完璧な食事
結論から言えば、万民にとって完璧な食事などというものは存在しない。少なくとも、具体的に、何らかの一つのメニューとしては存在しえない。
人の好みは千差万別で、体質もそれぞれに違う。例えば、小麦アレルギーの人間と、蕎麦アレルギーの人間では食べられるものが異なるというのは明らかだろう。甘いものが好き、辛いものが好き、酸味があるものが好き。文化によってマナーは異なる。だから、万民の求める完璧などというものはない。
完璧な食事、優れた食事というものが定義されうるとしたら、それは多分に概念的なものになるだろう。私はその条件を「食事者にとって快いものであり、必要な栄養とエネルギーを十分に補えるもの」と定義したい。そして、それが具体的な形になった時、それぞれに異なっているというのは、先に言った通りだ。
食事のマナーであれ、料理そのものであれ、何を快いと思うかは人によって違う。極端に言えば好き嫌いの話であり、あるいは体質の話であり、あるいは宗教などの信念の話である。何を良いとするか/悪いとするか、は個の自由だが、他者に押し付けることは他の自由の侵害であり、好ましいことではない。
とりあえず、人間という同種の動物である以上、健康的な生活を送るために必要な栄養素は基本的には同じだ。個の健康状態によって増減はあるだろうし、年代や体格によって必要なエネルギー量は異なる。それでも、どんな人間にも必要な栄養というものはある。そもそも人間は雑食性の生物なので、栄養学的に言えば、(何の障害や病気もないと仮定するなら)肉も魚も野菜も穀物もバランスよく摂取するのが一番良いに決まっている。確かな医学や栄養学の知識のない食事療法など、くそくらえである。それはただの疑似宗教だ。
例え、その料理が栄養的に優れていたとしても、食べることに苦痛を伴うのであれば、それはその人にとって良い食事ではない。逆もまたしかりである。まあ、栄養的に不足している分をサプリメントなどで補うのも、本人がそれを是とするのであれば、それはそれで良いのであろう。
私は、食事という行為そのものをあまり好んでいない。何故と言われても、好ましく思えないのだから仕方ない。満腹感を充足的な好ましい感覚として感じられないからかもしれない。元々、食事というものに対する評価が悪いので、料理であれ、マナーやその他の雰囲気などの付随するものであれ、苦痛になる要素が少しでも増えると、途端に食事が苦痛になる。苦痛になる食事を行うぐらいなら、空腹を無視する方がマシという気持ちになる。一応、人が生きるために食事が不可欠なものであることは承知している。
食事を栄養とエネルギーの摂取と定義しても、それが生きていくために必要な行為であるという以上のことは言えない。そして、大抵の人間にとっては、それだけでは説明しきれないものであるらしい。私にはよくわからないが。
食べるものがその人間を作る。極めて即物的な意味で言ってもいいが、概念的にも影響はあると思う。草食動物と肉食動物では、生き残るために適切な行動は異なる、とかそういう話である。草食動物はいち早く危険を察知して回避する必要があるし、肉食動物は獲物を見つけて狩り、また手に入れた獲物を奪われないようにしなければならない。まあ、人間は雑食なので、採取も狩りもするのだが。聞いた話によると、肉食をしない人間は肉類に主に含まれるある必須栄養素の不足により攻撃的になることがあると聞く。狩り≒肉食によって解消されるべき攻撃衝動を持て余すということだろうか?否、妄言だ、忘れてくれ。
人間が、というか生物が生きるために他の生物の命を食べる必要があるということは一つの事実だ。だが、それを過剰に持ち上げたり忌避したりするのは何か違うんじゃないかと思う。呼吸よりは能動的にやることだというだけで、食事は人が生きるために必要な行為だ。食を断てば、人は死ぬ。そこに余分な意味を見出すのは、それは宗教の領域だろうと思う。
人に限らず、生き物がそれを食べられるもの、と認識するのは、幼少期に食べたもの、食べられるものと教えられたものであるらしい。そういえば、私も知識として食物であることは知っているが、食物として認識できないものがある。青い水分が出てくる茄子の漬物だ。そういえば、アレはうちの食卓に並んだことのない食物だった。