⑶関ゆかり
⑶【関 ゆかり】
麻美ちゃんが出て行った保健室はまた普段の静寂を取り戻した。まだ私の手の中には麻美ちゃんの温もりが残っている。
私の疑念がもしも、もしも間違っていたならば。おそらくここまで来てそんな事はないだろう。でもこの際、きちんと確認しておきたかった。閉ざされた奥のベッド。カーテンは開けずに声を掛ける。
「ねぇ、しのぶくん」
中から呻き声が聞こえた。彼なりの返事だ。
「しのぶくんは、麻美ちゃんだけから血を吸っているんだよね」
しばらく間が空いて中から小さな声が聞こえた。
「ごべんえ……」
違和感を抱いたのは放課後の協力の順番が変わってからだった。私が知る数年の中では順番が変わるどころか、そんな提案が出た事すら一度もなかった。それにも関わらず起きた変更。
順番を変更しようという提案自体は何らおかしくない。まだ到底大人に満たない利己的な子供達なのだ。同じ順番で協力を続けるのは不平等だと言い出す者も出るだろう。私が引っ掛かったのは順番変更の提案自体ではなく、そのタイミングと変更後の順番だった。数年続いた順番を変更したのは転入生――麻美ちゃんが来た翌日から。そしてその変更後の順番は麻美ちゃんが先頭。これは明らかに不自然だった。偶然で片付けるには、どうにも出来すぎている。
麻美ちゃんと帰るときに、どうして順番が変わったのかそれとなく探りを入れてみた。
麻美ちゃんは言葉を選びながら「私もやっぱりクラスの一員だから。みんなにも協力しないといけないと思って」と早稲本くんから聞かされた順番の公平性の話を教えてくれた。
出席番号で協力の順番を決められ、それをずっと続けさせられているのは不公平。だから順番を変えよう。早稲本くんの提案は尤もだ。しかし、それならば何故順番が名前のあいうえお順になったのか説明がつかない。
例えば早稲本くん。フルネームだと早稲本遼。『ワセモト』と『リョウ』なので、あいうえお順に並べていけば苗字にしても名前にしてもほぼ最後だ。出席番号順では公平性が保たれていないから順番を変えようというのに、苗字のあいうえお順から名前のあいうえお順に変えただけでは、順番がほぼ変わらない人間だって出てくる。順番変更の根幹にある公平性は保たれていない。真の平等を目指して順番を変更するのならば、出席番号順を逆にすればいいだけだ。それなのに、そうならなかったのは何故か。他の生徒なら分からなくもないが、提案したのは頭の切れる早稲本くんだ。私でも気付くような矛盾に気付かないはずがない。
この変更には、この順番には何か思惑がある。私はその裏に何があるのか考え続けた。そして、いくつか気になる点を思い出した。
麻美ちゃんが転入してきた日。初めての協力の時に、他の生徒たちが行ってきたこれまでの協力の時間では見ることのなかった異変があった。しのぶくんが麻美ちゃんの血を吸った途端に暴れ出したのだ。
――うあ、あ、うあい、うああい。
しのぶくんは人間だ。拙いが「ありがとう」や「ごめんね」など、簡単なものであればある程度喋ることができる。長年一緒にいるうちに私が知ったのは、「う」と「あ」という発声は意味のないただの呻き声である事が多いが、他の音を使うときは言葉を話している時だという事だ。麻美ちゃんの血を吸った後、しのぶくんの口から漏れた言葉は呻き声だと思っていた。ただ、思い返してみれば「う」「あ」以外に「い」が含まれていた。しのぶくんが言ったあの言葉は、ただの呻き声ではなく、ちゃんとした言葉だったのではないか。
もう一つ気になる事があった。順番が変更されてからの協力の時間も私は麻美ちゃんに付き添っていた。そこで、また他の生徒が協力する時には起こらない事が起こり始めたのだ。
「……ごべんえ」
麻美ちゃんの血を吸った後で、しのぶくんはそう言うようになった。麻美ちゃんの時だけだ。これは何と言っているのか私にはすぐに分かった。「ごめんね」だ。しかし何故そんな事を言い出したのか分からなかった。罪悪感があるのなら他の生徒も同じだろう。どうして麻美ちゃんだけに言うのか。
そのうち「ごめんね」は先生によって「ありがとう」に変えられた。それでもやはりその言葉をしのぶくんが贈るのは麻美ちゃんだけだ。
しのぶくんの言った「い」の入った言葉。麻美ちゃんだけに欠かさず言う言葉。この違和感を紐解く答えをずっと探し続けて、私はようやく一つの可能性に至った。ただ、その可能性は絶対に信じたくないものだった。
とりあえずは私の推理が正しいのかどうか、一つずつ確かめていく必要があった。誰もいない保健室でしのぶくんの目の前に腕を差し出す。今までは外野でしかなかった私が初めてその舞台の中心に立った。恐ろしい、それが率直な感想だった。しのぶくんも普段血を吸うことのない相手だからだろうか、最初は戸惑っているようだったが、私が腕を引かない事を確認してゆっくりと血を吸い始めた。
痛い。みんな慣れているからだろうか。無表情でことを済ませていくクラスメイトの姿を見ていた私は、苦痛はないものだと思い込んでいた。とんでもない。しのぶくんの口なのか、それとも私の血液か。傷口に当たり続ける熱いものが私に継続的に痛みを与えてくる。逃げたかった。でも逃げるわけにはいかなかった。真実を確かめるために。
「う、うあい、うあい」
私の腕から口を離したしのぶくんが言った。普段は閉ざされた目を大きく見開いて。あの時と同じだった。どうしてしのぶくんが麻美ちゃんの血を吸って声をあげたのか、はっきりと分かった瞬間だった。
そしてクラスメイトのいくつかの変化も私を真実に導いてくれる材料になった。
最初の異変は、クラスメイト達がこぞって麻美ちゃんに優しくし始めた事だった。
私は都会で生まれた。しばらくは普通に生活をしていたが、一向に回復しない体調を見兼ねて母が移住を提案した。療養するには良い空気と良い水を兼ね備えた自然に近い環境が必要だ、との理由でこの村に住む事になった。
学校には馴染めなかった。しのぶくんへの協力に参加できない事も大きな理由としてあるのかもしれないが、この村で生活を続けるうちに別の理由に気付いた。純粋にこの村の人間は外部から来る人間を全く信用していないのだ。だから、麻美ちゃんが転入してきた日。麻美ちゃんの気持ちは痛い程に分かった。クラスメイトの反応は私が転入してきた時と全く同じだったから。やはりそこで感じたのは、協力ができるできないには関わらず、外部からきた人間に対してこの村の人間は一線引いて接すると言う事だ。協力の時間の後に保健室の外で会った早稲本くんも、やはり私たちを除け者にしたような態度だった。
だから、おかしいのだ。何故その反応がここにきて覆るのか。何故クラスメイトは麻美ちゃんに優しくし始めたのか。
他にもある。麻美ちゃんが来てからしばらくすると、男子達がサッカーをするようになったのだ。そんな事は今まで一度としてなかった。皆少なからず血を吸われる事で体調が悪かったからだ。
もう一度、記憶を呼び起こす。麻美ちゃんが協力をした時にしのぶくんが騒ぎ立てた。その日、確かに早稲本くんは私たちに言った。「走る元気なんてよくあるよな」と。つまりあの日までは、協力の後に運動するなんて事が有り得なかったということだ。ならばその後、今日までにあった変化とは。
簡単だった。変わったのは協力の順番だ。そこで私の中の疑念は全て繋がり、暗雲となって立ち込めた。私は一体どうすれば良いのか。数日間、頭を悩ませた。
麻美ちゃん。彼女の存在が今の私の生きる理由といっても最早、過言ではなかった。孤独と不安に押しつぶされそうな毎日の中で、麻美ちゃんは私に手を差し伸べてくれたのだ。
最初は麻美ちゃんの境遇に同情して、声を掛けただけだった。私自身、転入時に全く同じ不安を抱えていたからだろう。少し無理にでも明るく振る舞う事で不安を取り除いてあげられればいいな、と思って接した。私の表面上の気遣い。憐れみにも似た優しさ。そんな、まやかし同然のものに対して、麻美ちゃんは私を友達だと言ってくれた。私は驚いたと同時に嬉しかった。だけど、私だけが血を吸われない事を知られたら、きっと他のクラスメイトと同じように私には近づかなくなるだろう。そう思っていた。
結果は真逆だった。麻美ちゃんは特別扱いで苦しみから逃れている私と手を繋いでくれた。手を差し伸べてくれた。あの時は動揺を隠すために強がってしまったが、私は家に帰って泣いた。この村に来て、いや生まれてから初めてかもしれない喜びから生まれた涙だった。
麻美ちゃんだけでいい。私には麻美ちゃんだけがいればいい。私が麻美ちゃんを支えてあげるのだ。
それから私は毎日少しずつ、誰もいない時間にしのぶくんに血を与え始めた。
しのぶくんが言った言葉「うあい」。それは「うまい」だ。麻美ちゃんの血を飲んだ時、その美味しさにしのぶくんは驚いて騒ぎ立てたのだ。
それでは何故、麻美ちゃんの血は他の生徒と比べて美味しかったのだろうか。私は自分自身の血をしのぶくんに吸わせた事でその答えに行き着いた。
私がこの村に来て驚いた事の一つに、水道水の味があった。この村の水道水はこれまでいた都会とは違い、臭いも味もきつくとても飲めたものではなかったのだ。恐らくは同様に外からやって来た麻美ちゃんも飲んでいないだろう。しかし、村人達は何ら気にならない様子で水道水を飲料水として使っている。
血液とは、大半が水分だ。この村の普通ではない粗悪な水を飲み続けている村人と、それに比べて上質な水を飲んでいる麻美ちゃん。血液の味に違いが出ても不思議ではない。何より、私の血を吸ったしのぶくんが麻美ちゃんの時と同じ反応を示したことがその事実を裏付けている。そして、早稲本くんはあの日――麻美ちゃんが初めて協力した日に気付いた。麻美ちゃんの血が自分達のそれよりもしのぶくんに好まれているのだという事を。
この点は想像に過ぎないが、恐らくあの日私達が帰った後でしのぶくんは早稲本くんの血を吸わなかった。しのぶくんだって人間なのだ。美味しい血を飲んだ後で、不味い血など飲む気にならないだろう。早稲本くんはそこで先生に何があったかを教えられた。先生は与えられた役目から、しのぶくんの言葉がある程度わかる。すぐにしのぶくんが「うまい」と言ったことはわかっただろう。そして頭の回る早稲本くんは気付いた。血の美味しい麻美ちゃんを早い順番にすれば、しのぶくんは残りの生徒の不味い血を吸わないんじゃないかと。
出席番号順から名前のあいうえお順への変更を早稲本くんが提案したのは公平性を保つためじゃない。麻美ちゃんを一番にするためだ。麻美ちゃんを一番にすることができて、尚且つ、考え方が不自然でない早稲本くんにとって最も都合が良い順番が『名前のあいうえお順』だったのだ。早稲本くんはクラスメイトに根回しした上で、麻美ちゃんに提案を納得させ、その思惑の隠れた順番変更を実現させた。疑問に思っていたが、クラスメイトから順番変更に関して反対が出なかったのも、この流れであれば納得できる。
そして放課後の時間。麻美ちゃんだけが血を吸われるようになった。考えるだけで恐ろしい。血液の量も流石に他の約四十人分麻美ちゃんだけが吸われている訳ではないだろうが、吸われる量は多いはずだ。体調も芳しくないに違いない。そしてまず、みんながいるから、クラスメイトが吸われているから、麻美ちゃんは来たばかりのこのクラスの中で一番を引き受けられたのだろう。それが現実は自分しか吸われていない。知ってしまった時のショックは計り知れないだろう。残酷な言い方をすれば、麻美ちゃんはクラスメイトの為に捧げられた生贄ということだ。
血を吸われなくなった事で、他のクラスメイト達に変化が生まれた。男子達は協力の時間の後に、失う事のなくなった体力を運動に向け始めた。女子達はどうにか麻美ちゃんを毎日学校に来させようと仲良くし始めた。それだけじゃない。大賀さんが大雨の時にわざわざ麻美ちゃんを迎えに行ったのも、そう考えれば説明がつく。心配した声を掛けるのも、薬をあげるのも、家まで迎えに行くのも、全て麻美ちゃんの為じゃない。自分達の血を守る為の悪意の結晶だったのだ。
そしてここに来てしのぶくんが麻美ちゃんだけに言う「ごめんね」「ありがとう」の意味が分かった。しのぶくんは麻美ちゃんだけから血を吸っている事を詫びていたのだ。
非道な行為だった。しかし、この真実に行き着いたところで、結局血を吸われていない私には、搾取から逃れようとするクラスメイトを咎める権利などない。そう気付けば、私が麻美ちゃんを助ける為に何ができるか。答えは簡単だった。私の血は麻美ちゃんと同じく、他のクラスメイトと比べて美味しいはず。ならば、放課後の協力の時間の前に私がしのぶくんに血を吸わせれば、満腹にさせる事ができれば、麻美ちゃんが吸われる血の量は減るはずだ。そこで私は毎日少しずつしのぶくんに血を与え始めた。私には体調の問題がある。少しずつ体を慣らしていく必要があったのだ。
少しずつ、本当に少量ずつの協力だったが、やはり私の体調は悪くなった。ドクターストップを掛けられていたのは間違っていなかったらしい。私は人目を盗んで何度も気を失った。幸いな事に保健室にはベッドがある。寝ていても、普段からの体調不良くらいにしか思われなかった。
そして血を与える事が日課になったある日。私は血を吸わせている現場を麻美ちゃんに見つかった。血を吸わせた理由は上手く誤魔化せたが、そこで麻美ちゃんの何気ない言葉から別の真実を知った。
――朝の協力の時間。そう麻美ちゃんは言った。
しのぶくんは夜行性で夕方くらいまではずっと寝ている。だから協力の時間も放課後に決まっているのだ。朝の協力の時間なんてあるはずがない。では何故、麻美ちゃんは有りもしない『朝の協力の時間』があると思っているのか。簡単だ。吹き込まれたに違いない。
麻美ちゃんは通学に遠くからバスで通って来ている。辺鄙な場所なので学校に間に合う時間のバスも一本しかない。だから登校の時間を調整する事が出来ない。朝早く来る事が絶対にできない事を分かった上で、麻美ちゃんには分かりようのない嘘をついたのだ。架空の朝の協力の時間をだしにして、麻美ちゃんに罪悪感を持たせ、順番変更を承諾させた。嘘が明るみに出ることのないように、クラスメイト全員で嘘は共有されているのだろう。
その後に、念の為に麻美ちゃんの帰りの誘いを断ってまで保健室に戻って調べてみた。クラス全員が協力しているのであれば保健室に残されるはずの、傷を消毒したガーゼの残骸は麻美ちゃんの分一つを除いてどこにもなかった。
クラスメイト全員で悪意を持って麻美ちゃんを騙して、自分達の身代わりにしている。私達の血を吸っているのはしのぶくんじゃない。クラスのみんなだ。全てが繋がり、私の心の中の疑念の霧は真っ暗な闇に姿を変えた。
そして――たった今、しのぶくん本人の返事で、やはり私の推理が間違っていなかった事が証明された。
良かった。私の推理が間違っていなくて。
この状況は、麻美ちゃんにとっては悪夢のようなものだろう。でも、私にとっては少し違っていた。
麻美ちゃんは言った。境遇と経験。それらを共有しなくても人は仲良くなれると。でも、それらを共有できた方がもっと人は仲良くなれるはずだ。
血を吸われているのは、私達二人だけ。クラスメイトに外されているのも私達二人だけ。
私と麻美ちゃんは今、二人きりで境遇も経験も運命も何もかも共有している。麻美ちゃんと一緒に生きていけるのは私だけだ。私がずっと支えてあげる。私がずっと愛してあげる。
だから、これからはもっと仲良くなれるよね。麻美ちゃん。
終




