第一話 あかつきのひかりに B-3 (4)
B-3 (4)
「人形にかける言葉じゃなかったな」
「人形に見えないもの」
「あっちも――」
ジンに眼をやった。ビルの壁に右の肩を押し付け、貌を黒い霧に向けている。
見ているのは、今まさに霧の中に入ろうとしている人形の姿だろう。
「人形を見る眼じゃないよな」
「人形だと思ってないと思うわ」
「まさか、本気で子供の命より人形を優先する気じゃねえだろうな」
「……」
ジンの頬が微かに動いた。
最も外側の球体が霧に突入したのだ。ふたつ目。三つ目の球体も突入する。
回転運動に引き寄せられた霧が、台風のように渦を巻き始める。
人形が霧の中に入っていく。うまく護られているようだ。足取りに変化は無い。
小さな後ろ姿をジンが食い入るように見ている。
瞬きすらろくにしない。
人形の姿が薄れる。黒い霧の有効視界は1メートルも満たないだろう。
ただ密度は一定ではない。空気の流れが、時おり、ふ、と視界をクリアにし、子供の姿を浮かび上がらせる。その度に、人形が方向を修正する。
ほとんどは闇の中だ。
地面も平坦ではない。
小さな石でさえ、人形には岩に等しい。迂回しなければならない。
20分近くが経過した。
>ジン君。
人形の声が聴こえた。
>男の子の近くに来たよ。回転を止めてくれる?
球体が回転している限り、子供に近づくことはできない。
『ロゴス』で重くした鋼球は、銃弾並みの威力があるはずだ。
回転を止めれば、霧の接近を許すことになるが、普通に考えて、子供の周囲に霧は存在しないはずである。子供自身をも侵食しかねないからだ。
とは言え、その安全地帯がどの程度余裕のあるものなのか、ここからではわからない。
ジンが奥歯を噛む。
人形が眼の前にいれば、だめだ――と言ったに違いない。
>ジン君ってば。
危機感のかけらもない声。
結局ジンが折れたのだろう。
端末が子供の嗚咽を拾い始めた。人形が子供に近づいた証だ。
子供は泣きじゃくっていた。叫んではいない。状態としては悪くない。
>どうして泣いてるの?
人形が声をかけた。
息を呑む気配が伝わる。
体長30 センチの人形に話しかけられて、驚かない人間はいない。
泣くということは、感情があるということだ。なら、好奇心も刺激される。
>なんで人形が……の?
>人形じゃないよ。触ってみる?
>……とだ。……るの?
>生きてるよ。わたしはアンリ。アリアンリースフィールと呼んでね。
>ア……リス?
>アリアンリリシェラール。
>さっきとちがうよ。
>え? ほんと?
>へんなの。自分の名前なのに。
>君の名前は?
>ハル。
子供が素直に応じる。心を開いたのだ。
人形が説得に向かうというのは、考えてみれば妙案であったかもしれない。
>ハル君。さっそくなんだけど。
胡桃のような眼で真っ直ぐに覗き込む貌が思い浮かんだ。
>この霧。消して。
「さっそくすぎるだろ」
「……」
>この霧のせいで誰もハル君に近づけない。だから消して欲しい。
>ママも? そうしたらママに会える?
子供が強く反応した。ここで、そうだ、と言えば――
>ママはもういない。
人形の声が響いた。