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季節が変わり、夏になっても、綾乃が小野木の部屋へ訪れる機会は減ってはいかなかった。
むしろ、どこか吹っ切れたかのように、堂々と綾乃は部屋に居座っている。
「まじめだなぁ」
入りびたりとなった彼女を咎めるでもなく、小野木はただ淡々と彼女を受け入れている。
本日の連続滞在期間はすでに三日目だ。
理由もなく訪れてから、綾乃は明らかにこちらで過ごすことが多くなっている。彼女の両親のことが頭に浮かびはするが、それが抑止力となっていないあたり、成人としても教師としても大概だ、という自覚はある。
おまけに、他人との生活など、と、思っていた小野木は綾乃と生活空間をともにすることが苦痛ではないことを発見してしまった。
ますます彼女の訪れを拒む理由がなくなってしまっている。
「あんまり頭良くないし」
せっせと予習をしている彼女を尻目に、小野木は映画雑誌をめくっている。
確かに、真面目でそこそこ上位の成績をとる彼女ではあるが、それがこつこつとした努力から成り立っていることを知っている。
体力もありぎりぎりで勉強をし始めた男子生徒たちに土壇場で追いつかれてしまうタイプだろう。職歴がそれほど長くないとはいえ、そういった真面目な生徒をよくみかける。
現在はもう少し要領よくこなせるように、綾乃にたまにアドバイスをしている。自分の職業を思い出して、少しだけ罪悪感がわかないこともないが。
彼自身も仕事があるにはあるが、生徒の前で出来る種類のものではなくて、そのあたりは諦めている。
大体もうすぐ盆休みだから、と、言い訳をしながら彼女の隣でだらだらしている。
「そういえば、帰省はしないの?」
綾乃が、思いついたことを口にした。
世間では帰省シーズンであり、ニュースなどでもその話題を聞くことが多い。
こちらから疎遠にして、めったにあちらに近づかない小野木にとってその手の話は実感が伴っていない。
「そっちは?里帰りとかあるだろ?」
逆に質問を返す。
友人と遊ぶ、という予定を聞いたことはあるが、彼女の口から家族についての話題が上ったことがない。
お互いそこはあえて避けていたのだが、好奇心からつい口にする。
それだけ彼女のことを知りたい、と思い始めているのかもしれない。
小野木自身は無意識のままではあるが。
「うーん、ない、かな。たぶん」
綾乃の母親は実家に引き取られっぱなしだ。
すでに代替わりして、叔父夫婦が主導権を握る家では居心地が悪いだろうことは想像に難くない。
少しだけ男尊女卑の気配のする、あちらの田舎は綾乃にとっても過ごしやすいところではない。
父方の方にしても、女孫である彼女にさほどの興味はなく、通り一遍の親戚付き合いの範囲を超えるものでもない。
「俺の方もない。面倒だし」
綾乃の言葉に、小野木も続く。
あれほど彼が言い聞かせたにも関わらず、見合いを準備して待ち構えていそうな実家は忌避するに限る、と。
「そっか、じゃあ、私と遊べるね」
年頃らしく笑って言う彼女に、後ろめたい気持ちが芽生える。
いや、今まで感じないようにふたをしてきた事実が突きつけられている。
国沢綾乃は生徒であり、自分はその教師であるということを。
世間的に許されるものではない。
まして、あれほど厭ってきた連中と同じ穴の狢などということに。
だが、そんなちっぽけな気持ちなど吹き飛んでしまうほど、小野木は彼女にはまり込んでいる。
最初は、ただ似ていたから気になった。
今では彼女への気持ちを、どういう風に位置づけていいのか困惑している。
恋人でもなく、友人でもない。
綾乃、と名前すら呼べずに、思考は停止したままだ。
「私さ、元から要らない子、だったんだよね」
ノートに目を落としながら、綾乃が呟く。
まるで軽やかな世間話をするかのように。
「要らないって」
国沢綾乃という人物は、優等生に分類されている。
校風が穏やかで、校則がないに等しい高校において、彼女は浮かない程度に化粧をし、ほどほどに違反をしている。教師に指導されるほどではなく、仲間からはずれることもない。そのバランスは見事なもので、成績もよく、問題も起こさない彼女の覚えはよい。だが、逆をいえば、極端な生徒に比べて印象に残りにくい、ともいえる。
「病弱で綺麗な、姉、がいたらね、やっぱりそっちをかまうでしょ?どうしても」
淡々と紡ぎだされる言葉は、驚くほど諦観している。
この年頃の少女が、もっていいものではない。
小野木は、動かせない体のまま、綾乃だけを見つめる。
「小さい頃は、寂しかったけどさ、そりゃあ」
筆記具を置き、少しだけ目線を上げる。
その先に、小野木の姿はない。
「それがあたりまえだったし、そういうものだって納得してた」
そんな、納得のしかたはない、と、思う気持ちが声にだせないでいる。
綾乃の存在も、自分たちの関係性も、不確かなままここまできてしまったつけがきているのかもしれない。
「それが変わったのは、あの人が死んでから」
姉を、あの人と呼ぶ綾乃の心境を思う。
「私は綾乃じゃなくなっちゃった」
短い言葉に、僅かに感情がこもる。そこに安心をし、けれども小野木は声をかけることもできない。
「私、やっぱり、小野木先生にとっても、代わりでしかないのかな」
彼女が、自分はニセモノか、と問うてきたことを思い出す。
違う、と言い切れない自分がもどかしく、だが、あれ以上言えなかった自分に情けなさしか感じない。
誰に、誰を重ねていたかなど、小野木が一番わかっているのだから。
首をかしげながら、ようやく視線が交じり合う。
彼女は泣いているわけでもないのに、涙を流しているような気がした。
ただ、彼女の言葉に耳を傾ける。
淡々と、事実だけを伝える綾乃に、逆にどれほど抑圧されていたのかを知る。
両腕を差し出し、綾乃を抱え込む。
いつもより低い体温が、彼女が緊張していた事実を知る。
「私、やっぱり代わりのまま?」
彼女が呟く。
罪悪感が内から湧き出し、彼の体を物理的にも痛めつけていく。
確かに、彼は彼女の中に「誰か」を見つけていた。
近かったはずの彼女は、誰にも気がつかれずに消えていってしまった。
時折見る夢に、今でも無意識に指を伸ばす。
だけど今では彼女、と国沢綾乃を同一視したりはしていない。
きっかけはたとえそうであったとしても。
自分の立ち位置にも、気持ちにも自身がない小野木にも、それだけは確信をもって伝えることができる。
だが、もどかしいまでに言葉が出てきてはくれない。
震えたままの綾乃は、ただただ小野木にしがみつくようにして縮こまっている。
「……いや」
どうにか絞りだした声はあまりにも脆弱で、否定の言葉とは思えないほど小さいものだった。
その日以降、綾乃が小野木の部屋を訪れることはなくなってしまった。




