23 暗闇の中の独白
静まり返った穴の中、サクサク、とクッキーを咀嚼する音だけが響く。
クッキーにはオレンジピールが練り込まれ、柑橘系のさわやかな香りとほのかな苦味を感じた。
私の指先で燃えるマッチの明かりを頼りに、小さなクッキーを大事そうに味わうアルフ殿下はどうにも憎めない。
「おいしいですか?」
「……おいしい。これを兄上が……。兄上は、菓子を作るのがお上手なんだな」
「お菓子だけじゃなくて、料理もお得意ですよ。ご存知なかったんですか?」
「知らなかった、何も。兄上は、私に詮索されることをひどく嫌っていらっしゃるから……」
アルフ殿下はしょんぼりと俯いてそう呟く。
けれどそれも一瞬のことで、すぐに顔を上げ、じろりと私に恨みがましげな目を向けた。
「兄上は、どうしてお前なんかを側におくのだろう」
「お前なんか、とは随分な言われようですね。アルフ様に私の何が分かるっていうんですか?」
「そ、それは……」
「苛立ちに任せて不用意に人を貶めるなんて、お馬鹿さんのすることですよ」
マウントにはマウントである。
挑発的な物言いにそれ以上の調子で返せば、アルフ殿下の威勢はたちまちへなへなと萎れた。打たれ弱いにもほどがある。
同い年のはずなのに、何だか幼い弟の相手をしているような気分になった私は、一個だけのつもりが結局五個――つまり半分ものクッキーを彼に分け与えてしまっていた。
サクサクサク……
お互い黙ったまま、最後の一枚を味わう。
やがて二本目のマッチが燃え尽き、辺りは再び真っ暗闇に包まれた。
私は三本目のマッチを擦ろうとして、ふと手を止める。代わりに口を開いた。
「アルフ様は、私生児であるクロード様が国王になることに不満はないのですか?」
「あるわけないだろう。父親が誰であろうと、兄上は兄上だ。私の、たった一人の兄上だ」
「自分の方が国王にふさわしいとは思わない?」
「思わない。思ったこともない。そもそも私は国王の器ではないのだ。そう自覚している。だが、兄上は賢くて冷静で強い方だ。私はただ、国王となった兄上のために働きたい……それだけなんだ」
お互いの顔も見えない暗闇の中で、アルフ殿下がとつとつと胸の内を吐き出す。
実のところ、私はこのハプニングを利用しようと考えていた。
アルフ殿下がもし、先生の今後にとって邪魔でしかない存在なら、この暗闇に彼一人を置き去りにすることもできる。
もっと言えば、スカートの下に忍ばせたナイフで息の根を止めることだって厭わないつもりだったのだ。
けれども、アルフ殿下はひたすら一途に兄を慕っているようだ。
その言葉に噓偽りはないと判断した私は、ジュッと三本目のマッチを擦って火を灯した。
とたんに眩いくらいに純真な眼差しとかち合って、思わず目を眇める。
アルフ殿下のこの好意を、先生がもうちょっとくらい素直に受け取れるようになれば、きっと今世は幾分生き易くなるに違いない。先生も、そして私も……。
そうとなったら、アルフ殿下は何としても生きたまま地上に連れ帰らねばならない。
俄然やる気になった私は、右手に火の着いたマッチを持ったまま、左手の指先を擦り合わせてクッキーの粉を落とす。
そして、指先についたクッキーの粉を名残惜しげに見つめていたアルフ殿下の右手を掴んだ。
「なっ……いきなり何だっ!」
「何って、マッチの明かりだけじゃ心許ないから手を繋いであげたんじゃないですか」
「み、みみ、未婚の男女がみだりに触れ合うなど、はしたないっ! お前は、兄上の婚約者という自覚があるのかっ!!」
「手を繋ぐくらいで何ですか。いつの時代の貞操観念ですか。大丈夫ですよ、兄上様も幼児と手を繋いだくらいで不貞を疑うような心の狭い方ではないです……たぶん」
私は最初に判断した通り、穴の奥に向かって歩き出す。
アルフ殿下も「たぶんって何だ! 幼児って誰のことだ!」とギャーギャーうるさく文句を言う割に、私の手を振り払おうとしなかった。
穴は、所々で横道に繋がっていた。
中には扉が付いたものもあったがどれも狭く、またその先が行き止まりではない確証もないため、私はとにかくひたすらまっすぐ道なりに進むことにする。
マッチが四本目に突入する頃になると、喚き疲れたのがすっかり大人しくなっていたアルフ殿下が、ポツリと小さな声で言った。
「私は……お前を兄上の側から排除しようとしていたんだぞ。それなのに、何故こんな助けるみたいな真似を……」
「クロード様にとって、あなたが必要だと思ったからですよ」
「兄上にとって、私が必要? 本当に……本当にそうだろうか……」
「あらら、意外。自信がないんですか?」
この時のアルフ殿下は、私の挑発に乗ってこなかった。それどころか、手を引かれるままに気持ち悪いくらいしおらしくついてくる。
そうして、やがて五本目を点火して、マッチの残りが少なくなってきたことに私が眉を顰めた頃、彼の独白が始まった。
「まだほんの幼い子供の頃……迷子になった私を、兄上が城に連れて帰ってくださったことがあったんだ」
好奇心旺盛な子供だったアルフ殿下は、こっそり護衛の目を盗んで城下町まで行ってしまったことがあるらしい。私も通った、あの路地の奥から城の裏へと繋がる道を逆向きに通ったのだろう。
そのまま迷子になってしまった彼を見つけたのが、先生ことクロード殿下だった。
「その頃の私は、兄上と自分の父親が違うなどと知りもしなかったし、それを悪く言う者がいるなんて考えたこともなかった。兄上は……たぶん、ご存知だったのだと思う。私や父に対して、すでによそよそしい部分があったから……」
どうやら庶子であることを理由に、当時まだ健在だった前国王――つまり祖父と折り合いが悪く、王宮に居辛く思っていたのだろう。先生は頻繁に城下町に足を運んでいたようだ。
「それでもあの時……兄上もこうして私の手を引いてくださった。泣きべそをかく私の頬を、呆れた顔をしながらも拭ってくださって……それが、幼心に嬉しくて嬉しくて……」
今でも忘れられないんだ、と噛み締めるように言うアルフ殿下の目は潤んでいるように見えた。
けれどもすぐに、両目が伏せられる。
こんな足元の覚束無い状態で目を瞑るなんて不用意だと思ったが、私は黙って手を引き続けてやった。
「それなのに、正式な夫婦の子であるという理由だけで、私を国王に押し上げようとする者は後を絶たない。私の存在そのものが、兄上を煩わせ傷付けようとする。それが……辛くてたまらない」
彼は絞り出すような声でそう告げると、ぎゅっと私の手を握る。
痛いくらいの力に驚いて振り返れば、マッチの炎に照らされた緑色の瞳が縋るように私を見つめていた。
「お前は……どうか兄上を裏切らないでくれ」
「そんなことしませんよ」
迷わず即答した私に、アルフ殿下は初めてほのかな笑みを浮かべる。
第一印象ではあまり似ていない兄弟だと思ったが、この時の彼の笑顔は今世の先生のそれとそっくりに見えた。




