第ニ話 神ひかりあれと A-2(1)
A-2(1)
>なぜ起こしてくれなかった。
>起こしたわよ。何度も。
>起きてなければ、起こしてねえ。
>――起きた?
>――おお。起きた。起きた。
ミツルギの声と自分自身の声が再生された。
>てめ。録音してたのか。
>リスクマネジメントよ。
>しょーもねえところで有能さを発揮してんじゃねえ。おれはなあ。
バスの中で左手の指を動かす。時間を外したバスの中は、がらん、としているが、乗客は皆無ではない。
指に貼り付けた光学チップの動きを、耳に嵌めた端末が音声に変換してくれている。
>あと一回遅刻したら、留年するんだぞっ。
>救済措置があるんだから、追試を受ければいいじゃない。
>おれが追試をパスるわけねえだろうが。
>愚問a) だったわね。
a)愚問:愚かな質問。わかりきった質問。自分の質問に対して使われる言葉。
>意味をアタッチしてくるんじゃねえ。
>チャイムが鳴ったわ。じゃあね。
冷ややかに通信がシャットアウトした。
「ばあか」
机の上でタップを刻むように動かしていた指を止めて、ミツルギは口の中で呟いた。
肩から胸にこぼれてきた髪を、掻き上げて背中に流す。
チャイムは鳴ったが、教師はまだ来ない。
職員会議が長引いているのかもしれない。
今ならまだ遅刻じゃないけど――
(無理みたいね)
気配を感じて、視線を上げた。
前側のスライドドア。磨りガラスの向こう側に影が生じた。
会議は終わったらしい。
がらり、と引き戸が開いた。
引き戸を開けると、全員が首だけをひねって視線を向けてきた。
「あ。その。遅れまして……」
視線の圧力に、口の中で言葉を濁らす。
テストでもしていたのか。異様なまでに静まり返っている。
教壇には眼を向けないまま、席に向かった。
「ああ。こら。おまえ。これで教科遅刻45回。欠席15日分だ。留年になることは伝えてあったはずだな。保護者に連絡するから、これから職員室に――」
「まだ授業は始めていません。今日のところはいいでしょう」
担任のツチヤの声を、別の声が遮った。
教壇に眼を向けると、ツチヤとは別の『教師』が立っていた。
教師――なのだろう。若いが、生徒には見えない。
180センチを超える長身に黒いスーツ。シャツまで黒い。
肩幅は広いが、肉はそれほどついていない。どちらかと言えば細身だろう。
それなのに。
そこにいるだけで、天井のライトが光を失うような重苦しさを感じる。
左の手首に、ブラックチタンの腕時計を嵌めている。
教師と言うより、街では遭遇したくない職種に見える。
教室の空気が張りつめているのは、この男のせいかもしれない。
彫りの深い貌は整っているが、拭い切れない影があった。
ストレートの黒髪をバックに流し、黒縁の眼鏡をかけている。
眼鏡の奥の眼は漆黒だった。光という光を黒く塗り潰したような眼だ。あまり直視したくない。眼鏡で柔和に見える――ということは全くない。
ツチヤは明らかに腰が引けていた。
「いや。しかし……」
「着任特赦ということで」
静かな物言いだが、有無を言わせない威圧感があった。
「あ、ああ。先生がそう言うなら――」
五十代のツチヤが、自分の子供ほど年齢差のある新任教師の言いなりだ。
見ようによっては滑稽だが、誰も笑わなかった。
それはともかくとして。
どうやらたすかりそうな流れである。
息を吐いて、着席した。
「それじゃあ、紹介の続きを――」
ツチヤが口を開きかけると同時に、
「わりぃ。遅れましたっ」
勢いよく引き戸がスライドし、快活な声が響いた。
「ばか……」
教室の中で、誰かが小さく呟くのが聴こえた。