鈍い男
俺は…、そういえば子どもの頃、こんなことがあった。
まだ小学校に上がったばかりだったと思う。
俺の通学路には、大きな坂があって。
ある日の帰り道に俺は、そこで派手にすっころんだ。
駆け足で下っていたら、つまずいてしまったのだ。
ただ、ダイナミックに地面へ突っ込んだわりにはまるで痛みもなく。
一応ひざを確認してもみたのだけど、擦り傷なんかも見当たらなかった。
だから俺はそのまま、なんでもなかったとばかりに立ち上がると、やはり駆け足で下校を再開したのだが…
それに気づいたのは、家にたどり着いたあとのこと。
椅子に座ってマンガを読んでいたら、なにかが垂れる気配を感じたのだ。
俺の肘から。
なんの気なしに左の肘を持ち上げてみると…
驚いたことに、血と砂利でずいぶんと、汚れてしまっていた。
流血はいまだ続いている。
俺は愕然として、幼心に――なにか手当しなくては、なんて思い。
清潔なタオルを見つけては、包帯のように巻いてみたりして。
…結局そのときの傷跡は、二十年以上経った今でも残っているわけだけど。
当時は、タオルを押し付けてれば最終的には止血できたので、特に医者に見せたりすることもなく。
どころか、親に話すことさえしなかった。(血まみれのタオルは洗濯機の奥に突っ込んだ)
懐かしい、遠い記憶。
俺がなんで、今になってそんなことを思い出しているかって話なんだけど。
これたぶん――走馬燈だ。
つい五分ぐらい前のこと。
向こうからすげーきれいな娘が歩いてきて。
そっちに視線と、意識を向けていたら…
いつの間に近づいていたのか、一人のおっさんが背後から俺に、ぶつかってきやがった。
俺はその瞬間、自分でもひどく間抜けに思えるぐらいの、短いうめき声を、小さく漏らした。
衝撃に足がよろける。
おっさんはというと…
そんな俺を追い抜いて、一度だけこっちに振り返り。
たぶん、至極迷惑そうに歪めていた俺の顔を確認すると、ひどく狼狽したように見えた。
結局そいつは謝りもせず、俺から急いではなれていったわけなんだが。
それからしばらく、俺はごくごく普通に歩みを続け――
そんでだしぬけに膝カックンを食らったかのごとく、崩れ落ちたのだ。
地面を舐めるように、うつぶせになってしまい…
そうして――今に至る。
ついさっき確認したんだけども。
どうも背中から、包丁の柄のような、輪郭と感触を持つ物が生えてやがる。
うつぶせ過ぎて、目で確認できないのが残念なんだが…
たぶんこれ、ような、でもなんでもなく、包丁の柄だわ。あるいはナイフの柄だわ。
俺、たぶん刺されたんだわ…
あぁ、なんかしかも…、眠くなってきたんですけどぉ。
やべえ、マジでやべえよな。これ。
ったく、なんで刺されて気づかないのかね。
すぐに気づいて、ぎゃーぎゃー、みっともなく喚いていたら。
あるいはあの、きれいな娘が救急車なり呼んでくれたかもしれないってのに…
…はぁ
まぁなんつーか、俺だけかもしれんが。
あんまし死ぬの、怖くないのだけは救いかもしれんな。
なんの痛痒もねーんだから。