていただろう、その辺りを」
あの状況で、よく見ているものだと感心した。恐らく同年代のはずなのに、随分と冷静だ。
いや、俺が取り乱し過ぎなのかも知れない。呆れたような視線が痛い。
「……兄さんの、形見」
服の下から、お守りを引っ張り出して見せた。
紺色の巾着袋は、先ほど感じた異常などなかったかのように、何の変哲もないお守りとしてそこにあった。
さっきのは本当に、このお守りがどうにかなっていたのだろうか?
考えてみても分からない。少なくとも、俺が俺の分として貰った方のお守りが、あんな風になったことはない。まあ、首掛けの紐が切れたのをそのままにして、筆箱の中に仕舞ってあるせいかも知れないが。
「そういうことか」
なるほど、と。一体何を納得したのか、少女はお守りを見てそう頷いた。
「中身は?」
「ただの石だよ。家族で探してきた、綺麗な丸石」
お守りの膨らみを指でなぞりながら、俺は正直に答えた。
石。小学生の頃、母さんと兄さんと三人で探した、小さな石だ。日を反射して、輝いて見えて、まるで宝石のようだと父さんも誉めてくれた。
お守りに入れる品として、適しているかどうかは分からないが。少なくとも俺にとっては、家族との繋がりを表しているようで、家族に守ってもらえているように思えて。そのお守りが、宝物のように見えたのだ。
そしてそれは、きっと。
兄さんにとっても、同じものだったと、思う。
「そうか」
「何か知ってるのか?」
「いや。ただ、懐かしい物を見たと思っただけだ。それから」
それから。
素人による手作り巾着の何が懐かしいのだと、そう疑問を浮かべる間もなく。
少女は、深々と頭を下げ、見惚れるほどの一礼をした。
「え? なに?」
「疑念は払われた。お前は敵ではない。私の早とちりだったと理解した。だから」
すまなかった、と。
そのままの体制で、少女は謝った。
堂々と、真摯に。悪びれている風ではないが、礼節を重んじ筋を通そうとする、武道関係者特有の空気がありありと伝わってきた。
「いや。その、ありがとう」
なんとなく、居心地が悪い感じがして。紛らわすように、ゆっくりと立ち上がる。
「……礼を言われるのはおかしいと思うが」
「分かってくれたから。俺は、それでいい」
違う。分かってもらうことさえ、本当はどうでもいい。
俺のことをどう思われようと、そんなのは大して興味のない話で。暴漢か何かだと、思い込まれていたとしても気にならなかった。
ただ、お礼を言いたかったのは本当だ。
ここまで、付いてきてくれてありがとう。
無事でいてくれて、ありがとう。
それだけが本心で、それだけで充分だった。
「名乗りが遅くなった」
頭を上げて、少女と俺は視線を交わす。
街灯の明かりの下で、その姿が仄かに照らされる。
本当に、可愛らしい女の子だった。
細い肩、細い手足、邦人らしく丸みを帯びた顔。華奢でありながら健康的に引き締まった体格は、日頃の鍛錬の成果を思わせる。艶やかな髪と肌は育ちの良さを感じさせ、整った目鼻は自信に満ち溢れ。
ただ、真一文字に閉じた口元だけが、どこか危うさを感じさせる。
可憐な少女だった。凛々しい少女だった。目を離しがたい少女だった。
冷たい冬夜の風が舞う。後ろ髪とスカートがふわりと揺れ、そんな些細な動きに、いちいちドキリとさせられる。
初対面の異性だからと、物怖じした記憶なんか、俺にはないのに。
その少女からは、何か特別なものを、感じざるを得なかった。
「八剣 一星。お前の名前を聞かせて欲しい」
その威勢に似合いの音だと、呆けるように酔い痴れてから、一拍おいて。
「野宮。野宮 一格」
少女は――八剣は、俺の名前を聞いて、満足げに微笑んだ。
よろしく、などと、俺たちは言い合う。ともすれば、もう二度と会うことのない、ただそれだけの出会いだったかも知れないのに。
俺はきっと、彼女のことを忘れられないだろうけれど。それでも、今日限りの縁に終わる可能性の方が、ずっと高いと思えたのに。
なんとなく。
長い付き合いになるような。
これだけで終わるわけがないだろう、というような、そんな風にも。
俺には確かに、感じられていた。




