閑話 師匠の過去
「師匠! すぐに御飯作りますからねーっ」
そろそろ腹が減ったなと思っていると、馬鹿弟子が我が家へ戻ってくるなり、台所で叫び声を上げるのが聞こえた。
「……まったくあいつは」
中級魔法使い、エンファーは何度目かわからない溜息を吐く。
縁あって、半年前に五歳のアルファンという少年の師になった。
己は若い頃、子爵家に勤め、平民出身では大出世といえる程に稼ぎもしたが、そこには世の常というべきか、妬み嫉みに晒される世界でもあり、割り切って四十半ばまで我武者羅に稼いだ後は、嫌気がさした人間社会とほとんど縁を切ってやった。
エンファーは、人間とはこの世で最も汚いものだと思っている。持てる者を羨み、悪知恵を働かせ、愚考と愚行を、殺戮と略奪を繰り返す成長のない生き物であると。
そんな必要最低限以外は人と関わらないようにしていた自分が、唯一と言っていい縁は歳が十五程離れた弟のジファーだけだ。
ジファーは幼い頃は身体が弱く、家に引き篭もりがちで、言ってしまえば世間知らずの弟だった。
成人後、己が子爵家へ勤め出すともともと裕福ではない家族は己の給与をあてにするようになった。
最初の頃は育ててもらった恩義があると、律儀に援助と言う名の無心を許容していたが、そうすると父は仕事を休みがちになり、兄弟の中には仕事を辞めてしまったものもいた。
数年経っても、度重なる諫言にも耳を貸さない怠惰な家族。極小さな嫌悪感が山のように積もり、かつてあったはずの家族愛すら探し出すことも困難になった。もはや探そうとも思えない。
もう縁を切る他ない。
絶縁状を叩きつけに足が遠のいていた実家に向かうと、そこはもぬけの殻であった。
いや、正確には末の弟であるジファーだけがベッドに取り残されていた。
「……ゴホッ、あ、兄さん? 帰ってたの?」
「……」
風邪でも引いているのか、額には汗をかき涙目で赤い顔の弟がいた。
「みんなはどうした」
無心される度に聞かされる詭弁の中には、嘘か真か、今となってはもうわからぬが病弱な弟の薬代だと言うものもあった。
だけどもう己は家族と縁を切るつもりでここにきた。もう使ってやれる愛情などとうに擦り切れて、失ってしまったのだ。
「……みんなは、王都へ旅行に行くって」
そう言った弟は、気まずげに視線を逸らす。
ーーああ、やっぱり。
あの家族はもう変わってしまったのだ。笑いすら溢れるほど、心は冷えて切っている。
「私はもう、この家には戻らない。みんなにもそう伝えてくれ」
「……っ」
ハッと目を開けたジファーは、それでも一度目を泳がせると泣きそうに微笑んだ。
「わかった。今までごめんね、兄さん」
「……ああ」
まだ十歳に満たない子供を残し、旅行などに行く家族に吐き気がする。
だが、薬代を己が融通しなければ結果は同じで、どのみち融通したところで薬代を遣い込むのは目に見えている。
もう、この弟にやってやれることはない時点で同じ穴のムジナだ。
「ではな」
どうにも重く苦い気持ちを抱えて踵を返した。
「兄さん、まって」
「……おい?」
寝ぼけているのか、ベッドからのそのそと這い出てきたジファー。
ベッドに戻さないとと慌てて近づくと息苦しそうに静止の手が上がり、そのまま床へ跪いた。
「エンファー兄さん、今までありがとうございました」
「……」
「僕は、こんな身体だから家の中の仕事も出来ないし、兄さんの稼ぎを食い潰すだけで、みんなを止めることもできなかった」
そこには、見たことのない弟がいた。
「兄さんが辛そうにみんなを止めるのを知っていたのに、僕じゃ役に立たなかった」
「……お前の歳では仕方なかろう」
この、幼く病弱な身で出来ることなどしれている。期待していないと言えば聞こえが悪いが、期待する方が酷というものだ。
それでもジファーは即座に首を振り、涙ながらに告げた。
「そのせいで僕は家族を失った!」
「……それもお前のせいではない。いいから、ベッドに戻りなさい」
駄目だったのは、自分を含む薄情で軽薄で、厚顔無恥な我々家族だったのだから。
ーーああ、早くこの場から去りたい。
「でも兄さんはっ、兄さんがずっと努力していたのを僕は知ってる。もっと小さかった僕に何度も声を掛けてくれて、高価な薬をくれて、兄さんだけはずっと優しかったのを覚えてる。悪いのは、父さんと母さんと他の兄さんと僕だって、ちゃんとわかってるから!」
「だからっ、兄さんは幸せになって!!」
その言葉を背中に、逃げるように実家を後にした。
気が動転して、絶縁状を置いてくるのも忘れていた。
誰が優しいものか、あんな幼子を一人きりにして。罪のない弟に全てを背負わせる人間のなんたる汚いこと。真に罪深いのはあの家族ではなく、自覚があってあの惨たらしい仕打ちをする己自身ではないのか。
罪悪感に打ちのめされる自分と、未だ恥知らずにも絶えず無心の連絡を寄越してくる家族だった者たち。自分の中ではとうに縁は切れているのだ。
ただ、あの幼い存在が気にかかるだけで……
****
「兄さん、行ってらっしゃい!」
「……いいから、お前は寝てなさい」
一年後、捨て切れなかったジファーが隣で笑っていた。
あの後、再度絶縁状を叩きつけに実家に足を踏み入れると、杜撰な看病をされているジファーを見つけた。
「……どうだ、具合は」
「エンファー兄さ、ん?」
幽霊でも見たかのような顔で固まっている弟。
「元気ではなさそうだな」
「……これでも、ちょっとはマシになったんだよ。兄さんが宛名のない手紙に薬を入れてくれたんでしょ?凄く嬉しかった。でもね、もう僕の事は」
大して変わらない青白い肌のどこがマシだというのか。そのままつらつらと言い募りそうなのを、聞く意味はないので、遮る事にする。
「私と一緒に来ないか」
「!?」
「お前だけは、捨てない事にしたんだ」
「……な、んで?」
弟は泣き出しそうな、困惑したような、それでも少し嬉しそうな複雑で面白い顔をしていた。
「お前とは、家族を続けられそうだったからだ」
ただ、ついて来るならお前にも己以外の家族を捨てて貰わないといけない。
だが、その条件下でも弟は迷いなく私を選んでくれた。
「師っ匠ー! お待たせしましたー!」
大袈裟なほどの大声で、無駄に騒しく扉が開いた。
「……お前、また儂の飯忘れておっただろ」
「えっ、いやぁー、はははは」
笑って誤魔化すな馬鹿者。
「今後、一月に五回以上忘れたらその月はもう教えてやらん。お前はタダ働きじゃ」
「んなっ!? ご無体な!!」
「どこの世界に師の世話を月に五回以上忘れる弟子がおる! 普通ならお前なんぞとうの昔に破門じゃ破門っ!」
順調に歳を重ねるとジファーも所帯を持ち、儂はまた一人になった。
悠々自適な森での一人暮らしも、歳には勝てず、従順な僕と言う名の弟子をジファーに依頼すると、色んな意味でとんでもない弟子を得る事になるとは思いもよらずに。
「じーちゃんもこれ美味いって言ってたから、師匠も気に入ると思いますよ〜」
先程叱られた事を覚えているのかいないのか。
子は無く、妻に先立たれた弟を祖父のように慕う弟子は呑気に料理を取り分けている。
その弟曰く、
「坊ちゃんは、私の孫みたいなものですから」
血の繋がりはなくとも、そんなこともあるのだと笑っていた。
己がジファー以外の家族を捨てたのは二十三の頃。
ジファーが伴侶を得たのが二十の時で、先立たれたのは彼奴が四十の頃。
さらに孫を得たのが四十二の頃で、己までもが弟子を得るのが六十二歳になるとは思いもよらなんだ。人生とははてさて、
「儘ならぬものよの……」
「え? 師匠何か言いましたか?」
エンファーはなんでもないと首を振り、目の前にある摩訶不思議な料理の数々に目を移した。
今夜はどんな未知の味と出会えるのかと、心弾ませながら。