第一話 あかつきのひかりに A-2
A-2
ごっ、と膨れ上がった空気の塊りが貌を叩いた。
ミツルギが髪を押さえるのを眼の端に捉えながら、右腕で貌を庇う。
何が起きているのか――
ゆらり、と立ち上がる影が見えた。
「生きて、いたのか」
思わず呻いたのは。
それが、先ほどまで影どもに貪り喰われていた誰か――だったからだ。
女性だというのは、手足のラインからそうと知れたが。
胸の肉も腹の肉もすでに無かった。
剝き出しの肋骨の間に、血管にぶらさがる心臓が見える。
腹部の臓器は、胃も肝臓も膵臓も脾臓も腸管も膀胱も膣も子宮も完全に見当たらない。
これで生きているのか――
生きていると言えるのか。
《『ロゴス』反応増大。事象侵食検出――》
言われずとも。
名前も知れない女――の輪郭は揺らぎ。
きぃやぁぁぁぁぁぁ――
ガラスを引き裂くような悲鳴と共に。
噴き出した漆黒の霧が、渦を巻き、膨れ上がっていく。
金狼に引き裂かれた影どもの身体を呑み込み。
鋼槍に串刺しにされたままの影ににじり寄る。
ミツルギが鋼槍を消した。
手足から血を流しながら、影が地を這って逃げようとするが。
手のように伸びた霧が、影の足を掴み、腰を掴み、首を掴み。
獣のように頭を喰らい、嘲笑うように、いたぶるように――。
皮膚を消し、剝き出しの神経だけを残して、肉を消していく。
影の絶叫が。
封鎖された夜の街に響き。
ミツルギが貌を背ける。
途絶えた時には。
骨も内臓も。
最後の神経の一本までも消えていた。
ずるり、と霧の中で、女が動いた。
女の周囲で渦を巻いた霧が、道に沿って拡散し。
呑み込まれた街灯が息絶えるように光ごと消える。
「見境無し、か」
あるいは、止まるかと思ったのだが。
「おれが気を逸らす。ミツルギは本体をやってくれ」
「被害者よ」
「ああなったらもう――」
人間じゃない――と言いかけて、ミツルギの眼に口を閉ざす。
氷の眼の奥に、動揺の色が揺れていた。
平然と獣化した影を串刺しにしながら。
眼の前のあれはそれと同じではない――とその眼が言う。
あの誰か――は。
影どもに襲われなければ。
生きたまま喰われなければ。
今頃は家に帰り、日常の続きを営んでいた誰か――だ。
その営みを断ち切ったのは影どもだとしても。
その被害者を。
今はその影と同じ獣に、いやもはや獣ですらないから始末しろ――と言われて。
抵抗を感じない方がどうかしている。
「わりぃ。『彼女』はおれがやる」
本体と呼ばなかったことに。
せめて人間であるかのように呼んだことに。
ミツルギが貌を上げて、視線を向けてくる。
「ミツルギは霧を引きつけてくれ。できるか?」
「誰に言ってんのよ」
白い頬はいつもよりも白かったが。声は、いつもの、凛、とした響き。
「上等だぜ。女王さま」
「言ったでしょ。その呼び方――」
飛び出しながら、ミツルギが言う。
「好きじゃないわ」
上半身を捻り、髪から外したピンを上空に投げる。
微かな光を反射しながらくるくると回るピンが、数十本の鋼槍と化して降り注いだ。
ざん、ざん、ざん、ざん、
柵のように地面に突き刺さった紅い鋼槍に漆黒の霧が動きを止め。
ゆるゆるとまた動き始める。
鋼槍を迂回し。
ミツルギに向かって。
「そっちじゃない。こっちだっ」
霧の中央で、名前も知らない『彼女』がこちらに貌を向けた。
虚ろに開いた眼から、とめどなく溢れる黒い血涙。
理不尽な運命に。
奪われた未来に。
声も無く、もはや意味もわからずに流す無念の涙。
「わりぃな。たすけてやれなくて」
前に伸ばした右腕に、金色の狼が具現化する。
「いつか。おれ達もそちらに行くから――」
放たれた狼が光と化した。
『彼女』の上半身を光の顎に捉え。
レーザービームのように直進する。
『彼女』の下半身だけが力を失って倒れていくのを見届け、天を仰いだ。
「やりきれねえなあ」
「コウ―― ! 」
《『侵食』依然進行中――》