178.〇三〇四一四演習 些細なきっかけ
真の狂犬の恐ろしさが、日本軍に広まる事件がまもなく起きる。
日本軍で小和泉錬太郎大尉が、『狂犬』の二つ名で呼ばれていることは有名であった。
狂犬とは、凶暴な人物を指す言葉だ。
確かにその二つ名がつく程の格闘戦の強者である。あの鉄狼を撃破した猛者でもある。
しかし、狂犬と呼ばれる程の凶暴性を見せたことは、ほぼ無い。
身に刻みこまれた技術を用い、確実に仕留める武術家の姿を見た者ばかりだった。
月人への凌辱や残虐性から精神的に狂っているととられ、多数の者はその二つ名がついたと考え、または思っていた。
ほんの一握りの人間が、真の狂犬の姿を見ただけだった。
だが、この演習で全ての新兵達は、小和泉の本性を見せつけられた。
また、その体に教え込まれた。
それは、本当に些細なきっかけだった。
二二〇三年四月十九日 一六〇一 KYT 西部塹壕
831小隊は、第八大隊の正面突破を敢行すべく、大地の割れ目を利用し西部塹壕の直前まで隠密行動にて接近していた。
現在のところ、第八大隊に発見された形跡は無い。塹壕の縁で必死にアサルトライフルのガンカメラで索敵する新兵の姿がそこら中に見えた。
本人達は隠れているつもりなのだろうが、小和泉達から見れば突っ立っているのと変わらなかった。
ただ、初日に比べると真剣さが増し、そこそこ様にはなっている。演習の効果は少しあるようだ。
「敵の初期配置が判明した。横方向に薄く広がっており、陣地に厚みは無い。恐らくこちらを包囲殲滅するつもりだろう。
前回は陣地を側面より横断したが、今回は正面より敵陣地を縦断し、敵の心を完全に圧し折る。最終演習にせよ。」
鹿賀山が今回の戦闘方針を発表した。
「小隊長。正面突入はさすがに危険ではありませんか。突破できなければ、包囲されますが。」
東條寺が正論を言う。副小隊長としての義務であり、本気で危険性を感じている訳ではない。
反対意見や問題提起をすることで作戦に穴が無いかの確認作業をしているにすぎない。ゆえに鹿賀山も小和泉も涼しい顔で東條寺の意見を聞いている。
「ふっ。あの様な新兵に斃される様な兵は、831小隊にはいません。副長の気にし過ぎでしょう。私達は彼等より圧倒的に強いのです。問題はありませんよ。」
だが、蛇喰は違った。東條寺の問題提起を本気として受け止めていた。831小隊にまたかという嘆息をもたらす。あの井守ですら、ため息をついていた。マイクのスイッチを切っている為、無線に流れることは無い。
蛇喰は胸を張り己の強さを豪語するが、8314分隊は部下の戦闘能力に助けられている。蛇喰は部下の後ろをついていくだけであり、本人の戦闘能力は平凡で特筆すべき点は無い。短所も無ければ長所も無い中庸な戦闘能力であった。
性格に問題はあるが、指揮能力に大きな欠陥は無い。正確な戦略眼と戦術眼を持ち、どの様に自分が動くべきか、命令なく判断できる。この点だけを見れば問題の無い士官であった。
だが、己を安全地帯に置く癖があり、堅牢な作戦を立てる傾向があった。部下の提案も蛇喰が許容できる安全性のある提案であれば、作戦に組み込む度量もある。
ちなみに蛇喰が安全であることには、部下の安全も含まれている。部下一人が戦闘不能になることは、己の身への危険度が高まるからだ。ゆえに部下に対し、無謀や無理難題を押し付けることは一切無かった。逆に突出するような真似をすれば、注意喚起を行うくらいであった。
誰にも理解できない小和泉への敵愾心さえ無ければ、上等な士官に分類できるはずだった。
時折、その敵愾心が功名心に負け、無謀を誘うこともあったが。
「じゅ、縦断した後の行動は、ど、どうされますか。」
井守の滑舌は悪かった。数多の戦場を潜り抜けたにもかかわらず、緊張しているのだろう。戦闘が始まれば、平常心を取り戻すのだが、作戦開始の直前に緊張する癖はなかなか抜け無いようであった。状況に慣れるしかないのであろうが、そろそろ落ち着いて欲しいと、副官のオウジャ軍曹は思っていた。
「完全に背後まで抜けた後、右翼第一中隊司令部を叩く。そのまま背後よりもう一度縦断し、この場に戻り、同じ様に左翼第二中隊司令部を叩く。指揮系統を消滅させ、後は各個撃破していく。」
鹿賀山は戦術マップを指差しながら説明をする。
「え~。それって僕が先鋒を務めることが前提じゃないのかな。もう夕方だし、疲れたから楽に勝とうよ。」
小和泉の格闘戦能力は、831小隊で最強だった。その卓越した技術を補佐できるのは、今はカゴだけであり、二人が突破口を切り開く役目をこの演習で担い続けていた。以前は、カゴではなく菜花がその位置にいた。この二人で敵の陣地を切り開けと作戦は示していた。
「却下だ。菱村大隊長の命令は、新兵を一人前にすることだ。せめて盾として機能する様にしたい。現状では盾にすらならない。脆すぎる。
もっと追い詰め、自然種を上回る身体能力など戦争には役に立たぬと知らしめ、無駄な自尊心を破砕させる。弱兵であることを認めさせ、素直に古参兵の命令に従う兵士に仕上げる。それが死傷確率を減らす最善策であると大隊司令部の考えであり、私も同意見だ。
まだまだ、新兵どもを追い詰められる。」
「はぁ、分かったよ。小隊長殿。手加減を止めていいんだよね。確実に怪我人が出るけど良いよね。」
「無論だ。大隊長も許可している。好きにしろ。最善を尽くせ。」
「了解。折角、怪我しない様に手加減をしてあげていたのにね。可哀想に。」
「ちょっと錬太郎。手抜きをしていたの。最初から手加減無しでやりなさい。演習の意味が無いでしょう。」
「錬太郎様が手加減されることにより、怪我人はほぼでていませんが、演習時間は延びております。お気づきでは無かったのでしょうか。」
東條寺の強い言葉と桔梗の冷たい言葉が、小和泉に向けられる。
狂犬と恐れられる小和泉にハッキリと物を言える人間は831小隊の人間と菱村とその副長、そして菱村の息子であり、東條寺の兄である憲兵隊の白河少佐だけだろう。
他の隊の上官達は、直接小和泉に命令を下さない。必ず菱村を通していた。それは平時の時のことだけだ。前線では、その様なことを気にする余裕はない。
「ああっ。」
小和泉にしては間抜けな声を上げてしまった。
―なるほど。僕が手加減をする。新兵どもは怪我しない。まだ動ける。演習が可能。終了しない。僕が面倒になる。さらに手を抜く。新兵は気力を保つ。ゆえに演習が続く。で、何度も繰り返す。
そうだったのか。僕が手加減していたから、つまらない演習を何日も続けることになっていたのか。
気付かなかったな。うん、これは本気を出そう。手加減は止めだね。―
小和泉は、楽をしようと手を抜いていたことにより、演習がいつまでたっても終わらない事に初めて気がついた。そして、ようやく本気になった。小和泉の瞳の奥に仄暗い闇の様なものが蠢く。
「わかったよ。この演習から全力で行くよ。」
「分かれば良し。では、気を引き締めてかかる。各隊、戦闘用意。」
「8312良し。」
「8313良し。」
「8314良し。」
「各隊、突撃。」
その命令により小和泉のたがが外れた。狂犬を繋ぎ止める鎖が解き放たれた。
悪夢や凶事を引き起こすきっかけとは些細なものなのだ。
鹿賀山の命令により、小和泉は真っ先に大地の割れ目から走り出した。
身体の姿勢を屈め、射点を予測できぬ様に変則的に大地を雷光の様に走り抜ける。背後には、カゴが遅れずぴったりと追走する。
やや後方を警護する様に桔梗と鈴蘭も追随する。障害物競走であれば、促成種が自然種の小和泉に追いつくことは造作も無いことだった。
小和泉のすぐ脇を幾つもの火線が通過するが、小和泉は恐れもしない。当たったところで演習用に出力は下げられており、複合装甲やプロテクターを貫通することは無い。
実際に月人も通常出力の光弾の直撃を一、二発受けたところで足を止めることは無い。この被弾を省みない突撃が月人の本来の戦い方だ。
数百メートルの距離を数秒で詰めると塹壕に転がる様に落ちる。回転しながら塹壕の中の配置を確認する。前に四人、後ろに二人。
小和泉は、床に着地する直前、塹壕の壁を強く蹴り、身体の進行方向を力づくで変える。そのまま着地すれば予測攻撃の餌食になる可能性がある。それは避けるべきだ。ならば、着地前に軌道を変えれば良いだけだった。
案の定、着地点へ光弾が着弾した。散々、この数日の演習で鍛えた成果だった。しかし、小和泉には意味は成さない。
壁を蹴った反動を利用し、正面の兵士の腹に長剣を突き刺す。プロテクターの隙間を狙った為、背中まで貫通した。この演習で赤い血が初めて舞う。
兵士は刺された衝撃でその場に背中から倒れる。想像以上の痛みに兵士は気を失った。小和泉は、長剣を兵士の身体に残した。深く刺し過ぎた為、抜くより銃剣を奪った方が速いと判断した。それに剣を抜くことにより、失血死されても厄介だ。
倒れた兵士の銃剣を奪い、その勢いのまま隣の兵士の右脇腹を深々切り裂き、反す刃で正面の兵士を袈裟斬りにする。
隣の兵士の傷口から小腸が零れ、正面の兵士はプロテクターごと胸の筋肉を切り裂いた。小和泉は、二方向から熱い血を浴びつつ、複合装甲が汚れるままに任せる。血を避けるよりも残りの一人を斃すことを優先した。
残りの兵士へ腰を落としつつ、一歩強く踏み込み、喉へ左掌底を全力で撃ち込む。喉には防具は無い。防具をつけると可動域が減り、首が自由に動かせなくなるからだった。
硬い紙箱を潰した様な感触が小和泉の掌に野戦手袋越しに伝わる。喉頭か、声帯か、それとも両方が壊れたかもしれない。だが、頸椎は無事なようだ。
呼吸困難に陥った兵士が喉を両手で押さえ、地面に蹲り、空気を欲しがる。即座に無防備な後頭部を地面へと全力で踏み付け、脳を大きく揺さぶった。脳震盪か酸欠なのかは分からないが、兵士の四肢から力が抜け、動かなくなった。
小和泉が回し蹴りをしなかったのは、堅いヘルメットを被っている為だった。いくら複合装甲と足先を保護する複合セラミックス板が組み込まれている野戦長靴を履いているとはいえ、自分の足を壊す恐れがあるからだ。足先は細く小さい骨の集合体だ。蹴り方を間違えると簡単に骨折してしまう。
ほんの数秒で小和泉は、四人の兵士を無力化した。背後ではカゴが同じ様に二人の兵士の無力化を小和泉とは対照的に奇麗に無血で終え、桔梗と鈴蘭は塹壕の曲がり角で敵兵の接近に備えていた。
誰も小和泉の戦い方に文句を言う者はいなかった。8312分隊では、小和泉の行動は全て正当化される。行き過ぎた戦闘行為というものは存在しない。殺すか殺されるかが戦争である。




