第5話 坪口兄弟
坪口の家は鳥巣市街地から外れて、鳥巣市民の憩いの森、四阿屋に向かう中央線の無い市道沿いに一軒ぽつねんと建つ、在日朝鮮人のホルモン焼き肉屋だ。両親は戦後のどさくさに紛れて朝鮮半島から密航して来て鳥巣市に落ち着いた。
兄弟揃って人並み以上に体格が良く、小学生の頃から手のつけられない悪童だった。親父は坪口が幼いときに他界して母親一人で店を切り盛りしてきた。当然子どもにまで気が回らず放任状態。兄弟の晩飯は客の残りと簡単な賄い料理、銘々勝手に食ってニ階の四畳半の部屋に上がる。
ニ人一部屋で、先に上がってニ段ベットの下段に仰向けに寝転がって少年ジャンプに下卑た笑いを響かせる兄貴に、ボンタンジャージに両手を突っ込んで部屋の壁に艶に凭れた坪口が、「明日首洗って待っとけや」
「あ~ん意味解らんわ」と弟を歯牙にも掛けない兄貴は雑誌から視線を外さない。
坪口は去年の夏休み以来、兄貴との衝突を避けてきた。それまでは、事ある毎にぶつかって兄貴に打ちのめされていた。兄貴としても逆らわなくなった弟に、腕力的に敵わないと悟って諦めたのだろうと高を括っていた。
「馬鹿兄貴よ、もしかして俺がお前に尻尾巻いたち勘違いしとんやねぇか?」
この言葉には兄貴の耳朶がびくっと動く。上半身をやっと起こして、地を這うような低い声で、「ぁあこの負け犬、誰に向かって口利いとんじゃ」
「お前ぇ馬鹿か。こん部屋には俺とお前ぇだけじゃ。お前ぇに決まっとろうが」
途端、ベットから猛然と飛び出してきた兄貴が坪口の襟首を掴んで締め上げた。
「弟やと思うて俺が手加減するてろ思うなや!」
脅し文句が言い終わるや否や、坪口は浩紀譲りの強烈な膝蹴りを兄貴の鳩尾にぶち込んでやった。ぐふっと兄貴が襟首から手を放して腹を押さえて蹲る。兄貴は瞬間、驚愕の眼差しになった。油断していたとはいえ、今までの弟ではないその力量を悟る。今までと同じ感覚で接したら墓穴を掘るかもしれない。
でもそこは兄貴、威厳たっぷりに、「おう、少しは真面な喧嘩ができるようになったやねぇか」
「ならこっちも手加減なしや。望み通り今直ぐ殺してやるよ」と舌なめずりする。
対する坪口も不敵な笑みを浮かべて、「一応俺とお前は兄弟や。お前に敬意を表して明日学校でお前のグルーピーの前でタイマン張ってやんよ。そう死に急ぐなや」
弟にここまで言われたら兄貴としてはこの提案を飲まない訳にはいかない。
「分かったわ。タイマン受けてやんよ。お前ぇ命拾いしたな。そいも明日までやけどな」
兄貴は再び下卑た笑いを部屋に響かす。
幼少期からの鬱積した恨み、今すぐ晴らすのは坪口としても本望だ。だが、何事に於いても激情に任せず計画性を持たせて未来を有利に導くこと、これが影番の意向だ。慌てずとも、明日は衆人環視の下でやっと兄貴に引導を渡せる。ここまで自信をつけることができれたのは井本のお陰だ。実戦形式の喧嘩修行、耐え抜いたとき、坪口は誰にも負ける気がしなくなった。井本に頼んでくれた康太には感謝しかない。
鳥巣中学校体育館の裏の三角地帯、康太が坪口に袋叩きにされた場所であり浩紀が坪口とタイマンを張った場所。夏休み以来、ここが康太たちの憩いの場所となっていた。普通の生徒であろうと心掛けても仲間が仲間だ。煙草の味も覚えてしまった。何より、康太が兄貴と慕って憧れる井本のように、格好良く煙草が吸ってみたかった。
生徒間では暗黙の了解でここは不良の屯するヤバい場所であり、康太の取り巻き以外は誰も近づかないから、康太と美代子には絶好の逢い引き場所だ。美代子の手提げバッグには煙草が入っている。体育館と側溝の間に並んで腰を下ろして溝の外縁に足を掛け、「康ちゃん一服するぅ?」
「あぁ」
旨そうに煙を吐き出す康太ににこにこ顔の美代子が、「康ちゃん煙草喫う姿が様になってきたね」
「ばってよう、俺らも一端の不良やな。姉ちゃんが知ったら泣くぜ」
美代子は口を突き出して、「仕方ないやん。友達が友達やから」
康太はしみじみと、「まさかあの大塚と坪口が今の俺の友達たぁな」
「で、三浦はグレ捲っとったときモク喫ってなかったん?」と普通は触れられたくないと思われる話題を臆面もなく口にする康太。
「確かにグレとったけど、捲ってたやなんて好きくない」
美代子が口を尖らせる。
「あの頃は淋しくて、お母さん困らせる悪いことなら何でもしたかったん。遊び仲間と煙草も喫ったりしたけど淋しさは変わんなかった。でも今は違うよ。康ちゃんが居るけん何があっても淋しくない。やからもう喫わない」
美代子は康太の肩に頭を乗せて、気持ち良さそうに目を閉じる。
「よう康太!」の声に美代子はびくっとして体勢を戻す。
坪口はにやにやしながら、「お楽しみのところ悪ぃな」
がばっと立ち上がった美代子が、「坪口急に出てくんな。せっかく康ちゃんと良い雰囲気になってたのにぃ」とぷ~っと頬を膨らます。強気の男言葉は坪口に対するいつもの美代子の挨拶代わりだ。
美代子の難癖など全く意に介さず、坪口は康太の横に座る。
坪口もワルらしくポケットから煙草を取り出して火を点け、「ここは温うていいな」と美味そうに煙を吐き出す。
「ああ」と康太が一言返す。
美代子が、「いつも恋人のように一緒にいる浩はどうしたん?」
「教室で淳子たちと楽しそうにくっちゃべってたわ。あいつも結構軟派やな」
「ふ~ん」と美代子。
坪口はしみじみと、「明日は卒業式か。俺らの中坊時代も終わったなぁ」
「坪口にしては偉く感傷的じゃん」とニヤつく美代子に、「暴れ捲った三年間やったばって、康太と出会ったこつでしょうもねぇゼイガク生活にちょっとは意味が出てきたごたるぜぇ」と真面目に応じる。
「おっと言い忘れた。三浦、鳥巣高合格おめでとうよ。こいでまた三年間康太と一緒に居られるな」
思わぬ餞の言葉に面食らった美代子ははにかみながら、「ありがと。坪口も鳥巣工業合格良かったやん」
坪口は頭を掻きながら、「俺も浩も康太ん姉ちゃんにはお礼の言葉もねぇぜ。俺らバカやけ学園か龍川しか行くところねぇち思とったばってまさか工業に受かるちゃ思わんやったわ。康太の姉ちゃん超能力でも持っとんかいな。ここが出るけん丸覚えしろち問題と答え貰うて、言われた通りしたら本当に出たけんな」
「ところで康太」と坪口が神妙な顔になって、「相談があるんや」
「そいでわざわざ俺探しに来たん?」
「あぁ、井本さんの特訓のお陰で自信がついたけ兄貴と決着つけようち思うんよ。負ける気はせんばって、一回勝ったけんち言うてプライドの高ぇ兄貴が俺に敵わんち簡単に認める訳ねぇんよな。家では一緒やし同じ学校やし、やり難いことも色々出てくるっち思うんよ」
「二年で工業締めた坪口の兄貴のこつは日出兄から聞いたことあるぜ。日出兄とタイマン張って、回し蹴りで腕の骨へし折られて負けても全くめげんで挑戦してくるってよ」
美代子がへ~って顔で、「日出兄坪口の兄さんこてんぱんにやっつけたんだ」
「こてんぱんにって、坪口の兄貴仮面ライダーに出て来る怪人みてぇやん」と康太が笑う。
美代子は、「日出兄に敵う不良なんか居らんよ。一番強いんやから」と一人で悦に入る。
「確かにそんな兄貴が坪口に1回やられたくらいで尻尾巻く訳ないよな。ばって懲りん奴と何回もやるんは嫌らしいし危ないぜ。いくら坪口が強うなったって言うても油断がないとは言えんしよ」と康太。
「康太、どがんしたらよかや?知恵貸してくれよ」
坪口は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「坪口にとって兄貴って何なん?」と康太。
坪口は、「兄弟やけ仕方なく一緒に居るばってよ、はっきり言うてこの世から消えて欲しいぜ」と吐き捨てる。
康太はパンと手を叩いて、「なら話は簡単や。死んで貰おうや」
坪口がへッと言う顔になる。
美代子も、「康ちゃんいくら不良でも人殺しはダメ!」と真顔になる。
康太は火消しに躍起になって、「冗談ちゃ。真面に取んなちゃ」
「そんくらいの覚悟でっちゅう意味なんちゃ」
「康太俺頭悪いけ分かるように言うてくれちゃ?」
「高校に行く坪口の目的何なん?」との康太の唐突な質問に、「一気に工業締めて俺と浩と康太の夢叶えることやんか」
「坪口、その夢って私が言い出したことなんよね」と美代子が憤然として口を挟む。
坪口はうんざりした顔で、「そうやそうや、三浦が言いだしっぺや」
「やったら私も入れてよ」としかめっ面になる。
「分かったよ」
「俺と浩と康太と三浦の夢や」
「坪口、ムカデの生殺しは寝とるときに刺してくるかもしれんで危ないやろ。何度も叩いて完全に殺すしかないんやけど、人間じゃ殺す訳にゃいかんけん抵抗力奪うしかない」
「兄貴の目潰せや。そしたらもう仕返しできんぜ」
うっと唸った坪口は、「康太、他人事って思うて簡単に言うなや。さすがの俺もそげな残酷なことはできん」
「よね。坪口がそげなこと平気でできる奴やったら恐ろしゅうて友達になれんわ」と笑った康太は真顔になると、「兄貴とのタイマンは入学式んときにやれよ」
「鳥巣市中の中学締めてしもうたやろ。そん中で工業進学者全員引き連れて対抗するんや。兄貴も仲間引き連れて来るやろうし。で兄貴ば、仲間の前で暫く日常生活できんくらい徹底的に痛め付けて病院送りにしてやるんよ。序に兄貴の手下も叩き潰して忠誠誓わせて、戻って来た兄貴の頭がおかしくなるまで繰り返し痛め付けさせるんや。全てが嫌になるまでね。要するに廃人化や」
「どうや坪口できるや?」
「目ば潰すんと同じくれぇ残酷やな。一気にヤるかじわじわヤるかの違いやないかちゃ」と不敵に笑う坪口は、「下につける訳いかん奴の一番ええ潰し方やな。かわいそうやがヤるしかねぇわ。俺が弟やったんが奴の不幸じゃ」
坪口はしみじみと、「まっこと井本さんは喧嘩の天才やで。あん人に勝とうとか糞兄貴ぁ身の程知らずやで」
「日出兄にどげな必勝法教えて貰ったん?」と訊く康太に、にやっと笑った坪口は、「ナイフや」
「俺と浩だけは特別にナイフ投げ教えて貰うた。こいで兄貴の精神破壊したる」
坪口は学生服をばさっと広げて見せる。康太と美代が裏地に収められた6本のナイフに目を見張る。
「坪口ほんと危ない奴やなぁ」と感嘆する康太。
「入学式ん日は鳥巣市中の不良がビビり上がること請け合いやで」
坪口と康太は顔を見合わせてにやっと笑った。