第ニ話 神ひかりあれと B-3(4)
B-3(4)
「嘘っ。実体を破壊したのに」
「写真が実体じゃないんだ」
「でも。それなら何が――」
ミツルギが息を呑んだ。
カンシタが立ち上がっていた。
少しだけ首を傾けた人形のような姿。
「……」
カンシタの口が動いた。
「……見えるか」
掠れたような声が聴こえた。
「見える? あの蜃気楼のことか」
「最初に届く光こそ神の意思。峻厳にして荘厳な美がそこにある。その光を闇に変え、光に還す時、写真家は神になると言っても過言ではない」
どこか傲岸な口調は、カンシタのそれではなかった。
「おまえ。誰だ?」
カンシタの口許がゆがむ。笑みか。
(――っ)
右腕を上げた。
レザーバンドが揺れる。だが、金狼は現れなかった。
直接攻撃を躊躇う気持ちが先に立つ。
「コウ。蜃気楼が」
ミツルギの声に貌を上げた。
落ちてくる蜃気楼。その瞬間、逆さまの山に孤を描くような軌跡が走った。
第一体育館を中心に高速回転するジンの鋼球が、蜃気楼と触れ合っていた。
耳障りな摩擦音が辺り一帯に響き渡り、次の瞬間、ぎ、ぎ、ぎ、――と軋むような音に変わった。超重量の物体をぎりぎりで支えれば、こんな音がするかもしれない。
「まさか。ひとりで侵食を抑えているのか」
「時間は稼ぐけど、いつまで保つかはわからないって」
「――」
蜃気楼からカンシタに眼を向ける。
ゆがんだ笑みを浮かべた白い貌。
「なあ。カンシタ」
ポケットに手を入れて言った。
「あるいはカンシタじゃねえかもしれねえ誰かさんよ。考えてみれば、写真が実体ってのはねえよな。順番が逆だ。最初に蜃気楼が存在したんだ。カンシタの写真はそれを撮ったものだ。だとしたら、最初の蜃気楼を生んだ『何か』があったはずだ」
「……」
「そいつが何か――教えてもらえねえか」
ポケットから手を出す。
人差し指と中指の間に黒い鋼球を挟み、カンシタに見せた。
ジンがアンリを護るために入れたものだ。あのままポケットに戻して、返すのを忘れていた。
「こいつは、あの蜃気楼の落下をひとりで止めている男のものだ。だがよ。あいつにだって限界はある。支えきれなくなれば――」
あいつの行動原理はアンリだ。何があってもアンリを護ろうとする。
蜃気楼が落下すれば、アンリも無事ではいられない。そうなる前に――
「原因の排除に動く。こいつは実体を破壊するぜ」
指の間を広げた。手から離れた鋼球が、床に落ちる前に回転運動を始める。
カンシタが動いた。腕を伸ばし、鋼球を捉えようとする。
その身体を掴んで床に引き倒した。もがこうとするのを首に腕を入れて押さえる。
「動くな。ジンの鋼球は相手を選ばない」
背中で、鋼球の飛翔音を聴く。
カンシタの眼が動いた。
鋼球ではなく――
「ミツルギ。キャリーバックだ」
髪のピンを外したミツルギが、水平に腕を振った。
赤い光が煌めき、出現した朱い鋼槍がキャリーバックを貫いた。
びくん、とカンシタの背中が跳ねるように反り返った。同時に、
「がっ」
口から洩れた声は、致命的ダメージを負った者の声だった。
腕の下で、カンシタの身体から力が抜ける。
「カンシタ――」
「……見えるか」
掠れた声に、カンシタの貌を見た。
虚ろな眼が蜃気楼を映していた。
逆さまになった雪山に、蝶の鱗粉のような光がちらついている。淡い青。薄いピンク。金色。紫紺色――
光の粒子がぶつかり、弾け、空に散る。
「美しいだろう?」
カンシタの手が微かに震えた。
「指が動かないか」
ふ、と眼から光が消えた。
その瞬間、上空の圧力が薄れた。貌を上げた。逆さまの蜃気楼が雪を散らしながら消えていく。ことん、とジンの鋼球が床に落ちた。終わった――と言われたような気がした。
「コウ……」
消え入りそうな声に、振り返った。
ドアの近くで、ミツルギが両膝を床についていた。
「カンシタ君。死んだ、の? あたしが……」
こ――血の気を失くした唇が言葉を繋ぐ前に、駆け寄って、ミツルギの頭を抱いた。
「おれが指示した。ミツルギじゃない」
「でも。あたしが……」
「違う」
腕に力を入れると、ミツルギは静かに泣き始めた。
「わ。窓が無い」
聴き覚えのある声、しかし、聴くとは思っていなかった声に、首を巡らした。
窓際の床で、学生服の少年が半身を起こしていた。
どこか少女のような線の細い貌に、困ったような、照れたような表情を浮かべている。
「カンシタ?」
「あ。ごめんね。邪魔しちゃ悪いと思ったんだけど。視線を逸らした先がこんな有り様で。え~と。どうして空が見えるのかな。――え? ちょ。痛い。頭。ぐしゃぐしゃ」
カンシタが手を上げて、頭を庇おうとする。
「なにすんの。もう。――って。え? もしかして泣いてるの?」
「泣いてねえ」
「ミツルギさんも泣いてたし」
「泣いてないから」
「あ。はい」
眼が赤いんですけど――と苦笑しながら、カンシタが言う。
「カンシタ君。これ」
ミツルギが、カンシタの前にキャリーバックを置いた。
「ああ……」
カンシタが嘆息しながら、手を伸ばした。布地に大きな裂け目がある。
「一緒に中を見てもいいか」
カンシタの前に膝をついた。
眼だけで頷いて、カンシタがバックを開けた。
望遠レンズとデジタル一眼レフカメラ。半壊したカメラの奥に、カンシタが手を入れた。
片手に収まるようなカメラを抜き出してくる。指を開いた瞬間、カメラのボディに亀裂が走り、合金の欠片がぼろぼろと落ちた。
「古いカメラみたいだな」
「父さんの遺品なんだけど。と言っても、そんなに思い出深いものじゃなくて。実は父さんが10年も前に亡くなっていたというのも先週知ったばかりなんだ」
離婚していたから、僕たちに連絡が来なかったんだよね――とカンシタが言う。
「遺品整理をするからって呼ばれたんだけど、10年もたってから言われてもね。母さんはどうして今までって怒っていたよ」
「親父さんのこと、もっと詳しく話してくれ」
「うーん。正直、僕はよく知らないんだけど。父さんは売れない写真家で、写真にも名前が載ることはほとんど無かったと思う。仕事だったのか、被写体を求めてだったのか、冬の山に登って、生きて帰って来なかった――というのが、父さんの親族だっていう人の話だった。このカメラはその時持っていたものらしいけど、フィルムは残されていなかった。最初から無かったのか、10年の間に処分されてしまったのかわからないけど……。
最後に何を撮ったんだろうって、それだけが気になっているかな」
「……」
「さて。僕は説明を求めてもいいかな」
カメラをバックに戻して、カンシタが言った。
壁に飾られていた写真のほとんどが床に落ちている。
部室は惨憺たる有り様だ。
「そうだな。事の発端は――」
言いかけた言葉に被さるように、床の軋む音が響いた。
旧館の床と壁には、木材が使われている。
開いたままのドアから、突撃服に身を包んだ男達が飛び込んできた。
身構える暇は無く、次の瞬間、床に押し付けられていた。左手は背中に捩じられ、伸ばした右腕には男の膝が乗る。頭には銃口の感触。
視線の先で、ミツルギとカンシタも制圧されていた。
直接身体に触れていない者達も、全員が銃を抜いている。
向けられた銃口が、鈍い光を放っていた。