1 最悪の再会
夜露で濡れた芝生を慎重に踏みしめ、足音を殺して歩く。
履き慣れない黒のパンプスが、私の足には少しだけ大きかった。
目の前に聳え立つのは、荘厳な建造物。その出入口や要所では、腰に剣を提げた衛兵が立って周囲に睨みを利かせていた。
私は彼らの視界に入らないよう慎重を期しつつ、こっそりその建物の壁をよじ登る。
身の軽さには自信があった。
その上、衛兵の視線を潜り抜けて飛び込んだ二階の部屋が長らく空室なことも、たまたま、偶然、ゆくりなく知っていたし、その大きな掃き出し窓の鍵だって持っていたのだ。
人目に触れずに忍び込むのなんて簡単だった。
無人の室内に立てられた姿見で身なりを整えた私は、人気がないのを確認してから二階の廊下に出る。
そのまま何食わぬ顔で歩いて、三階のとある一室を目指した。
途中で人と擦れ違うこともあったが、私という侵入者を見咎める者はいない。
それもこれも偏に私の恰好――黒いワンピースの上に白いエプロンドレスを重ねた、この建物に仕える侍女のお仕着せのおかげだった。
そうして、無事目的の部屋に到着した私は、たまたま、偶然、ゆくりなく、衛兵が席を外していた豪奢な扉をそっと開いて中へと滑り込む。
部屋の主はすでに眠りに就いているのだろう。灯りは点いていなかった。
ただ、カーテンの隙間から差し込む月の光のおかげで、ベッドが膨らんでいてそこに誰かが横たわっているであろうことは見て取れる。
私は音を立てないよう細心の注意を払って扉を施錠すると、お仕着せのワンピースの下に右手を入れ、隠し持っていたものを逆手に握った。
抜き足、差し足、対象へと近づく。
はたして、広過ぎるベッドですうすうと寝息を立てていたのは若い男だった。
私は、それが思った通りの相手であるのを確認し――
(――ぃよしっ!)
そう心の中で一つ、自分を鼓舞するように呟いてから、目の前の上掛けをむんずと掴む。
それを勢い良く引っ剝がすと同時に、ベッドに横たわっていた人物の身体に馬乗りになって、間髪を入れず右手を振り下ろしたのだった。
ところがである。
「「――えっ?」」
目と目が合った、その瞬間。
目の前にいるのが前世において自分と関わりのあった男――その生まれ変わりであると、私は唐突に理解した。
頭の中が彼に関する情報で溢れ返り、パズルのピースが一つ一つ嵌まるようにして前世の記憶が完成していく。
茫然とした心地のまま、私は口を開いた。
「せ、先生……ご無沙汰してます……」
「……ああ、バイトちゃん……君か……」
相手も驚きを隠せない様子ながら、記憶の中にあるのと同じように私を呼んだ。
前世の私は、大学に通う傍ら、目の前の男のもとで事務のアルバイトをしていた。
先生と呼ぶのは、彼が繁華街の大通りに面したそこそこ家賃が高いオフィスビルの三階に事務所を構える弁護士先生だったからだ。
若いが遣り手と評判で、私が知る限り仕事が途切れたことがなかった。
しかし、忘れてはならない。勝者の影には常に敗者が存在するのだ。
敗者の憎悪は勝者ばかりでなく、時に勝訴を捥ぎ取った弁護士にも向かう。
事務所に脅迫電話がかかってくるのなんて日常茶飯事。
包丁を持った男が押しかけてきた時には、私もさすがにやべー職場だと感じた。
先生が、私を名前ではなく「バイトちゃん」なんて呼んでいたのも、前述のような理由でアルバイトがすぐに辞めてしまうから。先生なりの線引きらしい。
もちろん私だって、身の危険を感じてアルバイトを辞めようと思ったことは何度もあった。
それでもなかなか踏ん切りがつかなかったのは、給料が相場よりずっと良かったからと、性格に問題があっても先生が結構なイケメンだったからと――何よりあの職場、賄いが出たのだ。
一人暮らしが長くて料理も得意な先生にとっては、一人分作るのも二人分作るのもさほど労力は変わらないらしい。
大学進学を機に地方から出てきて一人暮らしを始めた私にとって、それはとてつもなく魅力的な待遇だった。
そんなこんなで、不覚にも先生に胃袋を掴まれてしまった私は、だんだんと危機管理能力が鈍っていったのだろう。
さっさとアルバイトを辞めなかったことを、後々死ぬほど後悔することになった。
その時の記憶がまざまざと甦ってきて、思わず手に力が入る。
「……っ」
とたんに、先生の端整な顔が歪んだ。
ところで、〝先生の〟とは言ったが、今私の目の前にある男の容貌は記憶の中にある先生のそれとは随分と異なっている。
前は黒い髪と焦げ茶色の瞳の、ごくごく一般的な日本人の色彩を纏っていた。
一方、今は髪こそ黒色だが、瞳は澄み渡った空みたいな綺麗な青色だし、何より顔立ちが人種レベルで違う。まあ、どっちも結局はイケメンなのだけれど。
白いナイトシャツの下にゆったりとしたズボンという寝衣姿は、いつもかっちりとしたスーツを着込んでいた前世の彼とは随分と印象が異なる。
それでも不思議なことに、私は目の前の男と記憶の中の先生が同一人物であると確信していて、疑おうという気さえ起きなかった。
それに、以前と見た目が違うのは先生だけではなく……
「君、何て髪をしているの。こんなに脱色してしまったら傷むじゃないか。この不良娘め」
「いや、髪を脱色したくらいで不良呼ばわりされたらたまんないですよ。そもそも、今のコレは生まれつきですし……」
前世のカラスの羽根みたいな色から、白に近い金色になった今世の私の髪をさらりと撫でて、先生は説教くさい顔をする。
当方の顔立ちも前とはまったく異なっているはずなのだけれど、先生も私を〝私〟として当たり前のように認識しているみたいだった。
ちなみに、今の私の瞳は赤銅色。どこか禍々しさを覚える夕焼けみたいな色だ。
夕空と青空――そんな対照的な瞳の色をした私と先生は、二度目の人生においてこうして思いがけない再会を果たした。
ただし、はっきり言って、タイミングは最悪だった。
「先生、せっかくの再会の場面でこんなことを言うのはとっても気が引けるんですが――死んでください」
「気が引けるという割には、随分はっきり言うんだね」
私の右手には小型のナイフ。
刃の部分は先生の左脇腹に突き刺さっていた。