7 ロッタちゃんの朝食
すったもんだあった翌朝のこと。
私を目覚めへと導いたのは、愛らしい小鳥のさえずりでも、けたたましい目覚ましの音でも、ましてや母ののほほんとした声でもなくーー
ぐうう~きゅるるる……
「んあっ!?」
盛大に空腹を訴える腹の虫の鳴き声だった。
ぱっと瞼を上げれば、すぐ近くにあった今世の先生の青い瞳が苦笑するみたいに細くなる。
「先生、ごめんなさい。おはようございます。おなかすいた」
「はい、おはよう。まず、何の謝罪かな? あと、お腹が空いているのは言わなくても分かるよ」
昨夜、眠りに落ちる寸前に決意した通り、先生への謝罪を第一声に持ってきた自分を褒めたい。
有言実行を成し遂げた自身を誇らしく思いつつ、私は先生の腕に抱き込まれてベッドに横になったまま、キョロキョロと首だけ動かして辺りを見回した。
大きな掃き出し窓に掛けられたカーテンの向こうは、ようやく明るくなり始めた頃のよう。
壁掛け時計を見上げれば、間もなく五時を知らせようとしている。
前世の私ならば、もう小一時間ほど寝ていたいところだけれど……
ぐうう~きゅるるる……
そうはさせるかとばかりに声を張り上げる腹の虫に二度寝を断念する。
先生の腕の中で落ち着かない気分になりながら、私は昨夜彼に飲ませた痛み止めについて白状することにした。
「ふうん……久しぶりにぐっすり眠れたと思ったら、薬のおかげだったのか。それで? 私を眠らせてとんずらかまそうとでも考えたのかな?」
「まあ、そんなところです。ただの痛み止めって嘘付いてごめんなさい」
「うん、そうやって素直に謝れるのは君の美徳だと思うよ。それにしても、逃げなかったのは賢明な判断だったね。兵を動かして、君の首に縄を付けて連れ戻させる手間が省けた」
「ぴええ……」
にんまりと黒い笑みを浮かべる先生におののいた私は、ぴゃっと彼の腕の中から抜け出し、ベッドの上で距離を取る。
お腹は相変わらずぐーぐーと賑やかだった。
そんな私と向かい合うように身体を起こした先生が、晩飯でも抜いてきたのか、と苦笑まじりに問う。
「だって、初めてもらった大きな仕事の前だったから緊張してしまって……パンケーキだって十枚くらいしか喉を通らなかったんですよね。おなかすいた」
「いや、いやいやいや……十枚もパンケーキ食ってきたなら充分なんじゃっ……って、これ、マジレスはよせと敬遠されるやつかな?」
「いつもはチキン丸ごと二羽くらい朝飯前なんですよ。ステーキだったら三ポンドはいけます。おなかすいた」
「……バイトちゃんが、前世に輪をかけて食いしん坊だっていうのは分かったよ。あと、お腹が空いているのもよく分かったから」
先生とそんな会話をしている間も、私のお腹はぐーぐーと鳴り続けている。
前世の私の食事量は、せいぜい女子にしてはよく食べる程度だった。
ところが今世では、普通の人よりも多く食べなければ満腹感を得られず、しかもまたすぐにお腹が空いてしまう。つまり、すこぶる燃費の悪い身体に転生してしまったのである。
そもそもはこの厄介な体質こそが、一国の王太子暗殺なんて大仕事に私を挑ませた要因だった。
「私みたいなマフィアの末端構成員に社会的信用なんてものは微塵もないですが、幹部になれば堅気っぽい肩書きを用意してもらえて、銀行に個人口座を開設できるようになるんですよね」
「つまり、その幹部に昇格するためのステップとして、俺のーークロード・ヴェーデンの暗殺を実行しようとしたというわけか。それで、個人口座を作って何がしたいんだ? 老後のためにこつこつ貯金するなんてのは、君の柄じゃないだろう?」
そこで、私はよくぞ聞いてくれました、とばかりにベシンと膝を叩く。
ちなみに、叩いたのは先生の膝である。
「私――シェフを雇いたいんです!」
「衝撃が脇腹に響いて痛いんだけど……って、シェフ?」
「はいっ! お金をいーっぱい貯めて、私のためだけに、私の好きなものを、私が食べたい時に食べたいだけ作ってくれる、私専用のシェフをっ!!」
「うん? なるほど?」
両手を握り締めて力説する私に、先生は青い両目をぱちくりさせた。
今でこそ、マーロウ一家は統制がとれた組織として確立しているが、前のボスが牛耳っていた五年ほど前までは凶悪で粗暴なだけのならず者の集まりだったのだ。
当然のことながら、私のように手駒として育てられた子供達の待遇なんてのは最低最悪。搾取されるばかりのひもじい日々の中、一握りの慈悲に頼ってどうにかこうにか生き抜いてきた。
今のボスになって待遇が改善されてからは食うに困ることはなくなったが、食への執着は身に染み付いてしまっている。
私が、専属シェフを雇うことを人生の目標としたのもそのせいだ。
それを達成するために誰かを犠牲にすることを厭うような倫理観は、残念ながらマーロウ一家の手駒として十九年間生きてきた今世の私には備わっていなかった。
とはいえ……
「結局、任務は失敗。依頼主は地下牢へ放り込まれるわ、私は殺し損ねた先生に囲われるわ……あーあ、人生って全然思うようにはいかないですねー」
私はそんな風にぼやきつつ、両膝を抱えた体育座りの恰好になってため息をつく。そのまま膝頭に額を押し当てて丸まれば、圧迫されたお腹の虫がますます大きく鳴き出した。
メンタルは、前世も今世も強い方だと自負している。
ただし、空腹の時はだめだった。お腹が空くと、何もかもが無性に切なくて悲しくて辛くなる。
ぐうぐう鳴き続ける腹の虫に、「分かるよ、その気持ち」と共感しながら、私はついにグスグスと鼻を啜り始める。
すると、そんな私の頭をポンポンしながら、ため息まじりに先生が呟いた。
「まったく……前世でも今世でも、世話が焼ける子だね」
ギシリと音を立てて、ベッドを下りる気配がする。
膝に埋めていた顔をおずおずと上げた私は、遠ざかっていく先生の背中越しに、いまだ薄暗い部屋の中を改めて見渡した。
ヴェーデン王国の王族の私室は、王宮の三階に並んでいる。
どの部屋もバストイレを完備し、ウォークイン型の広い衣装部屋がくっ付いているのがデフォルトらしい。
調度に関してはそれぞれだが、先生ことクロード殿下のこの私室には、キングサイズのベッドと四人掛けのソファセット、壁一面を覆うようにびっしりと本が詰まった作り付けの本棚、さらにはアンティークなカップボードと並んでタイル張りの流し台が設えられている。
一方、私の前世の記憶の中に色濃く残っているのは、十二坪ほどの事務所の映像だった。
奥まった場所にコンロが二口付いたキッチンが備え付けられていて、先生は私の「おなかすいた」コールを合図に頻繁にその前に立ったものだ。
私は情報収集やデータ入力をしながら、料理をする先生の背中をパソコン越しにいつも眺めていた。
だからだろう。
「先生……」
明かりを灯して流し台の前に立ち、何やら作業を始めた今世の先生の背中を見ていると、郷愁にも似た、ひどく懐かしいような恋しいような気持ちになる。
とたんにじっとしていられなくなり、音もなくベッドを下りてその背中に駆け寄った。
そうして、私が背後に立ったことに気付く素振りもない先生の脇から、そっと顔を覗かせて手元を見遣る。
びくりっ、と先生の肩が小さく跳ねた。
「……びっくりした。気配を消して後ろから近づくのはやめてもらえるかな。特に、今みたいに刃物を持っている時はね。うっかり、刺してしまうかもしれないだろう?」
「すみません。職業柄、気配を消すのが癖になっちゃってて……」
「なるほど、今世のバイトちゃんはスパイとしてはなかなか優秀のようだね。覚えておこう」
「はあ、ご用命の際に参考にしてください」
マーロウ一家の下っ端として情報収集や囮役を担ってきた私は、潜入任務なんかも多く経験したおかげでステルス能力の高さには定評がある。
それに、外壁を伝ってバルコニーから王宮に侵入した昨夜の通り、身軽さにもちょっとばかり自信があった。
ただし、結局私は任務に失敗し、暗殺対象だった先生は今、流し台の上に渡した木の板に燻製肉の塊を載せ、ナイフを入れている。
ライ麦パンやチーズの塊も用意され、流し台の上に作り付けられた棚からは、透明な液体と一緒に色とりどりの野菜が詰め込まれガラス瓶が取り出された。中身はおそらくピクルスだろう。
以上のことから、流し台は簡易のキッチンとして利用されているということが分かった。
「先生……あの、何しているんですか?」
「見ての通り、朝飯の用意をしている」
私と会話をしながら先生がてきぱきと作り上げたのは、たっぷりの具材を挟んだサンドイッチだった。
紫キャベツや赤や黄色のパプリカのピクルスによって、お皿に盛られたその断面は色鮮やかで美しい。まさしく萌え断。
さらに、燻製肉の芳ばしい香りとツンとしたピクルスの酸っぱい匂いが、ダイレクトに空きっ腹を刺激した。
私は慌てて口を閉じる。
そうしないと、みっともなくよだれを垂らしてしまいそうだったからだ。
ぐぎゅう……っと、お腹の虫が苦悶に満ちた声を上げる。
私はたまらず、脇から縋るような目で先生を見上げた。意識したつもりはないが、きっと涙目になっているに違いない。
先生はそんな私を一瞥すると、熟練のウェイターみたいに片手にお皿を乗せてくるりと振り返った。
「せんせい……?」
「朝食は朝食でも、〝ロッタちゃんの朝食〟の用意だよ」
「……えっ?」
「マフィアの幹部に伸し上がって専属シェフを雇う、なんて夢は叶えてあげられそうにないからね。その代わりと言っては何だがーー前世に引き続き、俺が君の胃袋を満たしてやろうじゃないか」
ちょうどこの時、大きな掃き出し窓に掛けられたカーテンの隙間から朝日が差し込み、ビロードの絨毯の上に一本のくっきりとした光の筋を描く。
それはまさに、万年腹ぺこの私が先生の言葉に光明を得たことを象徴するような光景だった。
「せ、せんせいーっ!!」
感極まった私は、両手を広げて先生に飛び付く。
うっ、と呻き声が聞こえてやっと、私は相手が怪我人であったことを思い出した。