* 1-(1) *
ドーンッ!
建物全体が横に大きく揺れた。
(地震っ? )
皮膚科「四愛医院」の待合室。 壁と向き合うかたちで置かれた長椅子に腰掛けたまま、読んでいた雑誌から顔を上げ、辺りを見回したのは、三室桃佳、高校2年生。通り道だからと母から頼まれて、学校帰りに、バイト先のスーパーマーケット「ヤオシゲ 壱町田支店」へ向かう途中、弟のアトピーの薬を貰うため立ち寄っていた。
他の患者たちも、三室と同様、キョロキョロ。
受付兼会計の女性が、
「皆さん、落ち着いてください! 」
受付カウンターから待合室に飛び出して来、その場にいる誰よりも落ち着き無く大きな声を出す。
直後、三室の座っている椅子の真正面の壁が大きく崩れて穴が開き、冷房の効いた待合室に、7月の午後4時過ぎのムッとした空気が流れ込んできた。
(……! )
三室は、その崩れた壁の外側に佇んでいるモノを目にし、固まった。
ウシだ。優に体高3メートルはある、巨大な黒いウシ。
ウシは、三室を真っ直ぐ静かに見据えている。
院内は騒然となった。
しかし三室は、ウシの迫力に声も出ない。
ウシと見つめ合ってしまうこと数秒の後、ウシが地面を蹴り、三室に向かって突進してきた。
逃げなければ危ないことくらい分かっているが、体が動かない……。三室は、恐怖からギュッと目を瞑る。 瞬間、体がフワッと宙に浮く感覚。驚いたが、痛みなどは感じない。
(……? )
そっと目を開けて見ると、フルフェイスの赤いマスクが見えた。
体には、おそらく、マスクと同色のボディラインにピッタリフィットした服を纏っているであろうこの人物を、三室は以前、この人物と、その仲間を取り上げた、地元テレビ局の番組で見たことがあった。ここ数年、三室の住む地域一帯の住民の生活、そして生命をも脅かしている「超地球生物」と呼ばれる謎の生物と戦う正義の戦士「スーパーファイブ」。 今、目の前に見えている、この人物は、5人いるスーパーファイブのメンバーのうちの1人、「スーパーレッド」だ。
三室は、レッドの逞しい腕に、お姫様抱っこされていたのだった。
レッドは、三室を抱いた状態で横っ飛び。
ほぼ同時、ドカッという衝撃音。
音の方向を見た三室は、ゾッ。三室が座っていた椅子の背もたれをツノで突き刺したウシが、刺さったまま取れなくなってしまったらしい椅子を振り払おうとしているところだった。…もし自分がそのままそこに座っていたらと思うと……。
三室が助けてもらった礼を言おうとした、その時、ウシが椅子を振り払い、体の向きを変えて、再び三室を見据えた。
ウシは、後足をガッガッと踏み鳴らす。
三室は恐怖のあまり視線はウシに釘付けになったまま レッドの首にかきつき、レッドのほうも三室を抱く手に力を入れる。
そこへ、崩れた壁の大きな穴から小さな何かが飛んで来、ウシに刺さった。
ウシは一度、悲鳴に似た高い声を上げ、暫くの間、もがくように、その場で前足と後足で交互に床を蹴って激しく辺りを震動させ、暴れていたが、やがて、ドサッと床に崩れ、動かなくなった。
それを待っていたかのように、レッドと色違いのコスチュームに身を包んだ、スーパーファイブのブルー・グリーン・イエローが壁の大穴から駆け込んで来、ウシを囲んで跪く。
そして、確認するようにウシに触れ、イエロー、
「麻酔が効いたみたいね」
呟いてから、バッと顔を上げてレッドを見、
「あんたは赤いんだから、ウシの目の前をチョロチョロしたらダメじゃないのっ! 」
怒鳴りつけた。
「すみません……」
謝ったレッドの、その声に、
(あれっ……? )
同時にドキッ。三室は聞き覚えがあった。
レッドは三室を床に下ろし、
「もう大丈夫だよ。怪我が無くてよかった」
(やっぱり、この声は……)
似ていると言うより、全く同じ声。優しい喋り方まで同じだ。ウシへの恐怖とは全く無関係にドキドキしながら、三室は、しっかり抱いてくれていた感触を、自分を抱きしめるようにして確かめる。
(でも、まさかね……)
三室は、すぐさま自分の考えを否定してからレッドを仰いだ。
「助けてくれて、ありがとうございました」
レッドは軽く頷く。
マスクで表情など分からないはずなのだが、三室には、レッドが優しく微笑んでくれたように思えた。一度は否定したが、本当に、雰囲気まで、よく似ている。
レッドは仲間のところへ戻り、4人で力を合わせてウシを持ち上げた。
(すごい力……)
三室は、初めて目の当たりにするスーパーファイブの腕力に驚きながら、4人が壁の大穴からウシを外へ運び出して医院の隣の空地に停めてあった長さ・幅・高さ、何処をとっても よく見る4トン保冷車の倍以上の大きさの超大型トラックの荷台に載せる様を、大穴から眺める。
「三室さーん」
受付で呼ばれ、三室がカウンターまで行くと、受付兼会計の女性は、薬の入った白い紙袋を差し出し、
「お待たせしました。弟さんは中学生ですので、塗り薬の容器代のみ50円いただきます」
事務的に言ってから、からかうような口調で、
「怪我しなくてよかったわね。しても、治療は出来るけどね。皮膚科だけど」
三室は反応に困って曖昧に笑いながら50円を払い、薬を受け取って四愛医院を出た。
*
バイト先のヤオシゲへは、四愛医院から愛用の自転車で20分弱。
到着後、自転車は1階裏側の従業員用駐輪場に停める。
ヤオシゲは、建物が少し変わった構造になっており、一般の道路に面したメインとなる店舗入口は2階、売場も2階にあり、1階部分に、お客様駐車場と車で来店されたお客様用の入口、テナント2軒の他、車で来店されたお客様用入口と向かい合う位置に、「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙が貼られたドア。その奥には、店長室、事務室、更衣室、休憩室などがある。
三室は、従業員用駐輪場から店内を通らず直接出入り出来る、関係者以外立ち入り禁止のドアとは別にある、立入禁止区域につながる出入口を入り、更衣室のロッカーに荷物を置いて、学校の制服の上からヤオシゲの店名入りエプロンをし、タイムカードを押してから階段を上って2階のバックヤードへ。青果部の作業場の前を通り過ぎ、角を曲がると、三室が所属するセルフ部の日配商品以外の商品の入ったダンボールが壁際にビッシリと積まれた、セルフ部の作業場代わりの薄暗い通路。そこで少女向け漫画雑誌と雑誌の付録を1冊分ずつ丁寧に しかし手早くビニール紐で纏めている、セルフ部の26歳のサブチーフ、桃沢里絵を見つけ、
「桃沢さん、こんにちは」
その横顔に声を掛けた。
桃沢は仕事の手を休め、後ろでスッキリと1つにまとめたウエストまでの長さの艶やかなストレートの黒髪を微かに揺らし、ゆっくりと三室に向き直る。
「こんにちは。…良かった、会えて……」
どこか寂しげな、疲れたような笑顔。
(……? )
いつもは朗らかな桃沢の元気の無い様子に、心配になる三室。
桃沢は続ける。
「私ね、今日で会社を辞めることになったの」
(……! )
「さっきモモちゃん、途中で病院に寄るから遅れるかもしれないって連絡くれたでしょ? 私、今日は定時の5時で上がるから、会えないかもって思ってたの」
三室はショックだった。三室がヤオシゲでバイトを始めて半年。まだ何も分からなかった頃に親切丁寧に仕事を教えてくれたのは桃沢だった。すっかり仕事に慣れてからも、学校の事などで落ち込んでいる時など、桃沢は、いつでも優しく相談にのってくれた。弟と2人兄弟の三室は、桃沢さんみたいな お姉ちゃんがいたらいいのに、と、いつも思っていた。その桃沢が、いなくなる。ショックと寂しさ、しかも、あまりにも突然に。
三室は言いたいことが心の中で溢れかえり、混乱して逆に言葉を失い、俯いた。俯いたまま、
「どうして、ですか? 」
やっと、それだけ言う。
桃沢は言葉に詰まり、少しして困ったように、申し訳なさそうに、
「ごめんね、それは言えないの」
桃沢は大人だ。人に言えない事情もあるのだろうということくらい、三室も頭では理解できる。しかし、三室のほうは桃沢に、自分のことを色々話してきた。それなのに、桃沢は話してくれない。……寂しかった。
「そんな顔しないで」
桃沢は三室の顔を覗きこむ。
「全然会えなくなるわけじゃないんだし。……また、いつでも電話して? ね? 」
そんな顔、のまま三室が頷くと、桃沢は時計を見、また、寂しげな疲れたような笑顔。
「もう時間だから、私、上がるね。雑誌の続き、お願い出来る? 」
三室の、はい、という返事を受け取って、桃沢は、お先に、と、去って行った。
三室は、桃沢が階段の方向へと曲がったために見えなくなるまで見送って、溜息をひとつ。それから、桃沢の残した雑誌の作業の続きに取り掛かる。
*
雑誌の作業があと1冊分で終わるというところで、
「モモちゃん」
後ろから声が掛かり、三室は、ドキッとしながら振り返った。
振り返る前から、自分の後ろにいるのが誰なのか、三室には分かっていた。……入社2年目の精肉部社員、赤木廉太郎。 声だけで分かる理由は、胸のドキドキが正直に説明している。ヤオシゲでバイトを始めた、その日に、ひと目見た瞬間、それほど背の低いほうでないはずの自分が見上げてしまうほどの長身と、精悍な顔立ち、仕事中の真剣な姿に心惹かれ、初めて話しかけられた時には、外見から想像のつかないソフトな口調に驚き、感動すらした。赤木が傍を通る度、話しかけられる度、半年経った今でも緊張する。さっき、四愛医院で巨大なウシから助けてくれたスーパーファイブのレッドの声は、赤木にそっくりだった。だから、あんなにドキドキした。
「な、何ですか? 」
三室はドキドキを必死に抑え、赤木の顔を仰いで次の言葉を待つ。
「大切な話があるんだけど、ちょっと一緒に来てくれる? 」
ドッキーンッ! 一瞬、三室は心臓が体の外に飛び出してしまったかと思った。つい、その、大切な話、の内容に期待してしまう。抑えきれない鼓動が痛い。
「あっあの……」
頭の中も、もうメチャクチャだ。どうしていいのか分からず、下を向く。
頭上から、
「キリのいいところまで終わってからでいいよ」
赤木の優しい声。
三室は、
「は、はい」
赤木が見守る中、緊張に震える手で1冊分だけ残っていた作業を再開、何とか終え、
「終わりました」
「じゃ、行こうか」
先に立って歩く赤木の後ろを、
(何だろう、話って……)
三室は、胸の高鳴りと緊張による震えは、そのままに、俯き加減でついて行く。