第一話 あかつきのひかりに B-3 (5)
B-3 (5)
空気が爆発したようだった。
黒い霧が爆炎のように広がる。
>わあああああああああああ
子供の悲鳴。
それよりも先に、銃声が響いた。
ジンの手に銃が出現していた。
止める暇は無かった。
黒い背中が路地から飛び出していく。
闇を塗り固めたような球体が、霧の近くに出現していた。
直径は数メートルほどか。深淵のような闇がそこに在った。
圧倒的なまでの存在。
ジンの『ロゴス』だ。
一体幾つの『ロゴス』を操作できるのか。もはや人間業とは思えない。
漆黒の球体が、霧の外縁で自転する。
巨大な質量の出現に、黒い霧が凄まじい勢いで引き寄せられていく。
直接子供を狙わなかったことにほっとするが、この球体が最初の時と同じ仕様なら、引き寄せた霧を圧縮し、消失させる。そんなことをすれば、子供がどうなるか――考えるまでも無い。
「ジン――っ」
叫んで、後を追った。
端末を人形に渡してしまったため、状況を把握しきれなかったミツルギが、一瞬遅れて後についてくる。
霧が流れ、視界が薄れる。
完全ではない。まだ残っている。
その中にジンが飛び込んでいく。スーツの裾が翻り、霧に触れた先から分解していく。
「ミツルギはここにいろ」
「いやよ」
青い眼が見据えてくる。その眼が、絶対に――と言っている。
「ったく」
ジャケットを脱いで、丸めて投げた。走りながら、ミツルギが受け取る。
「貌くらい護れ」
ミツルギがジャケットを頭に被る。
それを見て、ジンに眼を戻した。
すでに子供の前。片膝をついている。右手は地面に落ちた人形をすくい上げていた。
子供が叩きつけたのか。
血が流れている。血――? 人形に?
彫りの深い横貌に、ゆらり、と殺意が浮かんだ。
「おい。子供になんて貌を見せるんだ」
思わず肩を掴んだ。
ジンが眼を向けてくる。黒塗りの眼の奥に、言い知れぬ感情を認めて口を閉ざす。
これは。
絶望――だろうか。
胸が潰れそうな闇。
「……大丈夫、だよ」
微かな声に視線を落とす。
ジンの手の中で、人形が身体を起こしていた。
頭から血が流れている。傷を押さえ、子供を見つめている。
大丈夫――と告げたのは、子供に対してだったか。
立ち上がって、子供に近づいていく。
子供は立ち尽くしていた。感情を爆発させたのは一瞬だったようだ。
人形の流した血が、激情に我を忘れかけた子供の心を、ぎりぎりで繋ぎとめたのかもしれない。
小さな手が子供の足に触れた。
子供が茫然と人形を見下ろす。
「ほら。わたしは、大丈夫」
小さな声なのに、鈴のように耳に響く。
「わたしの前にジン君が現れたように。きっとハル君の前にも誰かが現れる」
母親が、とは言わない。
5歳の子供相手に嘘や誤魔化しを言わない。
子供が静かに泣き始めた。
何かを悟った者の泣き方だった。
「世界は優しいよ」
「……コウ。ミツルギ」
ジンが口を開いた。片膝をついたまま、眼は子供と人形に向けられている。
抑制された声は変わらなかったが、何か、堪えているような気がした。
「天を撃て」
「天を? しかし――」
「かまわん。撃て」
「ミツルギ」
「ええ」
髪からピンを外したミツルギが、ピンを掌に載せて差し出した。
その手に手を重ねた。
金色の狼が現れる。ミツルギの『ロゴス』を纏い、朱金色に輝く。
「――っけえ」
突き上げた拳から光が迸った。雲を貫き、爆発のような衝撃波が生じた。
雲の中心に穴が開き、同心円状に広がっていく。
空は淡い光を帯びていた。分厚い雲に隠され、街は闇に閉ざされていたが、空にはすでに最初の光が届いていたようだ。
朱金色の光が、砂金のようにちらめいている。
子供の眼が空を見上げた。
涙に濡れた眼に光が映る。瞳孔が縮まり、焦点が合う。
「そうだ。光を見ろ。闇に囚われるな」
ジンが言う。
「……に」
おれのように――と言ったのか。
ぐらり、とジンの身体が揺らいだ。
左手を地面について身体を支える。
ほぼ同時に子供の膝が揺れた。前のめりに倒れていく。駆け寄ったミツルギが子供の身体を抱いた。ミツルギの腕の中で、子供の力が抜ける。
黒い霧が、まぼろしのように薄れ、消えていく。
ミツルギが、大丈夫――と言うように頷いた。子供の貌は穏やかだった。
小さな寝息が聴こえる。
ひゅうっ――とジンが息を吸った。
荒々しく息を吐く。
呼吸が止まっていたようだ。
ジンの『ロゴス』に眼を向ける。
霧の外縁で自転し、霧を引きつけていた巨大な球体が、ぼろぼろと崩れていた。
この男の『ロゴス』がそんな脆いものであるはずがない。
わざと侵食させたのか。
子供をたすけるために。
人形を優先するようなことを言っていたのに。
いや。優先したのか。説得しようと言った人形の意思を。
「ごめんなさい」
人形がジンの前に立った。
ジンの眼が人形に動いた。頭から流れる血に、ジンが指で触れた。
「ケガなんかするな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「ごめんなさい」
「おまえのせいじゃない」
ジンが言う。人形が貌を上げた。
「全部おれのせいだ」
苦しげな声は、呼吸のせいばかりではないような気がした。
「何者なんだ。あんたは。あんた達は――」
黒塗りの眼と胡桃のような眼が見つめてくる。
答えは返らず。
ビルの影がその表情を隠す。ビル群の彼方に太陽が現れていた。
暁の光が空と地上に広がっていく。
生み出された影の中で男は動かず。
問いだけが暁の光の中に消えていった。