31 先生のワンニャン達
モアイさんこと近衛師団長モア・イーサンによる内偵調査の結果、ザラ・マーロウはモーガン家当主が城下町の一角に所有する別宅に住んでいることが判明した。ここ数ヶ月、愛人に連れられて頻繁に城にも足を運んでいるらしい。
ところが、ザラの所在が確認されたにもかかわらず、女王陛下は彼女を拘束することはなかった。
現状、一連の事件がザラの独断によるものか、それともモーガン家の意向によるものかが判然としないからだ。
もしも後者だった場合、モーガン家と親戚関係にあるボスウェル公爵家、ひいては王配殿下が関わっている可能性も零ではなくなってくる。
五年前の王太子暗殺未遂事件の際と同様に、女王陛下としては彼らを信じて無関係と断じたいのは山々だろう。
しかし、それによって先生ことクロード殿下が心を閉ざしてしまったことは、母親である彼女にとって堪え難いことだった。
同じ過ちを繰り返さないためにも、女王陛下は今回私に、王配殿下を見極めてほしいと依頼したのである。
「ボスウェル公爵のことはよく知らないので何とも言えませんけど、パウル様に裏はないと思うんですけどねー……」
私がベッドに座って足をブラブラさせながらそう呟いたとたん、背中を向けていた先生は首だけ振り返って片眉を上げた。
その青い瞳が私を見つめてすっと細まる。
「その根拠は? ……って、前もしたよね、こういう会話。何だっけ、バイトちゃんの勘だっけ?」
「それと、パウル様が前世のうちの父に似てて、悪人にはなれない類いの人間だと思うからですよ」
先生は白いシャツの上に金色のベストを着け、姿見の前で黒い蝶ネクタイを結んでいるところだった。
下には、黒い細身のズボンと同色のブーツを履いている。
私の言葉に、彼はふんと鼻で笑った。
「悪人になれない類いの人間、ねぇ。でも前世では、〝あんないい人が〟って周りから言われるような奴が、とんでもない凶悪事件を起こすこともあったよね? 悪人になるかどうかは生まれ持った性質だけではなく、外的要因が大きく関わってくる。ようは、きっかけ次第で誰だって簡単にダークサイドに堕ちてしまうということさ」
先生は姿見に向き直り、表地が赤で裏地が黒のジャケットを羽織る。
そうして、玉房結びのチャイナボタンを留めながら、鏡越しに私を見つめて続けた。
「もしかしたらパウルも、最初は純粋な善意と同情で母の腹にいる俺を助けたのかもしれない。けれど、アルフが生まれたことで状況は一変した。俺さえいなくなれば、自動的に我が子に玉座が回ってくるんだ。そうなることを望んだって仕方がないよね?」
「でも、それならもっと早く――それこそ、アルフ様が生まれてすぐに、先生を始末しようと動くんじゃないでしょうか? こんなに捻くれまくって知恵を付けた大人になってから狙うより、よっぽどやりやすかったでしょうに」
「捻くれまくってて悪かったね。まあ、バイトちゃんが言うように、パウルが根っからの悪人じゃなかったからこそ、なかなか踏ん切りがつかなくてここまでズルズルときちゃったのかもね。けれど、いよいよ女王の引退が近づいてきたものだから、俺を殺そうと躍起になり出したんじゃない?」
「でも、実際パウル様から殺意を感じたことなんてあります? 今世の生い立ちのせいで私、そういうのに敏感なんですよね。それに、先生を見る時とアルフ様を見る時で、パウル様の眼差しに温度差があるようには……」
その時、ピシリッと鋭い音がして、私はとっさに口を噤む。
すると、着替えが終わったらしい先生が、今度は身体ごと振り返って片眉を上げた。
「随分パウルの肩を持つじゃないか、バイトちゃん?」
「先生こそ、頑なすぎるんじゃないですかー?」
白い手袋を着けた先生の手には、棒状の柄に細長い革紐が付いた鞭が握られていた。さっきのピシリという音は、それで床を打った音だ。
最後にシルクハットを頭に乗せると、まるでサーカスの調教師のような恰好になった。
対して、私はというと……
「ああ言えばこう言う……まったく、にゃんにゃんうるさい猫ちゃんだね」
「にゃんにゃんなんて言ってないですし。そもそも、猫ちゃんなのは先生のせいですしっ」
「はいはい、にゃんにゃんにゃん。可愛いねぇ」
「だから、にゃんにゃんなんて言ってないですってば!」
頭には、黒い三角の耳が付いたカチューシャ。パニエでふんわりさせた膝下丈のブラックドレスの後ろからは、黒い尻尾が垂れ下がっている。
タイツも靴も、ロンググローブも真っ黒で、極めつけは真ん中に金の鈴が付いた黒いリボンのチョーカー。
完全に黒猫のコスプレですありがとうございます!
それを私に着るよう強制した先生は、調教師に扮して鞭を片手にニヤニヤしている。イケメンじゃなかったら完全にアウトだった。
先生ことクロード殿下が五年振りに家族と朝食を囲んだ日から数えて十日目。
今宵は皆既月食で、空には赤銅色のまん丸い月が浮かんでいる。
天文学が進んでいない時代、月が食われていくように見える部分月食もくすんだ赤色に見える皆既月食も、不吉なものだと考えられていたのは前世も今世も同じだ。
古い国家であるヴェーデン王国でも、皆既月食の夜は悪魔や魔物の行列――前世日本でいうところの百鬼夜行みたいなのにうっかり巻き込まれしまうのを恐れ、人間だとばれないように仮装をして過ごす風習がある。
とはいえ、現在では単なる仮装大会に成り果て、人々は思い思いの恰好をしていつもとは違う夜を楽しむようになったいた。
上流階級も例外ではなく、皆既月食の夜は王宮の大広間にて仮装舞踏会が開催される。
公務ではないために参加は任意だが、毎回ほぼ全ての王侯貴族が集まって賑やかな宴になっていた。
一方、先生ことクロード殿下は暗殺未遂事件以来、実に五年ぶりの参加となるらしい。
その目的は、ヴェーデン王国の要人が一堂に会し、かつ通常の舞踏会ほど堅苦しくない場に私を伴い、王太子妃として周囲に認めさせるというボスとの約束を果たすことだった。
「前世では、ハロウィンの日にコスプレしてばか騒ぎする連中のことがまったく理解できなかったけど……うん、なかなかどうして。悪くないね」
ブーツの踵をカツカツ鳴らして近づいてきた先生は、ベッドの縁に座っていた私をよいしょと抱き上げ、ふふふと笑う。
一見上機嫌な彼だが、私がボスに呼び出されてこっそり夜中にアンの家まで会いに行ったことを、十日経った今もまだ根に持っていた。すっかり信用をなくしたらしい私は、あの日の朝に宣言された通り、毎晩抱き枕代わりにぎゅうぎゅうされている。
私だって最初のうちは、セクハラだとかパーソナルスペースがどうとか抗議をしてみたものの、口八丁な先生相手では言い包められ言い負かされるのがオチなので、最近では大人しくされるがままになっている。
先生はそれをいいことに、だっこした私の背中を本当の猫のようにゆったりと撫でた。
「ちなみに、今夜は特別に、バイトちゃんに仲間を用意したよ。そろそろ仕度が済んで飛んでくる頃じゃないかな」
「へ? 仲間、ですか?」
満面の笑みを浮かべた先生に、私は訝しい顔をする。
そのとたん、バン! と大きな音を立てて扉が開き、何者かが飛び込んできた。
ちなみに、扉の前には近衛師団長のモアイさんが陣取っていたはずだ。そのため、飛び込んできたのはモアイさんが無害と判断して通した者か、あるいは彼の屍を越えてきた猛者かのどちらかだろう。
びっくりした私はとっさに先生の腕から飛び降り、スカートの下に忍ばせたナイフの柄に触れながら彼を庇うように立った。
「あにうえええええっ!!」
「ほら、きた」
はたして、突進するような勢いで駆け寄ってきたのは、今世の先生の弟であるアルフ殿下だった。
私や先生と同様に、これから王宮で開かれる仮装舞踏会に参加する彼の恰好はというと、キャメルのジャケット以外は、シャツもベストもズボンも、靴まで真っ白。
襟元にはネクタイの代わりに赤い革の首輪が嵌められている。
それだけなら、そういうファッションなのかと思わなくもないが……
「わ、わんこ……わんこだ……」
ジャケットの後ろからフサフサの茶色い尻尾が垂れ下がり、銀色の頭に茶色い三角の耳が生えているのを目の当たりにし、私は思わず叫んだ。
「完全に柴わんこですありがとうございますっ!」
「あはは、こっちもなかなか可愛いじゃないか?」
当のアルフ殿下本人はというと、私と先生の目の前に立ち尽くしてプルプルと震えている。
さしもの彼も、犬の恰好をさせられたのは屈辱だったのだろう。
私はゲラゲラ笑う先生を諌めようとしたが、アルフ殿下がバッと顔を上げる方が早かった。
「――あ、兄上に衣装を用意していただけるなんて、感激ですっ!!」
アルフ殿下は白い頬を薔薇色に染め、緑色の瞳を宝石みたいにキラキラ輝かせて、全身から喜びを迸らせる。
ジャケットの後ろから垂れ下がっているのがもしも本当の尻尾だったなら、それこそちぎれて飛んでいってしまうくらいにブンブン振られていることだろう。
私は思わず先生と顔を見合わせた。
「あれっ? 満更じゃなさそうな感じです!?」
「なるほど、これがバカワイイってやつかぁ」
かくして、調教師と黒猫と柴わんこという、統一性があるのかないのか分からないような三人組が出来上がる。
顔の上半分を覆う白いヴェネチアンマスクを着けた先生が、ピシリと一つ鞭を撓らせてから楽しそうに言った。
「さあ、そろそろ行くよ。私の可愛いワンニャン達」
「はいっ、兄上!」
「えー……」
時刻は午後六時。
仮装舞踏会の開始時間と相成った。




