⑵ 若菜麻美
【若菜 麻美】
中学二年。学年やクラスでもだんだんと友達が増え、楽しくなってくる頃。そんな思春期の真っ只中に私の転校は決まった。きっかけはお父さんの転勤だった。新しい家のある町は、これまで住んでいた地域とは比べ物にならないくらいの辺鄙な土地にあった。
引越しの当日。引越し前から描いていた予想を裏切らない光景が私の目の前に広がっていた。舗装されていない泥道。木造の建物。テレビの中の世界でしか見たことのない自然の命が残された空間。感動もあったが同時に不安も私の心に芽吹いた。
一週間後。引越し後の整理も落ち着き、家周りの風景にも少しずつ慣れ始めた頃。私も
ついに学校生活を再開しなければならなくなった。元々学校が嫌いなんて事はないが新しい環境に飛び込むとなれば、やはり億劫になる。色々と考えているうちにあっという間に当日の朝になった。
新しい学校の制服はまだ準備できていないので、いつも通りの制服に身を包む。見栄えが前と変わらないせいか、これから別の学校の生徒になるんだという実感もあまり湧いてこない。ただ学校までの長い道のりの中でその実感はじわじわと形を成した。前の学校は家から徒歩でせいぜい十分もあれば着いていたが、今度の家から新しい学校へはバスでしか通えないようだ。しかもバス停までの徒歩で既に十分以上。さらにバスに乗って一時間以上もかかるというのだから、とんでもなく不便な場所に家を持ってしまったのがなんとなく分かる。
早朝のバスには私以外に誰も乗っていなかった。退屈と言えばそうかもしれないが、今は転校初日の挨拶を考える事に集中できる。何を話そうか。新しい環境に身を置くという経験に乏しい私にとってはなかなかの難題だ。ぼうっと考えながら車窓に映る景色に目をやる。広がる田んぼに畔道。生まれたばかりの朝日が浅い水面を煌びやかに照らしている。草木に目をやれば昨夜の雨の名残だろうか、葉の表面を滑る滴も陽光を内に孕み淑やかに輝いていた。都会暮らしから田舎暮らし。三百六十度の変化に戸惑いはあったが、この一週間で自然の美しさもわかり始めてきた。住めば都とよく言うがひと月もいれば私も居心地の良さに味をしめているかもしれない。
そうこう様々な思いを巡らせているうちに、バスは学校の目の前に着いた。覇気のない運転手さんに頭を下げてバスを降りると、校門の前にスーツを着た男性が見える。恐らく先生だろう。駆け寄ると男性は、にこりと微笑んだ。その笑顔は私の不安を拭い去るには十分な人懐っこさを持っていた。
「おはようございます。若菜麻美と申します。よろしくお願いします」
「おはようございます。丁寧な挨拶ですね。都会の子は挨拶をしないイメージでしたけど、偏見だったみたいですね」
私が何と返せば良いか思案していたのを勘違いしたのだろうか。先生が慌てたように付け加える。
「あ、失礼。申し遅れました。私、二年生を受け持ってます毒島です。若菜さんの担任にもなりますので、これからよろしくお願いしますね」
慇懃な礼に私も慌てて頭を下げた。前の学校に居た先生達は基本的に生徒に対してフランクに距離を縮めてくるタイプだったので新鮮に感じる。
「立ち話もなんですし中に入りましょうか」
先生に付いて校門をくぐる。人っ子一人いない校庭を見慣れていないだけだろうか、殺風景な校庭はどこか物悲しい雰囲気を感じさせた。校舎も白塗りの映える見慣れていたものとは真逆。自然の中に溶け込むような枯れた薄茶色の木造。薄汚れた靴箱を横目に中に入れば風一つで老木特有の軋みが耳に障る。入って数秒で失礼極まりないが、なんとも心許ない学舎だなぁ、と私は思った。これまた年季の入った廊下を進むとすぐに職員室に辿り着いた。生徒の数が少ないので無論、先生の数も少ないのだろう。使われていそうなデスクは四つほどしかない。
「まだ始業まで少し時間があるから座ってゆっくりして下さい。あとで教室で自己紹介をしてもらいますので、挨拶の内容でも考えておいてもらいましょうかね」
そうだった。バスの中で考えようと思っていたはずなのに結局、風景に目を奪われ忘れてしまっていた。バスの中での時間が一瞬だった事を思えば、この僅かな時間で納得できるような言葉が浮かぶはずがない。
結局はほぼ白紙に近い頭を擡げて私は先生と教室の扉の前に立っていた。
「大丈夫ですよ。うちのクラスの子達は思いやりのある良い子達ばかりですから」
強張った私の表情から心情を読みとってくれたのか、先生が私の肩に手を置いた。ほんの少しだけ、その温もりが私の中の張り詰めた空気を溶かしてくれる。
「行きましょう」
勢いよく開かれた扉に先生の背を追う形で続く。この町に来てから初めて感じる多人数の気配。緊張がそうさせるのだろう、体の底が、かあっと熱くなるのを感じた。まだ顔をあげなくて済む教壇までの数歩。まるで死刑台までの数歩かというくらいに心臓が大声で騒ぎ立てる。
「皆さん、おはようございます。数日前からお話ししていましたが、今日からこのクラスに新しい仲間が増える事になります。親御さんの転勤でこの町に引っ越して来た若菜麻美さんです。それでは自己紹介をしてもらいましょう。若菜さん、お願いします」
開始の合図を告げるかのように後ろで乾いた音がカツン、カツンと鳴り始めた。私の名前を黒板に書いてくれているのだろう。
一つ、深呼吸。ほんの一瞬目を閉じ、「大丈夫」と胸の中で唱えて顔を上げた。
「初めまして、若菜麻美と言います。この町に越して来たばかりでまだまだ分からない事ばかりなので色々教えて頂けると助かります。よろしくお願いします」
頭を深く下げる。心臓が耳のそばまで移動したのかという位に鼓動がうるさかったが、拍手が聞こえ始めると少し治まった。おこがましいかもしれないが、その拍手は私にとって歓迎のしるしに他ならなかったのだ。ただ、期待に弛んだ顔を上げた時、私の中の安心を違和感が遮った。
この町に来て初めて見る同世代。言うまでもなく制服が違う。生まれた場所や育った場所だって違う。だから近い年齢だとしても雰囲気が違うかもしれない、というのはなんとなく分かる。ただ、それだけでは説明できない違いが私と目の前の子達にはあった。簡単に言えばクラスメイト達の表情が異様に暗かったのだ。拍手こそしてはいるが、能面のような無表情を貼り付けた顔からは歓迎の意は少しも感じられない。一部の人間ならばわからない事もないが、全員が全員そんな顔をしている。そして一人一人が放つその濁った空気感が教室中に充満している。気味が悪い、というのが率直な私の感覚だった。
「それじゃ若菜さんの席ですが……。そうですね、一番後ろの席が空いているからあそこに座ってくれますか」
先生の示したのは窓側の一番後ろの席だった。一番後ろに行くまでの間もクラスメイト達の生気を失ったような表情は変わらなかった。転入生というもの自体に大した興味がないのだろうか。
席に辿り着いたところで、初めて私の席の隣に生徒がいることに気が付いた。
座っている状態でも分かるほどに小柄で華奢な女の子だった。私が彼女に抱いた第一印象は『白い子猫』。くりくりと大きな猫目にちょっと不健康そうな青白い肌。気怠そうな顔色を差し引いても可愛らしい部類に入る女の子だろう。席に着いて鞄を机の横に掛けると、すぐに彼女の声が聞こえた。
「初めまして」
周囲に聞こえないように配慮したのだろうか、かなり小さな声だった。それでも透き通った明瞭な声なのですんなりと耳に入る。
「初めまして。これからよろしくね。えっと……」
「私、関ゆかり。ゆかりって呼んで。私は麻美ちゃんって呼んでもいい?」
少し戸惑った。先ほど抱いたクラスメイトに対する印象が彼女一人によって呆気なく覆されたからだ。彼女は私の返事を聞くと満足げに幼さの残る八重歯を見せた。
「それじゃ、これで朝の会を終わります。一時限目のチャイムまでに皆さんちゃんと授業の準備をしておいてください」
先生が合図すると、一番前の席にいた男の子が号令をかけた。起立、礼、着席。腰を落とすと、とりあえずひと段落したという安心感に包まれた。が、そんな休憩も束の間、すぐに先生に呼ばれ廊下に出る。
「若菜さんには一時限目の時間は校内を巡ってもらおうと思います。勿論、授業を受けてもらってもいいですが、それよりもまずこの学校の事を知る方が先決かな、と私は思いましたので。若菜さんはどうですか?」
私にとっては有り難い提案だった。今の状態では体育館や理科室などのメインどころかトイレの場所すら危うい。
「私もその方が助かります。先に校内の事を知っておいた方が何かと捗ると思います」
「そうですよね。それでは一時限目は学校案内といきましょう。ただ、私はこのクラスで授業をしなくてはいけません。なので案内役を私以外にお願いしようと思います」
そう言って先生は教室の中に視線を移した。私が先生の目線を追うよりも早く人影が廊下に現われる。白い子猫のように見えた隣の席の女の子、ゆかりちゃんだった。
「若菜さんの隣の関さんです。関さんなら校内の事は知り尽くしてますし、案内人を関さんにお願いします」
「はい、先生。という訳で私が案内するからよろしくね、麻美ちゃん」
ゆかりちゃんは優しく微笑んだ。やはり少し表情に翳りはあるが、緊張続きの校内で唯一心が安らぐ。クラスメイトは勿論、先生も表情豊かではないので、笑顔自体に飢えてしまっているのかもしれない。
「あれ、もう仲良くなったみたいですね。それじゃ心配はなさそうだ。関さん、若菜さんの事をよろしくお願いします」
授業の準備があるのだろう。先生は笑顔で向かい合う私たちを尻目に職員室へと向かった。
そこでふと私の中に疑問が浮かんだ。ゆかりちゃんは授業を受けなくて良いのだろうか。まるで私の心を読んだかのように、絶妙なタイミングでゆかりちゃんが私の袖を引いた。
「まだ授業始まってないけど、麻美ちゃんさえ良ければもう学校探検に行かない? 意外とうちの学校広いから隅々まで見て回るのに結構時間かかりそうだし」
私が頷くとゆかりちゃんは遠慮がちに私の袖を引いて先導し始めた。
ゆかりちゃんの言う通り、学校はなかなか広かった。以前の学校よりも断然広い。元々は生徒が多かったらしい、とゆかりちゃんに説明を受け、なんとなく合点がいった。この町もかつては栄えていたのだろう。
色んな教室を時間を掛けて回った後でゆかりちゃんが案内してくれたのは屋上だった。屋上は施錠されていて生徒たちが自由に出入りできないイメージだったが、どうやらこの学校では違うらしい。校庭が一望できる金網の前、貯水槽の縁に二人で腰掛ける。
「これで校内は大体回ったかなぁ。ちょっと疲れちゃった。……どうだった? 都会の学校とはやっぱり違うよね?」
率直に抱いたスケールの違いを語ると、ゆかりちゃんは笑った。
「田舎は広いくらいしか取り柄がないからねぇ。でも麻美ちゃんもこれからその無駄にだだっ広いこの町で生活するんだよ。仲良くしてこうね」
そうだ。私はこれからこの町で生きていくんだ。まだ観光気分が抜けていなかった私はゆかりちゃんの言葉に自分の生活の変化を再認識させられた。と、同時に目の前で笑うゆかりちゃんの有り難さが身に沁みた。
「うん、ゆかりちゃんありがとう。私の方こそ仲良くしてね」
少し潤んだ私の瞳をゆかりちゃんは見逃してはくれなかった。
「どうしたの。泣いてるの?」
図星を突かれると感情は一気に溢れそうになる。自分で思っている以上に、クラスメイトの雰囲気に不安を感じていたのかもしれない。
「いや、あくびしちゃっただけだよ」
私の見え見えの嘘にゆかりちゃんは困った顔をしながらも頷いてくれた。
「ぽかぽか陽気だもんね。私も眠くなってきちゃうなぁ」
こういう時の見て見ぬ振りは逆に有り難い。弱い部分をさらけ出して甘えられる程、ゆかりちゃんとの距離を縮められたとは思えなかった。ただ内に秘めた蟠りはどうにか少しでも消化したかった。チャンスは今しかなさそうだ。
「そういえば訊いてなかったな。クラスのみんなは仲良いの?」
真意を悟られず事実を探るために私にできる精一杯の質問だった。脳裏にフラッシュバックする先程のクラスメイトの表情が私の声を変に上擦らせる。
「クラス? うん、仲は良いと思うよ」
誰もいない校庭に目を向けながら、ゆかりちゃんは言った。それまでと変わらず至って自然なトーン。ただ、私にはその言い回しが少し引っ掛かった。
――仲は良いと思うよ。
何の意図もない世間話の中であれば気に留めることもないだろう。でも今は違う。私はもう少し探りを入れてみようと思った。
「じゃあゆかりちゃんもみんなと遊びに行ったりするんだね」
私の言葉にゆかりちゃんはあからさまに俯いた。
「ううん、私は違うの」
「えっ?」
「クラスだったり、習い事だったり、会社とかもそうなんだろうなって思うんだけど、その中でどうして人は仲良くなるんだろう?」
疑問符に疑問符を重ねられて、私はなんと返せば良いのかわからなかった。ただゆかりちゃんは気にする風でもなく続ける。
「その疑問に対する私なりの答えはさ、同じ境遇や経験を共有するからじゃないかなって。辛い事や楽しい事を一緒に共有していくからお互いを知って距離を縮めることができるんじゃないかなって」
「そうかもしれないね。でも、だったらゆかりちゃんだってあのクラスの一員じゃない。それなのに『私は違う』って?」
「私ね。生まれた時から体が弱くて、病気持ちで、なかなか良くならなくてね。体調が悪くなることが多いからみんなと授業が受けられないんだ。今日は転入生……麻美ちゃんが来る日だって知ってたから朝礼の時間は教室に居たけど、普段は保健室で自分で勉強したり本読んだりしてるの。だから私はみんなと同じ境遇を共有してるわけじゃないんだよ。経験もね」
青白い肌。華奢な体。授業に参加せずに案内役を任された理由。ゆっくりしたペースの学校案内。そして屋上での休憩。そこで初めて私はゆかりちゃんの生活を理解した。
「でも……。それじゃ私はゆかりちゃんの言ってた説は違うと思うな。人と人が仲良くなるのに同じ境遇も経験も必要ないよ。だって私とゆかりちゃんはもう友達じゃない」
私の言葉にゆかりちゃんは驚いた表情を見せた。驚いていたのは私自身も同じだった。まさか初対面の女の子に対して私の口からこんなドラマみたいな言葉が飛び出すなんて。思いに身を任せて口を開けると、気づけばそう、言ってしまっていたのだ。
「ほんとに? 麻美ちゃんは私と友達になってくれるの?」
ゆかりちゃんの声は震えていた。
「それは私の台詞だよ。転入してきて右も左も分からない私と友達になってくれる?」
「もちろんだよ! 麻美ちゃん!」
言ってゆかりちゃんは飛びついてきた。ぎゅっと抱きしめるとゆかりちゃんの体温が伝ってくる。
「私は麻美ちゃんとは境遇も経験も共有できないかもしれないけど、何かあったら必ず助けになるからね」
ゆかりちゃんが涙混じりの声で呟いた。その時はなんとも思っていなかった。どうしてゆかりちゃんが『境遇も経験も共有できないかもしれない』なんて言ったのか。
言葉の意味がわかったのは、その日の放課後の事だった。
慌ただしくあっという間に一日は過ぎていく。六限が終わり、帰りのホームルームの時間。登校初日をなんとか無事に終えることができた、という安堵感が私の気を緩めていた。しかし気のせいか、一日が終わりに近づくにつれてクラス内の空気がどんどん淀んでいくような気がする。
教壇に立った毒島先生がチョークを手に取った。授業は終わったが、まだ何か連絡事項があるのだろうか。
先生が黒板に書いた文字は『共存共栄』の文字だった。私たちに向き直った時の先生の表情からは授業中とはまた違う真剣さが伺える。
「今日から若菜さんがこのクラスの一員になりました。なので、改めてこのクラスのもう一人の仲間についてお話をしておこうと思います」
先生がチョークを置いて言ったと同時に嫌な胸騒ぎがした。クラス全体が沈むように重い雰囲気に飲み込まれている。
「『共存共栄』。助け合って共に生存し、共に栄えるという言葉です。私はこの言葉こそ血の通った人間の本質でなくてはならないと思っています。だからこのクラスの皆さんにも『助け合い』を大事にしてもらいたい。困っている人がいれば迷わず手を差し伸べるようなそんな人間になってもらいたいのです」
一体なんの話なのだろう。既に一日を終えた気でいる私の耳にはその言葉の細部までを掴んで読み込む集中力は残っていなかった。そんな状態で急にこちらを向いた先生に名前を呼ばれて戸惑う。
「若菜さんは知らないと思いますが、このクラスにはもう一人仲間がいます。この場所で一緒に授業を受けることも遊ぶことも出来ませんが、歴としたこのクラスの仲間です。残念ですが、人間は生まれながらに皆平等ではありません。彼はハンデを持ってこの世に生を受けました。でも神様は彼を見放さなかった。周囲の人々の助けがあれば、そのハンデを克服できる。そんな慈愛に満ち溢れた人生を形作ったのです。だから若菜さん、あなたにも彼の手助けをして欲しいのです。いいですか? 困っている人に無償で手を差し伸べて欲しいのです」
あの落ち着いた様子の似合う先生が息を荒げて私に手のひらを向けるさまは鬼気迫るものがあった。そのおぞましいまでの熱量は私に躊躇する事すら許さなかった。私は言葉の意味の半分も理解できていないまま、無言で頷くことしかできなかった。
説明はそこまで。私は教室を出て行く先生とクラスメイトについて行くしかなかった。一体今から何が始まるのだろうか。頭を巡らせてみても到底思考は納得のいく答えまで及ばない。皆が足を止める。釣られて足を止め顔を上げた先は保健室だった。
先生は無言で扉を開ける。クラスメイト達は続かない。どういう事なのだろう、と考えていると先生が私だけを室内へと呼んだ。中へ入ると、ゆかりちゃんがいた。ゆかりちゃんが私を見るなり、小走りに近付いてくる。そのまま私の肩に手を置いて耳元で静かに、しかしはっきりと呟いた。
「今から見るものに絶対に驚いちゃだめ」
私の返答を聞かずにゆかりちゃんは体を離し、私の横に立った。表情が固い。朝までのゆかりちゃんとはまるで違っている。
「若菜さん。ここに彼はいます」
毒島先生の指差す先。保健室にある白いカーテンで仕切られたベッド。三つある中でも一番奥にあるその場所だけ、放課後になった今もきっちりと閉められている。
「親しみをこめて『しのぶくん』と呼んであげて下さい。そうすれば彼は喜んで若菜さんを迎えてくれるはずです」
そう私に向かって言った先生は次にカーテンの中に声を掛けた。
「しのぶくん。私達のクラスの新しい仲間を紹介しますね。開けますよ」
開け放たれたカーテンの中を見て、私は凍り付いた。
カーテンの中は想像より広く、ベッドだけでなく椅子やテーブルも用意されていた。そして、その椅子に異形の何かが腰掛けていた。その何かが作り物なんかではなく命ある生物だと分かった瞬間に全身が総毛立つ。服を着ている。辛うじて人間の形も保ってはいる。ただ、辛うじてだ。全身が打ち身に遭ったかのように紫色に変色し、皮膚は所々硬質化しているのかひび割れて盛り上がっている。髪の毛という髪の毛は抜け落ちているのか、それだけしか生えなかったのか、まばらになびいている。
目を疑うとはこういう状態を言うのだろう。まるでテレビ番組でいかがわしい心霊映像を見ているかのように目に映るものが信じられない。顔は肉で覆われていて目も鼻も見えなかった。しかし、皮膚の皺だと思っていた場所が大きく開き、中に光る鋭利なものが見え、そこが口なのだと分かった瞬間に私は戦慄した。
「だめっ」
声をあげそうになった瞬間、囁くような声が聞こえて強く袖を引かれた。横を見るとゆかりちゃんが口をきつく結んで首を横に振っている。
――今から見るものに絶対に驚いちゃだめ。先ほど聞いたばかりの台詞が頭に蘇る。驚いちゃだめだ。驚いちゃだめだ。訳も分からず私は歯を食いしばり、頬の内側を噛み潰した。そうでもしていないと、心の奥底から溢れだす恐怖を押しとどめておけなかった。
「あああぁ……ううあぁ」
声にならない不快な唸り声が耳に刺さった。会話も成り立たないということが分かると、恐怖感は一層、心の中で暴れ回る。
「しのぶ君も歓迎していますね」
そう言ってこちらを向いた先生は笑っていた。今日一日の中でも最も感情を剥き出しにした狂気じみた笑顔。違和感が確信に変わった瞬間だった。この先生は狂っている。
「しのぶくんの事について若菜さんにもお話ししておかないといけませんね。先ほど教室でも話しましたが、彼は生まれつき大病を患っています。ですから私達の助けがなければ生きていくことが出来ません。今、放課後のこの時間にクラスの皆でここに来たのは他でもない、しのぶ君への手助けをする為、命を助ける為なのです」
そこまで言い終えると先生は廊下に向かって声を掛けた。クラスメイトの女の子が一人保健室に入ってくる。その表情はやはり暗く、全体的に青ざめているように見える。
「他にも分からない事は沢山あると思いますが、重要なのは理屈ではなくて私達がしのぶくんの為に何ができるか、それだけです。なのでその手助けを実際に見てもらって理解して若菜さんにも協力して頂きます。蒼井さん、いつものようにどうぞ」
蒼井と呼ばれた眼鏡の女の子がしのぶくんの向かいの椅子に座る。表情にこそ動揺は表れていないが、丁寧に結われた三つ編みが僅かに身体が震えている事を物語っていた。そのまま躊躇する事なく、しのぶくんの顔の前に左腕を差し出した。
「しのぶくんが必要としているものは、私達の血液です。私達にとって血液とは生きる為に必要不可欠なものではありますが、幸いな事に私達のような健康体の人間であれば体内の十パーセント程度の血液、失っても何ら身体に影響はありません。すぐに生成する事もできます。ただ、しのぶくんは自身でそれが出来ません。ですから私達が少しずつ血液を分け与えてしのぶくんを支えてあげるのです」
献血をするという事なのか、と私が思考を巡らせている時、先生が言い終えたのを見計らってか否か、しのぶくんが蒼井さんの腕に食らいついた。
――理解が及ばなかった。目の前で人間には見えない何かが少女の腕から血を啜っている。じゅう、じゅう、と血液がしのぶくんの口内で滴る音が耳に染み込む。耐えられずに唇を噛んで目を閉じる。見ているだけで気が遠くなりそうだった。本能が意識を遮断しようとする中で、右手から伝わるゆかりちゃんの体温だけが私の心の拠り所だった。
音が止み、目を開けると先生が蒼井さんの腕をガーゼで拭いている所だった。終わると蒼井さんは何も言わずに席を立った。一体どんな表情をしているのか。気になったが、保健室を出るまで蒼井さんがこちらを振り返る事はなかった。
一人が出ると、次の生徒が入室してくる。そしてしのぶ君に血を吸われて出ていく。地獄のような光景だった。その光景の現実感の無さに圧倒されて、私は重要な事を忘れていた。
「さてと次は、早稲本君だから……その前に若菜さんに初めてのクラスメイトとしての
協力作業をやってもらいましょうか」
そう、私もこの列の中の一員になっているのだ。どこか作り物の映像を見せられているような。自分とは関係ない世界を見学させられているような。そんな錯覚に陥っていたが、私がここに連れてこられた理由は他でもない。クラスメイト――しのぶくんの救済の為だ。
これまでのクラスメイト達の見よう見まねで私は、しのぶくんの目の前の椅子へ歩を進めた。と、ゆかりちゃんが私の右手を離した。一気に不安に襲われ、ゆかりちゃんの方を振り返る。私の目をしばらく見つめた後で、ゆかりちゃんは先生の方へ向き直った。
「すみません、先生。麻美ちゃん、血が苦手みたいなんです。少しでも落ち着くように手を繋いでてもいいですか?」
「そうだったんですね。ええ、構いませんよ。ただなるべく嫌な顔はしないで下さいね。なんの罪もない、しのぶくんに必要のない罪悪感を抱かせたくありませんので」
そこで私はゆかりちゃんが言った「驚かないで」という言葉の意味がなんとなくわかった気がした。先生はしのぶくんに嫌悪の感情を抱く事をも許さないのだろう。先生への恐ろしさを感じつつも、機転を利かせ安心させようとしてくれるゆかりちゃんの優しさに私は涙が出そうになった。
席に座って――からの事は頭の中からすっぽり抜け落ちてしまったかのように記憶に残っていない。しのぶくんに腕を差し出した時の感覚。他人に肌を傷つけられた時の感覚。自分の中に流れる生命を奪われるような感覚。どれも一生物の傷となって残りそうな体験だったはずだが、脳が拒絶したのだろうか。今になってもその部分だけ全く思い出せなかった。しかし、その後。しのぶくんが私の肌から口を離した瞬間からはまるで刻印のような頭の中に焼き付いていた。
「うあ、あ、うあい、うああい」
また皺だと思っていた切れ目が大きく開かれて、その部分が目なのだと知った。しのぶくんは澱の沈んだ沼のように暗い瞳を見開き、大声をあげた。それまでのクラスメイトの献血の中ではなかった光景に私も思わず声をあげていた。
「しのぶくん! どうしたんだ! 落ち着きなさい! しのぶくん!」
私としのぶくんの間を素早く先生が遮った。暴れるしのぶくんを抑え、ゆかりちゃんに指示を出す。足がすくんで動けなくなった私をゆかりちゃんが力強く引っ張って、なんとか部屋を出るまでに至った。
「一体、何の騒ぎだよ」
保健室の入り口で私の次を待っていた男子が訝しげな眼差しを向ける。
「あっ、早稲本君。なんかよく分からないんだけど、麻美ちゃんの所でしのぶくんが騒ぎ出しちゃって……」
ゆかりちゃんの言葉も最後まで聞かずに、早稲本、と呼ばれた男子は私たちに向けて「退け」という意味を込めて手を払った。
「ちゃんとしのぶくんに協力はしたんだろ? だったら帰れよ。いつまでもここに居たって意味ないだろ」
悪意のこもった言い方だな、と率直に思った。言葉の端々に棘がある。しかしゆかりちゃんはそんな早稲本君の言葉など全く気にならない風で「そうだね。じゃあ私たちはお先に帰らせてもらうね。先生に訊かれたらそう伝えておいて」
それだけ言うと「行こっ」と私の手を引き、小走りで駆けた。「走る元気なんてよくあるよな」と後ろから声がする。少し離れてから彼が学級委員である事を聞いてこんな態度の悪い学級委員がいるのか、と驚いた。
帰り道、私はゆかりちゃんに消化し切れていない疑問をぶつけた。しのぶくんとは一体、何なのか。どうして生徒達が血を分け与えなければならないのか。ゆかりちゃんは動揺してまとまらない私の拙い話をゆっくり聞いて、丁寧に答えてくれた。
「しのぶくんは紛れもなく人間だよ。ただ原因不明の病で生まれた時からああいう感じだったみたい。夕方くらいまでずっと寝てるのと、あの外見と、血を吸う事以外は私達とほとんど変わらないよ。そのしのぶくんなんだけど、なんの因果か、この村で一番大きな家に生まれたんだ。こんな狭い村だからさ、権力者の家の力は絶大だよ。だから、しのぶくんは学校にとっても先生にとっても大切にしなきゃいけない存在なんだ。もし蔑ろにしているのが知られたら、たちまち首が飛んじゃうからね。それが私達同級生が血を分け与えないといけなくなってる理由にも繋がるかな。勿論、クラスのみんなも嫌だろうけど、それ以上にしのぶくんに血をあげなかった事をしのぶくんの家の人に知られるとね。やっぱりそこが村一番の権力者だから、従わない村人はどんな仕打ちを受けるか分からない。だからみんなこの村で生活してる以上逆らえないんだよ。この村で生きるためにはしのぶくんへの協力が絶対なんだよ」
しのぶくんの外見よりももっとおぞましい裏側を見せられ、私は余計に肝が冷えた。田舎イコールで封鎖的なイメージこそ抱いていたが、これでは小さな独裁国家だ。無意識に浮かんだ私達クラスメイト達が鎖の首輪をつけて地べたを這いつくばっている光景を慌てて振り払う。
「でも私は協力してあげてないんだけどね。体調に大きく影響するかもしれないから血をあげちゃだめ、ってドクターストップが掛かっててさ。だから私だけクラスの中じゃ非国民なんだよ」
困ったような笑い顔を浮かべて言うゆかりちゃんを見て私の中で、いくつかの点が線になった。
――私は違うの。
――私はみんなと同じ境遇を共有してるわけじゃないんだよ。経験もね。
そしてさっきの早稲本くんの高圧的な口調。ゆかりちゃんだけが苦しい思いをしていない。嫌な思いをしていない。そんな事でクラスメイト達はゆかりちゃんを輪から弾き出しているのか。
人道的には許せない。ただ、実際に『しのぶくんへの協力』を体験してみると気持ちが分からない訳ではない。恐怖も痛みも嫌悪感も、普通に学校生活をやっていく中で絶対に味わう事のない苦痛。それを中学生である私達に耐えさせているのはおそらく『公平感』だろうと思う。日本人は同調心理が強いとはよく言ったものだが、同じ苦しみでも一人で受けるものと皆で受けるものとでは心持ちが大きく違う。実際に私がしのぶ君への協力を拒絶できなかったのは、無抵抗に血を吸われていくクラスメイト達を目の前で見ていたからだ。そんな中で一人だけが苦しまず地獄の淵から自分達を眺めているだけ。不満は溜まるかもしれない。そして、そこに本来あるべきゆかりちゃんの状況や心境を鑑みる心の余裕は、中学生である私たちにはまだないのかもしれない。
ただ私は、私だけはずっとゆかりちゃんの側にいたい。そう思った。
「ゆかりちゃん、手繋がない?」
「どうしたの急に。麻美ちゃんって見た目に似合わず結構甘えん坊?」
呆れたような顔をしながらもゆかりちゃんは手を差し出してくれた。ぎゅっと握ると、ほんのり暖かく、ほんのりと湿っていた。
ゆかりちゃんはそうだ。ひとりぼっちの私に手を差し伸べてくれた。不安な時もずっと握っていてくれた。だから今度は私がこの手を握り返す番だ。
最後に、どうして私の時にしのぶ君が暴れだしたのだろうか、という疑問に至った。ゆかりちゃんに尋ねてみたが、ゆかりちゃんは少し考えた後で何も言わずにゆっくり首を傾げるだけだった。
家に帰り着くと、まず何よりも先に冷蔵庫を開けた。とにかく喉が渇いて仕方がなかった。血液が減ってしまったからかもしれない。しかし、いつも常備してあるミネラルウォーターは運悪く切らしていた。納屋に取りに行けば予備はあるが、今はそこまでする気力も体力もない。とりあえず一杯だけでいいのだ。私は台所の蛇口を捻り、コップに注いで一気に呷った。
口に広がる水の味は私の知る水の味とは違っていた。独特の臭みが口から鼻に抜け、嫌な酸味が舌を刺激する。思わず私は水を吐き出した。歯磨きなんかの時は、お父さんが洗面所に置いてくれている井戸水を使っているが、こんな味がした事はない。
味覚がおかしくなってしまったのだろうか。今日一日、色々な事がありすぎて疲れているのかもしれない。明日も学校だ。まだまだ一週間は長いのに、ここで体調を悪くしては後がきつい。早く寝て明日に備えなくては。私はその日、夕食も食べぬまま自室で眠りに就いた。
結局、夜になっても翌朝になってもお父さんには学校での事は話せなかった。学校はどうだったか、と不安を隠し切れない様子のお父さんにそんな事を話せるはずがない。しかも私もお父さんも、もうこの村の住人なのだ。権力者に目をつけられるような事だけは避けたかった。
何事もなかったかのように笑顔で家を出る。いつもより多く寝たはずだが、体調は最悪だった。眠ろう眠ろうと床に入り目を閉じれば、しのぶくんの姿が闇に浮かび上がるのだ。そして私の意識の世界なのに、しのぶくんはいくら祈っても消えてはくれなかった。まるで私の生活の一部になってしまったかのように。
バス停に着くと、昨日は見かけなかった人影があった。私を待ち構えていたかのように右手をあげる。きっと昨日話していなければ、誰なのか分からなかっただろう。
私の目の前にいたのは早稲本くんだった。
「おはよう。若菜さん」
爽やかな笑顔。昨日の最後に見た姿とのギャップに、表情筋がついていかない。自分でも分かるくらいにぎこちない笑みを浮かべて、私も挨拶をした。
「おはよう、早稲本くん。どうしたの、こんな時間にこんなところで」
早稲本くんが、ふっと息を吐き出し笑った時にちょうどバスが見えた。
「若菜さんに話があってきたんだ。続きはバスに乗ってから話すよ」
静かな車内。窓を流れる風景。昨日と何も変わらない。ただ一つ違うのは私の隣にクラスメイトが座っているという事だけだった。昨日の自分がこの話を聞けば心躍らせるだろう。転校初日で友達ができて二日目で一緒に登校する友達ができた、と思うだろう。
でも現実はそうじゃない。この静かなバスの中、私の隣にいる早稲本くんとは言うまでもなくそんな間柄ではない。だったら、何故こんなに朝早くにこんな辺鄙な所まで早稲本くんはやってきたのだろう。嫌な予感がどうしても拭いきれなかった。
「どう? この村」
外に見惚れているフリで沈黙の口実を作っている私に早稲本くんは唐突に言った。
「うん、好きだよ。都会で育ってきたから最初は慣れなかったけどね。都会に住んでちゃ見れないものも沢山あるし」
精一杯の笑顔を貼り付けた私を、早稲本くんは見透かしたような遠い目で見ている。先入観がそうさせるのか、その瞳からは早稲本くんの冷たさが滲み出ているように思えた。 「それはしのぶくんのことを言ってるのかな」
そして私の心を抉るような一言を放つ。絶句する私に早稲本くんはすぐに笑った。
「今の言い方はちょっと意地悪だったね。ごめんごめん。悪意はないんだよ。俺たちにとってはしのぶくんも最早、日常の一つみたいなもんだからさ。都会にないものって言うと真っ先に思い浮かんじゃったんだ」
「ううん、大丈夫」
「でも、やっぱりびっくりしたんじゃないかな? そりゃ無理もないよね。俺たちも最初は戸惑ったもん。でもしのぶくんだって俺たちのクラスメイトだから、って考えると苦痛じゃなくなったんだよ。クラスメイトは大事にしなきゃ、だしさ」
「そうだね」
「だからさ、お願いがあって今日は若菜さんに会いにきたんだよ」
きた。早稲本くんがここに来た目的だ。一気に心拍数が上がった。何を言われるのだろう。何故だかゆかりちゃんの無邪気な笑顔が頭に浮かぶ。
「お願いって、何?」
「ちょっと順序立てて話すから長くなるかもしれないけど、なるべく簡潔に話せるよう頑張るよ。俺たちが昨日並んでしのぶくんへの協力を順番待ちしてたのは知ってるよね。その順番が何を基準に決められているか、若菜さんは知ってる?」
考えていなかった。昨日は状況の理解に頭が追いつかず、そこまで気が回らなかったが、確かに順番が元々決まっているようではあった。私は素直にかぶりを振る。
「あの順番、単純なんだけど出席番号順――つまり苗字のあいうえお順なんだ。『アオイ』から始まって『ワセモト』で終わり。『ワカナ』さんは俺の前だったでしょ?」
言われてみればそうだ。
「その単純さからも分かるようにさ。この順番は話し合いなんかで決まったわけじゃない。しのぶくんへの協力が始まった時に既にクラス内に存在した個人を示す番号が出席番号しかなかったってだけだ。最初は俺も喜んだよ。ラッキーだって。この苗字で良かったな、って。協力しなきゃいけない事に変わりはないんだけど、しのぶくんは機械じゃない。生きた人間だ。何十人もいるクラスメイトの血液をきっちり公平に同じ量を吸えるわけない。そこは目分量だし、先生だってそこまで口を出せない。そう考えると、順番が早い方が空腹のしのぶくんに血を多く吸われる可能性が高くなる、って思ってね。あわよくば、俺の順番までにしのぶ君が満腹になって俺はお役御免なんて事があるかな、なんて期待を抱いてたんだ」
そんな事を考えられるのか、と私は早稲本くんの頭に感心した。私なんかじゃ絶対に行き着けない思考だ。そこまで言うと笑っていた早稲本くんは、急に深刻な顔になった。
「実際に、順番が最後の俺と一番最初の蒼井とを比べてどっちが多く血を吸われてきたかなんて分かりようがない。でも一旦そういう事を考えてしまうとさ、ある程度時間が経った時に罪悪感がじわじわ出てきてさ。もう一度順番から考え直した方がいいんじゃないか、って思い始めた。そこで俺が思いついたのが、苗字の出席番号順じゃなくて、名前の順番に変えるって方法さ」
「名前?」
「そう。蒼井は蒼井葉子。だから名前順にすると『ヨウコ』で後ろの方になる。こうすればうまく順番をシャッフルできる、って思ったんだ。でも俺の名前は早稲本遼。『リョウ』じゃ、この順番にしても結局後ろの方だ。どちらにしても後ろの俺がこの変更を提案したって説得力がない。だから俺は今までみんなに提案できなかったんだ」
まだ早稲本くんの言いたい事は掴めない。
「――でも状況が変わった。ごめん、結局長くなっちゃったね。お願いってのは、若菜さんにその提案に賛同してもらいたいんだ」
「えっ? 私が?」
「そう。名前順に変えたとしたら、一番になるのは『ワカナアサミ』さん。君だから」
どうしてその結論に至らなかったのだろう。私は言葉を失って、自分の頭の悪さを呪った。
「変更した後に一番最初を受け持つ事になる人間が、その変更に賛同すれば誰も文句は言えない。だから、若菜さん。君にお願いしにきたんだ。今日、俺が帰りの会の時に提案する変更にその場で、みんなの前で賛同して欲しいんだ」
そのお願いは尤もらしいものだった。学級委員として公平を期すために変更を提案するのも分かる。しかし、その提案を手放しで承諾できるほど私は馬鹿じゃないし、強くなかった。ましてや、早稲本くんの話の中で一番手が後ろの生徒と比べて多く血を吸われるかもしれない可能性について聞かされているのだ。余計に私は頷くことができなかった。
そんな私の心情も早稲本くんの中では既定路線だったのだろうか。大して戸惑うわけでもなく話を続ける。
「勿論、俺だって分かってるよ。その状態だと若菜さんが不利益を被るかもしれないって。今のままなら、何も言い出さなければ、私は順番も後ろの方なのにどうして自ら順番を早めるような事をしなくちゃいけないんだ、って思うよね。でもその前に知っておいて欲しいことがあるんだ」
早稲本くんはそう言うと、その左腕に輝く腕時計を見た。そしてもう一度こちらへまっすぐに視線を投げかける。
「この時間……クラスメイト達はしのぶくんに協力しているんだ」
その言葉の意味はすぐには理解できなかった。私の脳は考える事を放棄して、また唇を動かす。
「協力……? えっ?」
「人間は一日に何食食べる? 一食じゃ足りないはずだね。それはしのぶくんも一緒だよ。しのぶくんだって放課後一回きりの協力じゃ足りないのさ。だから俺たちは朝も夕も、しのぶくんに協力してる。若菜さんはバスが無いから物理的に朝の協力の時間に来るのは無理だ。だから先生からも聞かされていなかったんだろうね」
じわじわと視界が暗くなっていく。次第に追い詰められていくような、行き場を失っていくような。そんな感覚に襲われた。
「朝の協力の時間も勿論、出席番号順だ。同じ順番で一日に二回だよ。蒼井さん含めて番号の若い人には大きな負担になってる。だから放課後の協力の時間だけでも順番を変えたいと思ってるんだ。俺たちは朝の時間に若菜さんが来れない事なんて何も気にしてないし、無理に来させようとも思わない。そこは仕方ない事さ。ただ放課後の時間だけ、若菜さんからの順番に変えてくれれば良いだけなんだよ」
穏やかな口調。しかし、それはほぼ脅しのようなものだった。私の性格を早稲本くんが知るわけがないことなんか分かっている。ただ、早稲本くんの言葉は私の心臓のど真ん中を的確に、かつ鋭く貫いた。転入してきたばかりで周囲の顔色を伺って生きるしかない私が、そんなクラスメイトの状況を聞かされた上で自分の意見を通せるはずなどないのだ。バスが学校に着くのを待たずに、私と早稲本くんの話は終わりを迎えた。
放課後。協力の時間の前。早稲本くんの提案によって私の運命はいとも簡単に変わってしまった。悪い意味ばかりではない事も分かってはいた。確かに早稲本くんの言うように、他のみんなが朝の時間も血を分け与えているのだとしたら、私だけがそこに参加しないのは不公平だろう。これは私自身が抱くであろう罪悪感を取り除くための賛同だ。これで良い。こうしなければ逆に自分は呵責の念に潰されていたに違いないから。
順番が早くなってしまう人もいるから多少はあるだろう、と思っていたが反対意見の一つも出る事なく私はしのぶくんの午後の最初の相手になった。そしてそれからの一ヶ月はあっという間だった。
「大丈夫だった? 麻美ちゃん」
しのぶくんへの協力を終えて、帰る支度をしていると真里ちゃんが声を掛けてくれた。それに合わせるかのようにぞろぞろと女子達が私の周りに集まってくる。自らも血を吸われているにも関わらず、皆、口々に私の心配をしてくれる。
「私は大丈夫だよ。ありがとう」
「本当に? 麻美ちゃんはすぐ無理しちゃうんだから。何かあったらすぐに言ってよね。麻美ちゃんのいない学校生活なんて私、嫌だよ」
このひと月で私を取り巻く環境は大きく変わった。やはり放課後の協力の時間に先陣を切る事になったのが大きな要因なのだろうか。初めてクラスメイトの前で挨拶をした時からは考えられない程にみんなは私と仲良くしてくれるようになった。特に早稲本くんと同じ学級委員をしている大賀真里ちゃんは私に良くしてくれた。頭も良くて綺麗で可愛くて明るい、そんなクラスの中心で輝く真里ちゃんが私に話し掛けてくれた事で、クラスの全体が私を受け入れてくれた。
受け入れられ、クラスに溶け込んでまず驚いたのはみんなの優しさだった。一番に血を吸われる私をいつでも心配してくれるし、貧血にならないように薬も時々くれる。それだけでなく、毎朝全員が笑顔で挨拶をしてくれて、バスが大雨で遅れたときは、真里ちゃんのお父さんが送り迎えまでしてくれた。前の学校では私も含めてそこまで他人に優しさを向ける人はいなかった。今となっては最初に悪印象を抱いた事が恥ずかしいくらいだ。
ただこの一ヶ月で起こったのは良い事ばかりではなかった。しのぶくんへの協力を始めてから、日に日に体調が悪くなっていったのだ。病気という程に悪いわけではないが、どうにも毎日気分が優れない。やはり血を失っているからだろうか。何となく常に貧血のような頭がふわふわとしたような、靄がかったような感覚が付きまとった。しかし、他のクラスメイトは至って元気。放課後だけでなく朝の時間も血を抜いているのだから、むしろ私よりも悪い条件だ。それなのに誰一人体調不良を訴えないのだから、私が人一倍体が弱いだけなのだろう。そう思うようにして私は気怠い体に鞭を打った。
数日経ったある日。いつもに増して体調の悪さを感じていた私は、昼休みに保健室に向かうことにした。真里ちゃん一行が付き添いに名乗りを上げたが、倒れそうなほどに体調が悪いわけではないし、何より私のために貴重な休み時間を割いてもらうのは抵抗がある。何度かの断りを入れてやっと折れてくれた所で一人で保健室に向かった。
放課後以外の時間に保健室に行くことは初めてだった。
変わった事はいくつかあったが、私とゆかりちゃんの仲は変わらずだった。ゆかりちゃんは授業にはほぼ出ないので、顔を合わせる事は他のクラスメイトより少ないが、帰りは欠かさず一緒に帰るようにしているし、時間がある時は屋上で二人で他愛もない話に花を咲かせたりもした。
ゆかりちゃんはよくふざけてよく笑う、本当に天真爛漫という言葉の似合う子だった。体調が悪くても、ゆかりちゃんと居れば自然と元気が湧いて出た。
ただ、普段とは対照的な暗い顔を見る事もあった。放課後の協力の時。クラスメイトと廊下ですれ違う時。二人でいるときは見たことのないような感情を失った顔をしていた。無理もないかもしれない。私自身、クラスメイトと仲良くなって初めて分かることではあったが、やはりクラスメイトのゆかりちゃんに対する反応は良いものではなかった。いじめ、なんかとは違う。無視しているわけでもない。嫌悪の感情よりも無関心の感情の方が近かった。いつか私がどうにかそのクラスメイト達の雰囲気を変えたい。私はいつからかそう思うようになった。
保健室の前。閑散としていて、人の気配も感じられない。前の学校では昼休みでも保健室には何人も生徒達がいたが、生徒の絶対数が少ないからか、或いは近寄り難い場所となっているからか。理由はわからない。
じゅうっ。
唐突に鼓膜を襲った音に心臓が跳ね上がった。この音は――。この音だけは、耳にこびりついて絶対に離れない。私の体内から消し去ろうと思ってもできない。
扉の前で立ち尽くしながら、私は寒気の抜けない耳を傾けた。僅かにではあるが、保健室の中から広がる不快な音。一体何故、昼休みの時間に血を啜るこの音がするのか。それだけは全く分からなかった。
この扉は開けなければならない。そんな曖昧であるが確信めいた感覚が私の中を支配していた。恐ろしさを押し殺してでも、この先に進まなければならなかった。
躊躇していても仕方がない。一息吐いて、扉を一気に開けた。奥のベッド。普段は白いカーテンで仕切られた空間が曝け出されていた。そこには居るはずの影が――。
いた。二人分。
「何やってるの!」
考える間もなく私は叫んでいた。声の歪みと大きさに耐えられなかったのだろう。喉がすぐに痛んだ。だが目の前の光景に比べれば痛みなどどうでもいい。
保健室の中、奥のベッドではしのぶくんがゆかりちゃんの血を啜っていた。
私の声に驚いたしのぶくんが慌てて口を離す。その口端に滴る赤い血が誤解の生まれる余地のない真実を物語っていた。混乱状態の私の中に真っ赤な感情が生まれる。ゆかりちゃんは普段から体調が悪いのだ。血なんか吸われてしまえば、どうなるか分かったものじゃない。それなのに。それなのに、しのぶくんは。その一瞬だけは、しのぶくんに対する恐怖も消え失せていた。一気にしのぶくんに歩み寄る。そこから何をするかなど考えていなかった。ただ私の中の怒りが足を前へ前へ進めさせた。
「待って麻美ちゃん」
ゆかりちゃんが私の進路に立ちふさがった。
「だめ! ゆかりちゃんの血を無理矢理吸うなんて、いくらしのぶくんでも私――」
「違うの。私がしのぶくんに血を吸わせたの」
ゆかりちゃんのしっかりとした眼差しが私の怒りを抑え込んだ。頭が混乱する。ゆかりちゃんが自ら?
「どういう事なの。しのぶくんを庇って言ってるの?」
「違うよ。本当に私が自分で吸わせたんだよ。血を吸われるってのがどんな気分なのか、少し気になってね。だからしのぶくんは何も悪くないの」
ゆかりちゃんのはっきりとした口調は、私にゆかりちゃんの境遇を思い起こさせた。しのぶくんに血をあげる事ができないせいで、ゆかりちゃんはクラスメイトの輪に混じる事ができないのだ。普段からの明るい姿を見ていて忘れかけていたが、ゆかりちゃんがその事を気にしていないはずはない。だから、吸わせたのか。少しでもクラスメイトと同じ環境を、経験を、共有したくて。そう考えると、私は何も言えなくなった。ゆかりちゃんと同じ立場でない私に、ゆかりちゃんの気持ちは分からない。少しでも周囲に馴染もうと思ってやった健気な選択を非難する権利はない。
「……気になるかもしれないけど、ゆかりちゃんはあんまり体が強くないんだから、だめだよ。すぐに気分が悪くなっちゃうよ。あ、血のことだったら気にしなくて大丈夫。しのぶくんは私達の協力で元気に過ごせているみたいだから」
努めて明るく笑ってみせた。そうする方がゆかりちゃんにとっても良いのではないかと思ったから。ゆかりちゃんは「びっくりさせてごめんね」とだけ言って寂しげに笑った。
そこでふと、いつかの放課後に見たしのぶくんの口の端にこびり付いたどす黒い血液の事を思い出した。朝の協力の時間に付いたものかと思っていたが、それにしては時間が経ち過ぎていると思っていた。本当はゆかりちゃんの血液だったのだろうか。ただ、そうなると以前も昼休みの時間にしのぶくんに血を吸わせていた事になる。
「私がしのぶくんに協力する時、しのぶくんの口に血が付いてるのが見えた事があるんだ。朝の協力の時間のやつかと思ってたけど……それもゆかりちゃんなの?」
ゆかりちゃんの表情が明らかに変化したのを私は見逃さなかった。体全体に力が入ったのが、表情から伝わってくる。
「――朝?」
ゆかりちゃんがぼそりと言った。私の欲しい返事ではない。誤魔化しているのだろうか。
「朝の協力の時間だよ。私は行ってないけど、やっているんでしょ。それよりも、ねぇ、ゆかりちゃん。前もしのぶくんに血を吸わせたの?」
ゆかりちゃんはほんの一瞬だけ俯いた。顔をあげるといつもの笑顔がそこにあった。
「ううん。今日が初めてだよ。朝の協力の時間に付いた血じゃないかな」
ゆかりちゃんは何かを隠している。直感的に思った。ただ私はゆかりちゃんの言葉を信じるしかなかった。
放課後の協力の時間が終わって、しのぶくんからの感謝の言葉を貰うと、私の学校生活の一日は終わる。その後、ゆかりちゃんが来るのを待って一緒に帰るのが日課だった。教室で自分の机に座りながら外を眺めて時間を潰す。いつもは楽しみのゆかりちゃんとの下校も、今日はなんだか気が重かった。保健室での出来事がまだ私の心の中に引っ掛かっていたからだ。
教室の扉の開く音。振り返るとゆかりちゃんがいた。夕日に照らされたゆかりちゃんの顔はお世辞抜きで綺麗だ。
「ゆかりちゃん。遅かったね。もう男の子達なんて校庭で遊んでるよ。すごい元気だよね」
同じクラスの男子たちは、私より協力の時間は後だったが、既に役目を終えてサッカーに興じていた。血を吸われた後でも進んで運動が出来るなんて、さすが男子と言わざるを得なかった。とてもじゃないが、今の私には運動する体力は残っていない。
視線を校庭に落として、教室の入り口へ戻すと、またゆかりちゃんは暗い表情をしていた。
「ごめん麻美ちゃん。今日は用事があるから先に帰ってて欲しいんだ」
驚きと同時に胸にちくりと痛みが走った。ゆかりちゃんが私との下校を断るのが初めてだったからだ。私と帰るのが嫌で口実として言っているだけだろうか。胸が苦しくなる。何か私はゆかりちゃんの気に障る事をしてしまったのか。ゆかりちゃんを傷つけるような事をしてしまったのか。
「それじゃ、また明日ね」
考えが頭を巡っているうちに、ゆかりちゃんは言葉だけを残して、教室を出て行った。その背中に何も言葉を返せず、私は虚しく空気だけを飲み込んだ。白いセーラーの淡い残像だけが風景の中に残っている。うっすらとした残り香が鼻をくすぐった時、私は教室を飛び出していた。廊下の向こうにゆかりちゃんの背中が見える。
「私は!」
廊下の奥まで届くように叫んだ。驚いたゆかりちゃんが振り返る。距離が遠い上に視界がぼやけて、表情までは見えない。
「私はどんな事があっても、ゆかりちゃんの味方だからね!」
それが今の私の中の燻った感情を、包み隠さず表に出した精一杯の台詞だった。ゆかりちゃんがどう思うかは分からない。それでも私がゆかりちゃんに声を掛けるとすれば、言える言葉はそれだけだった。
ゆかりちゃんの表情はまだ見えない。昂ぶった感情から産み落とされた涙が、風景ごとゆかりちゃんを滲ませていた。ゆかりちゃんはどういう表情をしているのだろう。確認するのは怖かった。でも私は目を背けてはいけないのだ。目をぎゅっと瞑って溜まった涙を拭おうとした時。
「私も麻美ちゃんの味方だよ」
ゆかりちゃんの声は震えていたが、確かに私の耳に届いた。慌てて顔をあげると、ゆかりちゃんの姿は見えなくなっていた。廊下に反響したのか、それとも錯覚か。ゆかりちゃんの言葉は私の中をこだまし続けていた。
涙を拭って呼吸を整えた後で校庭に出る。夕焼けが眩しい。ちょうど、サッカーをしていた男子達が水飲み場で休憩していた。早稲本くんが私を見つけて寄ってくる。
「よう、若菜。一番に出てったはずなのにどうしたんだ? こんな時間まで」
早稲本くん筆頭に男子もこの一ヶ月の間で私によくしてくれるようになった。最初は苦手だった早稲本くんも接してみると、ぶっきらぼうではあるが、優しい男の子だった。
「用事があって少し残ってただけだよ。もう今から帰るとこ」
言いながら右足を上げて靴の踵に指を掛けた時、急に世界がぐらついた。あっ、と思った時には私はバランスを崩していた。地面に倒れ込んでしまう――と思い目を閉じたが、すぐに早稲本くんが私の体を受け止めてくれていた。
「ご、ごめん。貧血かな。ちょっとふらついちゃった」
「大丈夫か? 顔色も悪いみたいだし……ちょっと横になった方がいいんじゃないか」
早稲本くんに支えられながら、私は水飲み場の横、石段に腰掛けた。座り込むと少し楽になるが、それでもまだ頭の中がぐるぐると回る感覚が止まない。
「大丈夫か? 水飲むか?」
他の男子が水筒のコップに入った水をくれる。そういえば真里ちゃんから貰った薬を持っていた事を思い出した。鞄から取り出して三錠、水と一緒に一気に飲み込んだ。
「うっ」
まただ。またいつか味わった臭気が、酸味が、口内を犯した。体調の悪さに起因しているのか、前よりも酷い後味だ。吐き気を必死に堪えて口を抑える。
「どうした? 普通の水道水だよな?」
早稲本くんが私の置いたコップを拾い、底に残った僅かな水を飲んだ。何ともないといった表情で首を傾げる。やはり、私だけなのか。
サプリメントが効いてきたのか、しばらく経つと目眩も収まった。早稲本くん達に回復した事を告げて帰路に着く。喉に張り付いた不快感を流したくて、家に帰ってすぐに水を飲んだ。家にある水は飲料水用にお父さんが井戸で汲んできた水だ。やはり、先程感じたような違和感はない。今日は疲れていたのだろう。そう自分に言い聞かせて忘れる事にした。
翌日の昼休み。私はまた保健室の前にいた。昨日と同じ理由で真里ちゃん達を振り切ってなんとかやってきた。
今日はどうしてもゆかりちゃんに会いたかった。だから、帰りを待たずにここに来てしまった。正直に言えば、ゆかりちゃんがまたしのぶくんに血を吸わせるのではないか、と思って牽制しに来た目的もあった。
恐る恐る扉に耳を近付ける。例の音は聞こえない。
「ゆかりちゃん? いる?」
扉を開けると、ゆかりちゃんが手元にあったノートを閉じて振り向いた。しのぶくんのいるベッドは昨日とは違って、きちんとカーテンで閉ざされている。疑ってごめん、と心の中でゆかりちゃんに謝った。
「麻美ちゃん、どうしたの」
少し顔色が悪いような気がしたが、いつも通りのゆかりちゃんだった。昨日勝手に蟠りを感じていたせいか、顔を合わせるのは久々でもないのに、どこか懐かしい気分になる。
「ううん、なんかゆかりちゃんの顔見たくなっちゃって。昨日も一緒に帰らなかったし」
「ええっ、昨日一日一緒に帰らなかっただけじゃん! やっぱり麻美ちゃんは甘えん坊だなぁ!」
けたけたと無邪気に笑うゆかりちゃん。昨日見ていたゆかりちゃんとはまるで別人だった。
「ゆかりちゃん……良かったぁ。昨日一緒に帰れなかったし嫌われちゃったのかと思ってた」
「何言ってるの。私はいつでも、いつまでも麻美ちゃんの友達でいるよ」
一ヶ月前の不安。恐怖。猜疑。全てを取り払ってくれたのはゆかりちゃんの最初の優しさがあったからだ。ゆかりちゃんがいなければ、今も私は苦しんでいたかもしれない。
確かにしのぶくんに血を吸われるのは恐ろしい。協力の時間がなければ、どれだけいいだろう。どれだけこの村を楽しめるだろう。何度考えたか分からない。でも、前の学校に戻りたいなんて事だけは一度も思わなかった。ゆかりちゃんの存在が、それだけ私の中で大きくなっていたのだ。ゆかりちゃんと、ゆかりちゃんが繋いでくれたクラスのみんな。その存在が私の今を支えてくれている。だから私は体調が悪くても、恐ろしい思いをしても耐えられる。
「ゆかりちゃん、本当にありがとう。ずっと一緒にいてね。何があってもだよ」
私の顔を見てゆかりちゃんは笑った。
「また泣いてる。うん。大丈夫だよ。前言ったでしょ。私は麻美ちゃんの側にいるよ。そして何かあった時は助けになるよ」
私はゆかりちゃんに抱きついた。暖かい温もりが私を安心させる。こんな時間が永遠に続けばいい。そうすれば私はずっと幸せでいられる。
しばらく私たちは昨日の下校の時間に一緒にいられなかった寂しさを埋めるかのようにお喋りをした。昼休みの終わりが迫っている事をゆかりちゃんに教えられて、初めてそんなに時間が経っていたのだと気付いた。ゆかりちゃんと今日こそは、と一緒に帰る約束をして教室に戻ると、真里ちゃん含む女子生徒がみんなで駆け寄ってくる。
「大丈夫だった? 麻美ちゃん」「体調悪くない? 大丈夫?」「無理しないでね。気分悪くなったらすぐに私達に言ってね」
一言一言を聞くたびに心が温まった。ふと見ると女子だけでなく、早稲本くん達男子も集まっている。
「昨日は大丈夫だった? あのあと心配してたんだぜ」「きついときは無理せずすぐ保健室いけよ」「でもサボりはダメだぞ」「お前だろそれ! 若菜がそんな事やるかよ!」
クラス全体が笑顔に包まれる。私はこの村の、この人の、この暖かさに包まれている。生まれた場所も育った場所も違う私を包み込んでくれるみんなが私は大好きだった。
「ありがとう、みんな。私は大丈夫だから」
精一杯の笑顔につられて私も自然と笑みが零れた。真里ちゃんが私に抱きついてくる。
「みんな、麻美ちゃんのこと大好きなんだよ。麻美ちゃんがいない学校生活なんて、耐えられないよ」




