26.小和泉、狂乱
二二〇一年十月二十三日 〇六〇〇 KYT 日本軍立病院
小和泉は、小さな地震で目が覚めた。身体全体が揺れたが、揺れはすぐに治まった。
―地震だろうか。―
小和泉はふと考えた。
しかし、身体は全く動かず、視界も塞がれ、現状把握ができなかった。
使える感覚は、嗅覚と聴覚だけだった。
嗅覚は、嗅ぎ慣れた消毒液の香りを感知し、聴覚は近くから小さな寝息が三つ確認できた。
そして、小和泉の心臓と連動して鳴る電子音。どうやらここは病室の様だ。
小和泉は個室のベッドに寝かされていた。
怪我をした四肢は透明の水に満たされたカプセルに包まれ、目には包帯が巻かれていた。
その周りの床に寝袋にくるまった桔梗、菜花、鈴蘭が眠っていた。
ようやく、小和泉は混沌とした記憶の中から自分が病室に横たわっている理由を思い出した。
姉弟子である二社谷に大敗したのだ。
酷い敗北だった。手も足も出なかったと言ってよいだろう。小和泉は、錺流の鍛錬を怠っていた。軍の勤務を優先し、月人に対し圧倒的に優位に格闘戦を進めていたために驕っていた。
格闘術も軍の近接格闘術の基礎訓練しかしていなかった。
この状態で常に錺流の鍛錬を毎日欠かさず行ってきた二社谷に勝てる見込みは無かったのだ。
どうやら、錺流の鍛錬を一からやり直す必要があるようだった。
しかし、左手の指と右手首を切り落され、右足も壊された現状では日常生活を送る事すら危うい。再生医療が発達しているとは言え、五体満足の状態に戻るかどうかは分からない。
医者による現状説明が必要だろう。
ありがたい事は、痛みが全くないことだった。鎮痛剤が投与されているのだろう。薬が切れた時に来る激痛が今から恐ろしく感じていた。
小和泉のほんの少しの身じろぎに鈴蘭は目が覚めた。
もともと観測手であり、些細な変化や気配には分隊の中で一番敏感だった。
鈴蘭は、寝袋から静かに出ると櫛で髪を整え、小和泉のベッドに座った。
「隊長、おはよう。欲しい物、ある?」
久しぶりに聞く鈴蘭の声に小和泉の緊張がほぐれた。
「そうだな。水をもらえるかな。喉が渇いたよ。」
身体は水を欲していないが、喉の乾燥に不快さを感じていた。
口に水差しが当てられ、ゆっくりと水が流れ込んでくる。
加減の良い処で水差しは離れ、小和泉はごくりと水を飲み込んだ。
口から喉を通り抜ける水が心地良い。長い時間、寝込んでいた事が身に沁みて判る。
「状況を説明してくれるかい。」
「了解。あくまで、私の主観。治療方法、医者への確認を要す。」
「かまわないよ。」
「両目、瞼を切創。瞼、開かない。眼球、異常なし。右腕、右手首、切断。左手、親指以外の指四本、切断。右足、膝上刺創。神経切断。麻痺。現在、鎮痛剤投薬。保存治療中。以上。」
相変わらず、管制官の様にハッキリと話す。衛生兵でもある鈴蘭は、正しく現状を話した。
「今は、睡眠を推奨。診察時、起こす。」
「わかった。ありがとう。眠るよ。」
そう言うと小和泉は眠りについた。鈴蘭は、すぐに眠った小和泉に口づけをすると三人の朝食を買うため、静かに病室を出た。
二二〇一年十月二十三日 〇九三一 KYT 日本軍立病院
「隊長、起きて下さい。診察の時間です。」
桔梗の囁く声で小和泉はすぐに目を覚ました。どうやら、気配から四人居る様だが、小和泉には四人目の正体がつかなかった。
小和泉のベッドを取り囲むように桔梗達三人と多智が立っていた。
「小和泉、すぐに病院へ戻って来るとは私に会いたかったのか。」
小和泉は、声で四人目が多智であり、主治医であることを理解した。
「そんなつもりはないよ。ちょっと、御機嫌取りに失敗しただけだよ。」
多智の冗談に対し、小和泉は冗談で返す。
「にしては、重傷だな。」
「本気で怒らせたからかな?」
「ならば、相手は女なのか。でなければ、小和泉がここまで怪我をする訳が無いか。女癖の悪さも程々にしろ。教訓になっただろう。まあよい。医者としての治療方針を提案させてもらおう。」
「では、拝聴致しましょう。」
「一つ目、このまま傷を塞ぐ。一番早く退院できる方法だ。この場合、軍は除隊することになるな。あとは、義手義足に日常生活で慣れろ。」
「それは却下の方向で。」
「ふむ、二つ目。機械化だな。軍への復帰も可能だ。これも早めに退院できる。欠点は、一生こまめなメンテナンスが必要な処だろう。油を差したり、突然故障する可能性がある。」
「一つ目よりはマシだね。再生治療は無理なのかな?」
「それは三つ目の提案だ。幸いなことに切断された肉体は凍結保存されている。切り口も綺麗な為、縫合手術も可能だ。自身の肉体の為、拒絶反応も無いだろう。完全に元に戻る。だが、リハビリを含め回復に半年はかかる。」
「回復に半年か…。少し、いや二時間程一人にしてくれないか。心を落ち着かせたい。」
「答えは急がない。二時間と言わず、ゆっくり考えろ。今後の人生を左右する決断だ。慎重に考えろ。」
そう言うと多智は、踵を返し病室から出て行った。
『隊長。』
桔梗達三人が同時に声を掛けてくる。しかし、小和泉は表面上冷静に見えたが、心の奥では昏い炎に己自身を焼いていた。
「お前達も外に出てくれるかな。一人にして欲しい。」
小和泉は、何とか言葉を絞り出す。その声は、老人の様にしわがれていた。
「わかりました。二人とも行きましょう。」
静かに三人は、足音を立てずに病室を出て行った。
個室の病室には、小和泉ただ一人となった。
「馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。
錺流の恐ろしさは、充分知っている。なぜ、無策で虎穴に飛び込んだ。
あの女の性格はよく知っているだろう。
冷静に考えられるか。こんな大怪我を負ったのは生まれて初めてだ。屈辱以外の何物でもない。
あの女、殺してやる。
なぜ、俺は軍に入ってから錺流の鍛錬をしていなかった。馬鹿か。
この怪我は、全て俺が原因だ。俺があの女の様に毎日の鍛錬を欠かさなければ、大怪我を負う事は無かった。くそったれ!
まともに反撃も出来ない手なんか要らん!」
カプセルに包まれた手をベッドの手すりに力一杯打ちつける。キーンと病室に耳が痛くなるほどの高音が反響する。
「この足もだ。立つことにしか役に立たない。無くとも一緒だ!」
腕のカプセルと足のカプセルを打ちつけ合う。ゴツンと低い音が鳴る。
小和泉の痛覚にかなりの衝撃を与えているにもかかわらず、己の不甲斐なさが打ち消していた。
精神は簡単に肉体を凌駕する。
「鉄狼に負け、あの女には半殺しにされた俺に存在価値はあるのか。
あの女ならば、鉄狼にも勝ったのではないか。
俺はこの数年を無駄に過ごしたのか。
月人を蹂躙し、自軍内でも格闘戦で勝てる者が居ないと天狗になっていたのか。
そうだ。そういう事だ。だから、この結果だ。
手足を失い、戦闘力を失った。今じゃ、一人で生きていくこともできない。
俺は馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。馬鹿だ。」
小和泉は、目一杯手足を振り回した。目も見えず、どこに何があるかなど気にもしていない。
小和泉の耳には、ガラスの割れる音や金属のポールが倒れる音が届く。だが、心には届かない。
カプセルで保護されているとはいえ、強打する度に鎮痛剤の効果を超える激痛が傷口に走っているはずだが、小和泉は知覚しない。
冷静さは装っていたが、冷静にいられるわけが無かった。日本軍の近接戦最強の狂犬部隊と呼ばれる隊長の小和泉が、二社谷に赤子同様にあしらわれた。
「一年前までは、あの女と組手をしても明確な実力の差は無かった。
だが、現実はどうだ。超えられない壁になっているじゃないか。俺が弱くなったのか。あの女が強くなったのか。それとも両方か。
くそ。くそ。くそ。くそ。くそ。くそ。」
叫び過ぎ、息が切れる。肩で息をしながら、昏い情念が腹の奥底から沸々と湧き上がる。




