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 綾乃が外泊をするようになってから、母親の過呼吸の発作が目に見えて増加した。

だからといって外泊をやめることはしない。

そこが唯一の自分の逃げ場だから。



 久しぶりに三人顔を突き合わせながら夕食をとる。

残業だ、接待だ、出張だ、と家に寄り付きもしない父親は無表情な顔をして箸で夕食を口に運んでいる。

テレビからはアナウンサーがニュースを伝える声が聞こえる。

一方的に、今日の出来事を上機嫌で話す母親に真剣に相槌をうつものはいない。


「お父さんからも何か言ってやってくださいよ」


頻繁になった外泊に小言を並べていた母親は、父親にも同意を求める。

まるで聞いていなかった彼は、けんけんと並べ立てた苦情にようやく内容を把握する。


「おまえも学生なんだから」


通り一遍の小言をくれてやる、といった態度に、チカチカと目の奥が光って頭の中の深い部分がずきずきと痛む。

綾乃は、母親とは目を合わさずにひたすら父をにらみ付ける。


「ね、梨乃ちゃん。お父さんも怒ってるから」


得意げな母親に、こちらと一度も視線を合わせない父親。

食器を置き、箸を強く叩きつける。


「別に、出来て結婚するような下手なまねはしないから」


小野木と、「そういう関係」になったことはないものの、親が一番言われて嫌そうなことを吐き捨てる。

一瞬だけ合わさった視線は、すぐさま父親からはずされる。


「あ、それと、私、梨乃じゃないから、綾乃だから」


強調し、ゆっくりと母親の目を捉えながら告げる。

聞いていないはずはない。

耳を閉ざし、届かなかったとしても、自分は自分だと主張していたい。

諦めて、昔に放り投げてしまった気持ちがよみがえる。

自分は、国沢綾乃だという単純で当たり前の事実。

いつもの軽い否定とは異なるせいか、ようやく届いた綾乃の声に、母親は愕然とし徐々にその表情の色をなくしていく。

目をそらしたままの父親は気がついてはいない。


「梨乃は、梨乃は死んだでしょ。もうずっと前に!」


いつもの発作が起きてうずくまる母をそのままにしながら、おろおろとして何もできない父。

体をたてにして真実を歪め続ける母親と、目の当たりにしながらそらし続ける父親。

薄々わかってはいたのに、ひどく落胆する。

これが、自分の両親なのだと。

彼らを一瞥して、ひどい頭痛を抱えながら綾乃は家を出て行った。




「ごめんなさい」


本当に唐突に現れた綾乃に、小野木は驚いていた。

突然だ、とはいえ、いつもなら彼女は必ず連絡をよこす。

理由も言わずに、だが、小野木は黙って受け入れてくれる。


「あの」


家出少女のような自分にあきれながら、ただ目の前の男にすがる。

よく見かけるシャツの端を握り締める。

自分の都合を押し付けていることは理解している。

だけど、もう、彼女の中には小野木しか手を伸ばす相手はいない。

まだ立ったままの小野木にしがみつく。

彼の匂いに、気持ちが治まっていく。

同時に、あれほど響いていた頭痛が消えていくような気がする。

精神安定剤。

そんな言葉が浮かぶ。


「ごめん」


自分が今していることを思い出し、ようやく羞恥心が沸いてくる。

そんな綾乃の頭を撫で、とりあえず座るように促してくれる。

茶の準備をしようと立ち上がった小野木の腕を掴む。

小野木は安心をさせるように綾乃の背中を数度撫で、再び立ち上がる。

捨てられた子犬のように、彼の動きに視線を合わせる。


落ち着いたのは、彼が入れてくれたお茶を飲み干した後だった。


「泊まってく?」


いつも押しかけるのは綾乃で、泊まっていくと口にするのも綾乃だ。

初めて小野木の方から促され、わけもなく照れながら頷く。

小野木の隣にいれば、ちゃんと寝られることに初めて気がついた。




 母が彼女の実家に帰されたのを知ったのは、綾乃が帰宅した後だった。


「は?」


あからさまにばつの悪そうな顔をして、父親がぼそぼそと告げる。

相変わらず視線を合わせようとはしない。

この人は、いつまでも誰からも逃げようとする人なのだと思い知る。


「あのままじゃあ、なぁ」


発作のことを口にしながら、逃げ腰の男が言い訳を言い募る。

母の発作に対応してきたのはいつでも綾乃だ。

今ではどうすれば軽くすむのかを理解している。

そんなことからも逃げてきた男は、綾乃がいないとなれば他者に放り投げることしか思いつかないのだろう。

どこまでも家族と向き合おうとはしてくれない。

幾度も味わった絶望感を、これ以上ないほど味わいつくす。

あの人は、誰も見ていないところでは発作なんか起きない、という事実を飲み込む。


「綾乃は、その」


どこに言っていたのか、という簡単な詰問すらできないまま押し黙る。

逃避していた、という自覚はあるのか綾乃には弱気な態度だ。


「彼氏のとこ」


無難な答えに安堵して、少し考え込んで難しい顔をした。

年頃の娘が男のところに入り浸り、という事実はどう考えても喜ばしいことではない。


「あの人がいなきゃ、あまりいくこともないから」


罪悪感を押し付けるように、ゆっくりと逃げ道を与える。

あながち間違ってもいない事実を混ぜながら。

きっかけは、確かに逃避だったのだから、と。


「それじゃ、宿題あるし」


高校生らしい全うな言い訳を口にして、さらに父親は安心したような表情を浮かべた。

厄介なパートナーは目の前から消え、優等生だった娘も元に戻る。

彼にとっては、自分がなんの責任も取らずにいられる環境に入り浸れるという格好だ。

ずきり、と痛む頭を抱え、綾乃は自室へと引きこもる。

小野木の、体温は消えてなくなってしまった。

真っ暗闇の中、綾乃はひざを抱えながらベッドの上で横になる。

夢の中の「彼女」は、ただただ綾乃を見下ろす。ほっそりとした白い腕は、今にも彼女の首筋に手が届きそうだ。

ぎゅっと目を瞑れば、ありもしなかったその光景が浮かび、恐る恐る目を開ける。

自分のものでしか体温を確認しても、何も変わらない。


眠りは、なかなか訪れることはなかった。

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