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13 先生とボスと



 指令書というものは、情報漏洩防止のため読んだらすぐに処分するのが鉄則である。

 私ことマーロウ一家の秘蔵っ子ロッタも、今回のクロード・ヴェーデン王太子殿下暗殺任務の指令書を、スパイ映画さながら焼いて灰にしていた。

 そのため現物を確認することはできないのだが、指令書の最後に見慣れたマーロウ一家の刻印が捺されていたのだけは間違いない。

 その話を聞いて、テーブルを挟んで向かいに座ったボスは顎に片手を当てて難しい顔をした。


「何者かに刻印が偽造されたのか。あるいは――刻印の在処を知っている内部の人間の仕業か」


 そのまま思考の海に沈んでいくボスの顔を、私はしばし神妙な面持ちで見つめていたが、やがて視線は重力に従うみたいにテーブルに落ちた。


「……」


 ゴクリ、と喉が鳴る。

 テーブルの上には、焼きたてのパンがいっぱいに詰まった藤の籠が置かれていたのだ。

 バターがたっぷり練り込まれたクロワッサンに、レーズンとクルミがゴロゴロ入ったベーグルや薄くスライスされたライ麦パン。バケットの生地に切り込みを入れ、左右互い違いに開いて麦の穂みたいな形に焼いたエピの匂いは、挟み込んだベーコンの香ばしさと相俟って食欲をそそる。

 ほかほかと湯気を立てているこれらのパン達は、今し方アンが焼いたばかりの代物だった。

 焼きたてのパンの香りを嗅いで幸せな気分になるのは、きっと私だけではないはずだ。

 それなのに、肺一杯にその香りを吸い込んで恍惚のため息を吐いた私の脇腹を、咎めるみたいにツンと突く者がいた。

 隣に座った先生である。


「バイトちゃん、よだれ」

「じゅる……だって、美味しそうなんですもん」

「君がどんぶり並みの器で大盛り三杯白飯を食べてから、まだ一時間ほどしか経っていないと思うんだけど?」

「それは朝ご飯。今目の前にあるのはおやつです」


 先生が作ってくれた今日の朝食は、白飯、卵焼き、赤カブの浅漬けといった純和風のものだった。ここに味噌汁があったら完璧なのだが、さすがにヴェーデン王国に味噌なる調味料は存在しない。

 それでもぶれない私の食いっぷりを楽しそうに眺めるばかりで、先生はダイエット中の女子かと思うくらいの小食だった。

 今だって焼きたてのパンの香りに誘惑される素振りもなく、それどころかテーブルの上を胡乱げに一瞥しただけである。


「……君って子は、誰が作った料理でもいいんだな」

「えっ? もしかして先生、妬いてるんですか?」

 

 私の言葉に、先生がふんと鼻を鳴らす。

 けれどもヒソヒソ話もそこまでだった。

 思考の海から浮上してきたボスが、エピを千切って私の口元に持ってきたからだ。

 条件反射で開いた私の口にそれを押し込んだ彼は、とにかく、と話し始めた。


「偽の指令書がわざわざロッタに届けられたのだとしたら、誰かがお前を陥れようとした可能性が高い。用心のため、しばらく任務には出さないつもりだ。私と一緒に本家に戻って書類整理でも手伝いなさい」


 多くの組織がそうであるように、マーロウ一家の人間にとってもボスの言葉というのは絶対である。

 そのため私も、エピをもぐもぐしながらまたもや条件反射で頷きかけたのだが……


「んむっ!?」


 寸でのところで先生に頭を掴んで阻まれてしまった。

 頭を固定されてしまったため、目だけ動かして隣を見れば、先生は咎めるみたいに私の名を呼ぶ。


「――ロッタ」


 それにはっと我に返った私は、慌てて口の中のものを飲み込んでボスに向き直った。


「えーとですね、ボス。実を言うと、しばらく本家には戻れそうにない事情ができちゃいまして……」

「ほう、事情とは?」

「それが……なんだかんだで私、クロード様の婚約者になっちゃったみたいなんですよね」

「……詳しく話しなさい」


 私と先生が前世の知り合いだった、なんて話を現実主義者のボスはきっと信じないだろう。

 だから、一昨夜の出来事だけを報告する。

 依頼主であるカイン・アンダーソンが口封じのために私を斬り殺そうとしたこと。

 それをクロード王太子殿下が阻み、なおかつ私の所業を不問の上、周囲にもその正体を秘密にしてくれたこと。

 さらには、彼が今後の情勢を見据えてマーロウ一家と手を組みたいと考え、その橋渡しとして私を妃にすると決めたことを告げた。

 それを聞いたボスは、なるほど、と一つ頷く。


「まずはロッタにご慈悲をいただいたこと、誠に感謝申し上げます。殿下が次期ヴェーデン国王陛下として、我々との同盟を望んでいらっしゃることも承知しました。ただ――」


 ここで一度言葉を切ってから、ボスは先生をひたりと見据えて続けた。


「ロッタを妃に、というのはいささか突拍子もない話に聞こえます。橋渡しとおっしゃいましたが、むしろ人質ではございませんか?」

「人質だなんて、とんでもない。私の妻として、最期のその瞬間まで大事にするとお約束しますよ」

「ヴェーデン王国の王太子ともあろうお方が、まさかこんなどこの馬の骨とも分からぬ娘を見初めたとおっしゃるのですか?」

「ええ」


 先生が、澄ました顔をして頷く。

 するとボスは、その肩書きに似合いの酷薄そうな笑みを浮かべて畳み掛けた。


「先に申し上げておきますがね。ロッタが実は、いずこかの止ん事無きお方の落とし胤、なんて可能性は万が一にもございませんよ? これは、東端の国の寂れた村で口減らしに出された農家の末子です。私の父親が、この赤い目を気に入って気まぐれに拾ってきただけ」

「えっ、それ初耳なんですけど!? っていうか、人の出自をそんなさらっと暴露しないでくださいようっ!!」


 思わず椅子から立ち上がって抗議する私の頭を、向かいから伸びてきたボスの手が鷲掴みにしてぐっと下に押す。どうやら、私のターンではなかったらしい。

 自分のプライベートな話なのに口を挟ませてもらえないなんて、理不尽にもほどがある。

 ボスは不満げな顔をした私を強引に椅子に座り直させ、おざなりに宥めるみたいに頭を撫でてから続けた。


「そのまま放置されていたこれに、私が気まぐれにヤギの乳を与え、カラスが餌を分けて育てたのです。ご存知の通り食い意地が張っていたおかげで、劣悪な環境でも逞しく生き抜いて参りましたがね。そんな畜生にも等しい娘を一国の王太子妃に――ひいては王妃にしようと、本気で考えておられるのですか?」

「生まれや育ちなんて、どうだっていいんです。私とて、所詮は平民を父に持つ私生児ですから」

「ふむ……確か、殿下の御父上はヴェーデン王国の元近衛師団長であらせられたか。大陸中に名を轟かせる高名な剣士で、女王陛下との仲を咎められて祖国を追われた後も傭兵として引く手数多であったとか」

「生憎、父の外聞になど興味はないのです。ただ、立場を弁えずに感情に流され、結果私みたいな存在をこの世に生み出してしまったことを恨むばかりでした」


 実父に対する先生の辛辣な言葉に、ボスは小さく片眉を上げる。

 それを真正面から見据えた先生は、ボスが適当に撫でて乱した私の髪を整えながら、けれど、と続けた。


「ロッタと出会って初めて、私は〝立場を弁えずに感情に流される〟という感覚を知りました。寝首を掻きにきたロッタを見たとたん、彼女しかいないと思ったのです――ようは、一目惚れですね」

「自分を殺そうとした女に惚れた、と? これはこれは酔狂なことだ」

「私の寵愛を欲して媚を売るしか能のない貴族の女どもよりずっと素直で愛らしく、そして生き生きとしていた。ロッタと一緒なら、私はきっとこれからどんな困難があっても乗り越えていけるような気がするのです」

「おやおや……うちの子を、随分と買い被ってくださいますね」


 不覚にも、私はこの時ドキリとした。

 ボスを説得するためのレトリックだと分かっていても、一目惚れしたとか愛らしいとか言われて何だか照れくさくなってしまう。

 そんな乙女の気も知らず、先生の舌は早朝にもかかわらず絶好調だ。

 ほんのりと頬を赤らめる私の肩を抱き寄せて、さらに言い募る。


「私生児として生まれ、これまで侭ならない人生を送って参りました。せめて一生添い遂げる相手くらい、自分で選びたいのです。どうか、ロッタを私にいただけませんか?」


 先生がいよいよ、結婚の許しをもらいに彼女の実家を訪ねた彼氏みたいになってきた。

 とはいえ、前世の彼と私は雇い主とアルバイトという関係でしかなかったし、今世なんて一昨夜出会ったばかりの間柄。前世の記憶を共有しているという連帯感はあるものの、お互い恋愛感情は抱いていない――はずだ。

 そのため私は、先生とボスのやり取りをどこか他人事のように眺めていた。

 そんな中で、ふと前世に思いを馳せる。

 私は一人娘で、母はもとより父にもたいそう愛されていた自覚があった。

 それなのに、成人も迎えないまま凶弾に倒れてしまって、父と母をいったいどれほど悲しませてしまったことだろう。

 自分が死んだ後の両親を思うと、ぎゅっと胸が苦しくなった。



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