2 バイトちゃんと先生
「……っ、うっ」
「あわわわわっ」
溢れ出た血で、私はうっかり手が滑りそうになった。
思わず柄を握り直せば、その震動が傷に響いたのだろう。先生が顔を顰めて呻いた。
その額には脂汗が滲んでいる。
刃は短く、それ自体の殺傷能力はあまり期待できない。
しかし、先生はキングサイズのベッドの上に仰向けに倒れ込んだ状態で、腰の辺りを跨いで伸し掛かる私を払い退けることも、脇腹に刺さったナイフを抜き取ることさえできない様子だった。
やがて、ぜいぜいと呼吸まで荒くなり始めた彼が、忌々しげにちっと舌打ちをする。
「……っ、くそ……最悪な気分だ……さては君、刃に毒を仕込んでいたね?」
「すごい、まだ喋れるんですか? 普通の人なら即死するレベルなんですけど……さすがは先生、しぶといですね」
「そういう、バイトちゃんは……っ、相変わらず、辛辣だ、な……」
「ええ? 褒めてるんですよ? だってコレ、ゾウでも一発でコロリと逝くと評判の、森の魔女の新作ですもん」
森の魔女というのは、この国――ヴェーデン王国の国境沿いに広がる深い森の奥に住む老婆アンの通り名だ。真偽のほどは分からないが、本人曰く何度も転生を繰り返しながら千年近く同じ場所で暮らしているとのこと。
魔女といっても彼女は魔法を使えるわけではなく、主に薬草を育てて生計を立てている。
薬と毒は紙一重。
森の魔女は薬も作るが毒も作るため、裏社会においても大変重宝される人材だった。
そんな人物から毒を調達した私の今世の名は、ロッタという。
残念ながら、前世で自分が何と名乗っていたのかは分からない。
思い出せたのは、先生に雇われていたことと、穏やかな父とのほほんとした母の一人娘として平々凡々と生きていたことくらいだ。
一方、今世の私は一変して、グローバルに活躍する反社会的勢力マーロウ一家の一員となっている。
売られたのか誘拐されたのかは知らないが、とにかく赤子の時分に一家に引き取られ、彼らの手駒となるべく育てられたらしい。
幼少時代の過酷な日々は、お豆腐メンタルな今の私では所々モザイクを入れてダイジェストで思い出すのがやっとだ。
ただし、前世を鮮明に思い出した今となっては、まるでスイッチが入れ替わったみたいに、今世のここまでの人生はどこか他人事のように感じられた。
今の年齢は十九歳。幸か不幸か、前世の享年と同じだ。
マーロウ一家の人間として、そろそろ一人前になろうかというこのタイミングで舞い込んだのが今回の仕事――初めての暗殺任務である。
ターゲットは、ヴェーデン王国の第一王子であり、次の国王となることが約束されているクロード・ヴェーデン王太子殿下、二十五歳。
それが前世の雇い主の生まれ変わりであると気付いたのは、私室に一人きりだった彼にナイフを突き刺した直後だった。
いつの間にか月も去り、大きな掃き出し窓に掛かったカーテンの向こうは真っ暗。
壁掛け時計を見れば、日付が変わるまで残り半時間といったところだ。
「もっと早く先生だって気が付いていたら、さすがに私も躊躇していたとは思うんですけどね。すでに刺してしまったからにはどうしようもないです。解毒薬は森の魔女しか作れないですし、そもそもこの毒、体内に入る前に抗体ができていないと中和が間に合わないそうですから」
「ふ……もう……手遅れと、いう、わけか……」
先生ことクロード殿下の命の灯火が消えるのも時間の問題だった。
私はせめてもの慰めに、彼の脇腹からナイフを抜いて血を拭い、清潔なハンカチで傷口を押さえて止血する。
すると、先生は薄く目を開けて私を見上げ、ねえ、と声を震わせた。
「冥途の土産に、聞かせてくれないかな。俺を……殺すよう、君に命じたヤツが誰、なのか……」
「えー、ムリムリムリ、ムリですよ。黙秘します。依頼者に関しては守秘義務があるのをご存知でしょう?」
「そう、か……黒幕が分からないなら恨みようがない……しょうがないから、バイトちゃんのもとに化けて出るとしよう……」
「え? ば、化けてって……?」
ぎょっとする私に、先生が畳み掛ける。
「言っておくが、全力で祟るよ? 毎夜夢枕に立つし、足を引っ張って寝かせないし、金縛りにも遭わせてやるからね。あと、君が鏡を覗く際には、百パーセント背後に立って映り込んでやる」
「えええ……古典的。やだなぁ、先生が言うと冗談に聞こえないですよー」
「冗談ではないからね。ほら、どうする? 早く言わないと死ぬよ? ああ……去年死んだ祖母が迎えに……」
「わー! わっわっ、待って待って! 待ってください! い、言うっーー言いますから、まだ死なないでえっ!!」
ターゲットに依頼者の名前を明かすなんてことは、もちろんタブーである。
ただ、先生が間もなく死ぬことは確定していたし、自分が手を下したという罪悪感も手伝って、私はついつい口車に乗せられてしまった。
「もしもですね、私が捕まってヴェーデン王国で拷問でも受けるようなことがあれば、依頼主は王位継承権第二位のアルフ王子――先生の弟さんだと言うつもりでした」
「ふうん……その言い草では、真犯人は弟ではないね? となると……弟の次に王位継承権を持つ叔父かな?」
「ブッ、ブーッ。残念、ハズレでーす。先生らしく、もうちょっと捻くれた答えがくると思いましたが、意外に単純なんですね?」
「……まどろっこしい……さっさと黒幕が誰なのか教えてもらえるかな? ほんとに死ぬよ? 今すぐ死ぬよ?」
苛々した様子で死ぬ死ぬうるさいせっかちな先生に、私もいい加減に焦らすのをやめて核心を告げることにした。
「依頼者は先生のーークロード王太子殿下の側近です。確か、十数年来の付き合いでしたっけ?」
私の言葉に、先生は絶句した。
それもそうだろう。真犯人が、今世の先生にとっては最も気の置けない相手だと聞かされたのだから。
先生ことクロード殿下の死を望んだのは、伯爵家の次男カイン・アンダーソン。今世の先生にとっては幼馴染にして大親友。将来国王として立つ彼を一番近くで支えてくれるはずの近衛師団長だった。
「……なぜ、あいつが?」
訝しい顔で問う先生に、私は肩を竦める。彼が裏切られた理由は、案外ありきたりなものだった。
「先生、婚約者がいるでしょう? ミッテリ公爵家の末娘。彼女とあなたの側近が、実はデキていたんですよ」
「は? 着飾って噂話をするしか能のないあんな人間、俺を殺してまで手に入れるほどの価値があるか? 欲しいというのなら、熨斗付けてくれてやったのに……」
「ぶっちゃけると、先生の婚約者は妊娠しています。彼らは〝亡き王太子殿下の子供を身籠った婚約者〟という肩書きが欲しいんですよ。そうすると、お腹の子供には王位継承権が発生しますからね」
「……そう、きたか」
クロード殿下とミッテリ公爵令嬢の婚約は、ヴェーデン王国内では周知されていた。
そのため、ミッテリ公爵令嬢のお腹に子供がいると判明すれば、父親は当然クロード殿下であると考えられるだろう。比較的貞操観念の高いこの国でも、婚約者同士の婚前交渉には寛容である。
しかし実際のところ、先生ことクロード殿下は、ミッテリ公爵令嬢とベッドを共にするどころかキスをしたこともないらしい。
彼らが初心なわけではない。親が決めた婚約者に対して愛情どころか興味すら持てなかった先生が、ミッテリ公爵令嬢のために自分の時間を割く気にならなかったからだ。
「先生がご令嬢にあんまり冷たくするものだから、それを慰めていた側近の方とくっついっちゃったんですよ。先生はもうちょっと、女心というものを勉強すべきだったと思います」
「男女にかかわらず、建設的な会話ができないやつの相手をするのは嫌いなんだよ……」
「それで? 当て馬にされた気分はどうですか、先生?」
「……聞くまでもないだろう……最悪、だな……」
カイン・アンダーソンとの関係を隠したまま先生と結婚したとしても、初夜と産み月の計算が合わなくなって、ミッテリ公爵令嬢の不貞が発覚するのは明白だった。
未来の王妃を寝取ったカインはよくて国外追放、最悪の場合は処刑だってあり得るのだ。ミッテリ公爵家もアンダーソン伯爵家も、社会的に死ぬのは確実だろう。
『クロード殿下さえいなければ……』
そう言い出したのは、追い詰められた男女のうち、はたしてどちらが先だったのだろう。
許されざる愛に狂った結果か、それとも単に保身のためにか。
何にしろ、彼らは先生の暗殺を決意したのである。
「つまり、首謀者はカインとミッテリ公爵令嬢だということか。その情報は確実なんだろうな? 証拠は?」
「マーロウ一家に実際に依頼してきたのは仲介人みたいですけど、黒幕はその二人で間違いないですよ。情報は確実ですし証拠もあります……っていうか、私が一週間王宮内を詮索しまくって集めました。場合によっては、うちのボスが後々それをネタに奴らを強請りますので」
「へえ、随分阿漕な商売をするものだ……」
「だってうち、反社会的勢力ですから。それに、人を呪わば穴二つって言いますでしょう? 何でしたら今後、カイン・アンダーソンとミッテリ公爵令嬢からは血尿が出るくらい財産搾り取って報いてやりますから、先生はどうか安らかに成仏してくださいね?」
「搾り取られた奴らの財産が、君が言うところの反社会的勢力の資金になると知っては、全然安心できないんだが……」
荒かった先生の呼吸が、だんだんと静かになってきた。
もう目を開けていることも侭ならないらしく、案外長い睫毛が血の気の失せた彼の頬に影を落している。
とたんに言いようの無い寂しさを覚えた私は、先生の頭を自分の膝の上に載せ、汗ばんだ黒髪を労るようにそっと撫でた。
最期の時は近い。きっと彼は日を跨ぐこともできないだろう。
バイトちゃん……、と虫の息の先生が口を開く。
「……俺を、恨んでいるか?」
唐突な問いに、私はとっさに首を横に振った。だが、目も開けていられなくなってしまった今の彼には見えていないのに気付いて、「いいえ」と口に出して返事をし直す。
すると、先生は震える声で問いを重ねた。
「うちの事務所で……俺のもとで、殺されたのに……?」
前世の私は、事務所を訪ねて来た男の手によって人生の幕を下ろされてしまった。
先生を逆恨みする連中にはそれまでも何度か遭遇したが、さすがに拳銃を携えてやってきたのは、その男が最初で最後だった。
あんな物騒な事務所のアルバイト、さっさと辞めておけばよかった、と前世を思い出した今となっては後悔もしている。
前世の先生に関しても、職業柄ある程度敵ができるのは仕方がないにしても、もうちょびっとくらい煽り体質を控えてくれればよかったのにと言ってやりたい。
それでも……
「先生を恨んだって、あの不本意な死に方が私の前世の結末だった事実は変わりません。終わったことをとやかく言ったってしょうがないでしょう? 未練がましいのは性に合わないんです」
私がそう告げると、先生は最後の力を振り絞ったかのように薄く目を開けた。
わずかに見えたその青を、私は深く心に刻み付ける。
先生、と続けた言葉は、不覚にも震えてしまった。
「今度生まれ変わる時には、あんまり恨みを買わない生き方をしてくださいね。ああ、いっそ、犬とか猫とかに生まれ変わって私のところに来たらいいんですよ。そしたら、私が一生可愛がってあげますからね?」
「……」
先生は何も答えなかった。おそらくは、もう喋る力もなかったのだろう。
ただ、口元が少しだけ笑ったような気がした。
先生の呼吸がさらに浅く、そしてか細くなっていく。
やがてそれが途切れるのを見届けて、私はぐっときつく両目を閉じた。
前世ーー事務所に押しかけてきた男に、応対に出た私は相手の顔を見る間もなく問答無用で胸を撃たれた。
男はしばらくその場に留まって、床に倒れ伏した私を見下ろしていたようだったが、やがて先生がいる部屋の奥へ向おうとする。
その足に縋って歩みを止めようとしたのは無意識だった。
私自身、命を賭して守ろうとするほど当時の先生に思い入れがあったわけではないから、きっととっさの行動だったのだろう。
しかし、敢え無く振り解かれた私は、床に転がり動けなくなった。拳銃で撃たれたことよりも、固い床に打ち付けた額の方がずっと痛かったのを思い出す。
それから、先生と男の間で何があったのかは分からない。
冷たい床の上で、私の意識はゆっくりと遠のいていき、どうやら自分は死ぬらしいというのを漠然と感じていた。
痛みは、すぐに分からなくなった。
ただ、寒くて寒くて、そしてひどく心細かったのを覚えている。
そんな時、ふと、温かくて大きな掌が、私の頭を労るように撫でてくれた気がした。
「あれって、先生だったんですか……?」
最期の瞬間に感じた、あの誰かの体温が、死出の旅路に差しかかった私を少しだけ安堵させた。
おかげで、絶命するその瞬間は、そんなに怖くなかったように思う。
だから今度は私が、自分の手によって死に行く先生の頭を、心を込めてそっと撫でた。




