5 先生のキラキラな弟
「あーあ」
「ため息が多いね、バイトちゃん。悩み多き年頃かな?」
もう何度目かも分からないため息を吐いていると、目下の悩みの種である先生がおもしろそうな顔をする。
今世も彼に振り回されそうな予感に、私がガックリと肩を落とした時だった。
ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきたと思ったら、バンッ! と大きな音を立てて扉が開く。
驚いた私はベッドの上で飛び上がり、先生は眉間に深々と皺を刻んだ。
まるでデジャヴを見ているみたいに、カイン・アンダーソンが飛び込んできたさっきの状況とそっくりだったからだ。
そういえば、近衛兵を追い出した後に扉を施錠するのを忘れていた。
とはいえ、王太子殿下の私室の扉をノックもせずに開けるなんて、どいつもこいつも無作法なことだ。
部屋の中に飛び込んできた人物の顔を眺めて、私はまた一つため息を吐き出した。
「――あああ、兄上っ!! ご無事ですかっ!?」
真っ青な顔をしてそう叫ぶのは、先生よりも幾分年下に見える男である。
寝衣の上に無造作にガウンを羽織っただけで、いかにも慌てて駆け付けたといった恰好だった。
艶やかな銀髪と、真夜中にもかかわらずハイライトをあしらったみたいにキラキラな緑色の瞳をした彼の名は、アルフ・ヴェーデン。
もしも私が捕まって拷問でも受けるようなことがあれば、クロード王太子殿下暗殺の依頼主だと濡れ衣を着せるつもりだった、王位継承権第二位にある第二王子だ。
現在ヴェーデン王国の玉座には王子達の母親が座っており、その王配が宰相を務めている。
しかしながら、先生ことクロード殿下に限っては、女王が王太子時代に当時の近衛師団長との間に儲けた婚外子だった。つまり、アルフ殿下は先生にとって父親違いの弟ということになる。
そんなアルフ殿下は、先生の無事を確認して安堵の表情を浮かべたものの、彼と同じベッドに座っている私を見つけてぎょっと目を見開いた。
「はっ? えっ? な、何やつ!?」
「うるさいよ、アルフ。少し声を抑えないか。今何時だと思っている」
声を裏返して叫ぶ弟を窘めつつ、先生はさりげなく私を彼の視界から遠ざける。
それに戸惑いを濃くしたアルフ殿下に対し、何の用かと尋ねる先生の声は冷ややかだった。
「ろ、廊下がひどく騒がしくて……通りがかった近衛兵を問い詰めれば、近衛師団長が地下牢に繋がれたというではありませんか。あ、兄上……カインが兄上を暗殺しようとしたというのは本当なのですか?」
「残念ながら、そのようだね。まったく……あれの後任が決まるまで近衛師団長の席が空いてしまうな」
「そ、そんなっ、どうして……だって、カインは兄上の……」
「どうしてなのかは、審判の場で本人の口から語られるだろうね」
近衛師団は、王族や王宮の警護を専門とする親兵の一団だ。
師団長のカイン・アンダーソンと日常的に関わりがあり、しかも彼が兄の親友であると承知しているアルフ殿下は、その罪状に少なからずショックを受けている様子だった。
アルフ殿下は、箱入り娘ならぬ箱入り息子。
王宮の中で純粋培養されて育った彼には、清廉潔白な好青年の印象が強いカインの裏切りも、それに対して平然としている先生の態度も信じられないことのようだ。
呆然とその場に立ち尽くすアルフ殿下に、しかし先生はさらにショッキングな話題を口にした。
「カインの件はさておきーー今宵から、彼女が私の部屋で寝起きすることになった。お前もそのつもりでね」
「「――は!?」」
いきなりのことに、私とアルフ殿下の声がハモる。
当事者である私も承知していなかったのだ。
まさに寝耳に水だったアルフ殿下は、またもや声を裏返して叫んだ。
「な、何をおっしゃるんですか! 兄上には、ミッテリ公爵令嬢という婚約者がいるでしょう! それなのに、別の女性を私室に囲うだなんて――いくらなんでも、不義理が過ぎますっ!!」
ところが、いかにも誠実で潔癖そうな弟の台詞に、先生は鼻白んだ表情で返す。
「何だ、聞いていないのか。そのミッテリ公爵の娘もカインと共犯だよ。彼女も今宵からは固いベッドで眠ることになるだろうね。当然ながら、私との婚約も白紙に戻る」
「えええっ!? いや、しかし……そっ、そもそも! その女は何者なのですか!? 侍女の恰好をしているけれど、見かけない顔で……」
アルフ殿下の緑色の瞳が、先生越しに突き刺さる。
今をときめく王太子殿下のベッドに見知らぬ女がいたのだから、不審がられるのは至極当然のことなのだが……
「不躾に見るのはやめなさい。不愉快だ」
訝るアルフ殿下の視線を、先生はぴしゃりと遮った。
父親が違うとはいえ一緒に育った兄弟だというのに、先生のアルフ殿下に対する態度はどうにもこうにも冷たい。
それにたじろぐアルフ殿下をじろりと一瞥してから、先生は何を思ったのか、左半身をずらして背後にいた私を抱き寄せた。
そうして、左腕にすっぽり収めた私の頭頂部に顎を載せ、宣う。
「この子は、私にとって掛け替えのない存在だ。無礼な真似は許さないよ」
不覚にも、一瞬ドキリとした。
先生の左手が、私の髪を慈しむみたいに撫でるから余計にだ。
しかし、ふいに視線を落としたことで、先生の行動の意味を知る。
私がナイフで刺した彼の左脇腹。その付近の寝衣に、うっすらと血が滲んでいた。
先生は、私がマーロウ一家の手先であることも、自身を暗殺しようとしたことも、傷を負ったことさえ隠し通すつもりなのだ。
意図を察した私は、自らの身体で先生の左半身を隠すようにその胸に撓垂れ掛かる。
先生はそれにくすりと笑うと、ちゅっと音を立てて私のこめかみにキスをした。
「……っ!」
アルフ殿下が息を呑む気配がする。
ちらりと目を向ければ、端整な顔が真っ赤に染まっていた。
しきりに口をパクパクさせている様子は、まるでお池の鯉みたい。
アルフ殿下は確か私と同い年のはずだが、随分と可愛らしい反応をする。
そんな初心な弟に、先生は容赦なく言い放った。
「それで? お前はいったいいつまで、そこに突っ立っているつもりなのかな? こういう時は普通、気を利かせて席を外すものだと思うけど?」
「うえっ? あ、あの……その……」
「それとも何か? ——後学のために、私と彼女のまぐわいを見学したいとでも言うつもりなのかな?」
「ま、まぐっ!? い、いいいい、いえ! けけ、結構ですっ!! し、しし、失礼しまぁすっ!!」
可哀想に、アルフ殿下は今にも湯気を噴き出しそうな顔をして回れ右をしたかと思ったら、一目散に部屋から飛び出して行ってしまった。
それを見送った先生が、ははっと声を立ててさも面白そうに笑う。
随分と意地の悪い兄上である。