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綾乃が来なくなった部屋を、ひどく殺風景に感じる。
それが日常で、今までが非日常だったのだと言い聞かせてはみても。
咄嗟に答えられなかった問いを、繰り返す。
国沢綾乃は、自分にとってどういう存在なのかということを。
あれから二人の間に接触はない。
もとより、小野木の方から近づかなければ彼女と話す機会さえないのだ。
眩しそうに空を見ながら登校する彼女の姿をみることはある。
そんな盗み見のような自分の行いに罪悪感を覚え、仕事に没頭することで振り払おうとする。
いつしか、彼女の中にみていた影は鳴りを潜め、彼女を彼女として認識するようになっていたことに気がつきもせず。
「せーんせ」
跳ねるような口調で、浅見が小野木に近寄る。
相変わらずの彼女は、申し訳程度に教科書を抱えている。
もちろん、彼女の面倒は即座に彼女の教科担当へと押し付ける。
藤崎が呆れた顔に微笑ましい表情を混ぜながら、浅見を手招きする。
どこか素直な浅見は、それに大人しく従う。
いつもの光景だ。
だというのに、小野木は気がつかれないようにため息をつく。
何か、心にひっかかりを覚えている。
筆記具と一度強く握り締め、仕事を再開する。
いつまでも誤魔化せるものではないのかもしれない。
そう思いながら。
何の予定もない日曜日は、適当に掃除をして、適当に洗濯をする。
一人暮らしならあたりまえの家事をこなしながら、映画雑誌をめくる。
隣にはだれもいない。
なくしてしまった温度がなつかしくて、落とした視線を部屋へと巡らせる。
やはり、誰もいない。
わかりきったことを確認して、もう一度雑誌に視線を戻す。
静かな室内に、突然割って入るかのようにチャイムが鳴り響く。
来訪者を告げるそれに、雑誌を放り投げ扉へと近づく。
勢いよく扉をあけると、そこには一人の少女がたっていた。
「せんせー」
だが、その姿は、彼が心のどこかで待ち望んでいた誰か、のものではなかった。
嬉しそうに小野木を見上げ、重そうなトートバッグを下げた浅見桃子が立っていた。
「どういうつもりだ?」
露骨に眉根を寄せ、問いただす声は思った異常に低い。
「あ、先生、その」
今まで見たこともない小野木の態度に、常に元気だった浅見がたじろぐ。
学内ならば、相手の意思を想像しない彼女の態度も、元気な生徒だと処理できる。
それが教師という業務の一環だとも思っているからだ。
だが、完全にプライベートな空間に入り込まれたとあっては別だ。
何があっても、気持ちとやらに気がつくつもりも応える気持ちもない。
一生徒、と一教師。
ただ、それだけの関係だ。
「誰に聞いたかはわからんが、このまま帰れ。迷惑だ」
理由も聞かずに、端的に切り捨てる。
こちらの小野木が、本来の小野木だ。
職場では、もちろんそれ様に擬態している。
「でも。これ、作ってきたんです。これだけでも」
右腕を上げて、バッグの中身を見えるようにして差し出す。
キャラものの布に包まれているのは、浅見が作った何かだろう。
「迷惑だと言ったはずだ。何もなかったことにしてやるから、このまま帰れ」
子供に対しては、少々冷たい言葉を突きつける。
不機嫌な顔は元には戻らず、常に曖昧な笑顔を浮かべていた先生としての小野木の姿はどこにも見当たらない。
目に涙を浮かべながらも、なおも帰ろうとしない浅見に、小野木は静かに扉を閉めた。
玄関に立ったまま、気配をうかがう。
しばらくすると、浅見が立ち去る足音がした。
深く息を吐き出す。
洗濯機から電子音が鳴り、作業が終了したことを告げる。
固まった体を無理やり動かし、中断していた家事へと戻る。
小さなベランダに、男物の洗濯が並ぶ。
空はどこまでも青く、そして強まりそうな日差しは遠慮なく部屋の中へと進入している。
自分が、何をやっているのかがわからない。
綾乃と、浅見は自分にとってどう違うのか。
どちらも同じ生徒には変わりはない。
片方を家へと上げ、そして片方を拒絶する。
その明確な根拠が見当たらない。
ヘッドホンをつけ、好きな音楽を楽しむ。
無気力のまま、一日が過ぎようとしていた




