第ニ話 神ひかりあれと B-3(3)
B-3(3)
>コウ。聴こえた? ジンさんが実体を破壊しろって。写真よ。あのパネルを破壊して。
ミツルギの声が耳の中で響く。
天地の感覚はすでに無い。床も壁も天井も。その存在を感じられなかった。
だが。ジンの部屋で味わったような、全身の感覚が消えるような消失感は無い。
眼の前で、青白い雪山が輝きを放っている。視力は失われていない。
右腕を前に伸ばした。腕も在る。
手首に巻いたレザーバンドが揺れ、金色の狼が腕の上に現れた。
カンシタに眼を向ける。
数本の糸で、辛うじて立っている操り人形のようだった。
鳥のように眼を動かしているが、その眼に何かが映っているとは思えない。
(自我を失くしてはいねえよな)
祈るように願った。
現実世界を侵食する『ロゴス』は、同時に具現者の精神も侵す。
自分の『ロゴス』に自分の意識を喰われ、『虚無』の器と化す者も少なくない。
そうなればもう元には戻れない。
(カンシタ――)
くすくすと、いつも控えめに笑っていた同級生。
あいつの記憶。思考。笑顔――が消えたとは思いたくない。
(虚脱状態になっているだけだろう?)
初めて『ロゴス』を放出した具現者が、一時的に放心するのはよくあるケースだ。
だとしたら。
今、カンシタの『ロゴス』を破壊したとしたら。
残っているかもしれない自我を消し飛ばしてしまうかもしれない。『ロゴス』のダメージは具現者に還る。
廃人か。下手したら、心臓か脳への直接的ダメージで死ぬ可能性も否めない。
――そんな目に遭わせられるわけねえだろうが。
自分の言葉が脳裏に響く。
カンシタが具現者かもしれないと。その可能性に思い至った時。
真っ先に考えたのは、監視室の監視対象から外したい――ということだった。
具現者と疑われた者は、本当に具現者かどうか、『検査』される。表向きは否定されているが、『検査』とは名ばかりの、脳神経系の薬物投与と非人道的な実験だ。まともな状態で解放される者は一割にも満たない。ほとんどが廃人か。死――だ。
カンシタをそんな目に遭わせたくなくて、ジンに相談した。それなのに。
今、自分の手でカンシタの自我を消そうというのか。
――犠牲になるのは、そいつの身近にいる者達だ。
ジンの声が聴こえたような気がして、貌を上げた。
天井を透かして、蜃気楼が落ちてくるのが視える。
あれが地上に到達すれば、街ごと消失するだろう。
円型の第一体育館。ドーム状の屋根に、漆黒の男が立っている。
黒い髪。黒塗りの眼。黒のスーツ。
旧館と第一体育館の位置関係からして、絶対に見えるはずのないジンの姿だった。
彫りの深い貌を真上から見下ろす。合うはずのない視線と合ったような気がした。
――最愛の人間をその手で傷つけ、命を奪うことになったら。
――廃人にされてもこの力を封じて欲しかったと思うだろう。
(できねえよ)
「眼を覚ませ。カンシタ」
右腕を前に伸ばして叫んだ。目を覚まして、『ロゴス』をコントロールしてくれれば。
だが、虚ろな貌は変わらない。
その間にも、蜃気楼の落下は止まらない。
「コウ――」
ドアが開いた。ドアの形に切り取られた白い空間にミツルギが現れた。
きぃああ――
鳥の群れがミツルギを襲った。
眼球に迫る嘴から、ミツルギが庇うように両手を上げた。
その手が、奇妙に薄っぺらい。
「なに。これ――」
さすがのミツルギが動揺の声をあげる。
カンシタの空間で、写真は現実となった。なら。現実は――
ネガのように反転する。
「待てっ――」
叫んだのは、カンシタに、ではなかった。
右腕から金狼が跳んでいた。光の尾を引きながら、パネルに直進する。無意識に放った『ロゴス』は止まらず、蜃気楼のパネルを貫いて、窓を塞いだ板を粉砕した。
風が吹き込み、壁に貼られた写真が剥がれて宙に舞う。
かたん、かたん、と壁に掛けられていた幾つものパネルが床に落ちた。
風景や人物の写真。その中に。カンシタの撮った鳥の写真もあった。
動く気配は微塵も無い。何の変哲も無い普通の写真だった。
「コウ……」
ミツルギの声に、背後に眼を向けた。
床に倒れ伏したミツルギが、貌だけをこちらに向けていた。青みを帯びた白い髪が、頬にかかっている。
「大丈夫か」
近づいて、声をかけた。
「あたしの手。どうなってる?」
投げ出した腕から眼を逸らしていた。
「心配するな。元に戻っているよ。ちゃんと胸も盛り上がってるぜ」
最後のは不安を払拭してやろうとしたからだが、氷のような眼で睨みつけられた。
他意は無いというように両手を上げる。
ミツルギは身体を起こし、掌を何度か裏表に動かしてから、胸元に指を入れた。
胸当てから中を覗き込む。胸の谷間が、上からも見える。
ミツルギの眼が上を向いた。
眼を逸らす。
「コウはひとりで平気だったのね」
静かな声。ミツルギに視線を戻した。置いていかれた子供のような貌だった。
「あたしがたすけてあげるなんて言ったのに。何もできなかったわ」
「何もってことはねえよ」
ミツルギの前で、膝を折った。
「あの台詞。すげえしびれたぜ」
ミツルギの眼が揺れたが、口にしたのは別のことだった。
「どうしてコウは影響を受けなかったのかしら。力の差?」
「それはねえだろ。ミツルギの方が上だしな。たぶん――」
軽く眼を細めた。
「経験の差。じゃねえかな」
「経験?」
ジンの部屋で、全身が消えて無くなるような闇を味わった。
あの底無しの闇を思えば、カンシタの力は薄かったと言えるだろう。
影響を受けなかった理由は、似たような――それも桁外れの経験があったからとしか思えない。
「カンシタ君は?」
ミツルギが言った。
「ああ……」
窓側に眼を向けた。
重なり合う写真の上に、カンシタの身体が倒れている。
「見てくる。おまえはここに――」
「コウっ」
悲鳴のような叫び声。
ミツルギに動きかけた視線が、窓の向こう側、その上空に吸い寄せられた。
逆さまになった山が空いっぱいに広がっていた。




