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「お兄ちゃん」
懐かしい声が響く。
ゆらゆらと、起きているような寝ているような感覚でまどろむ。
悲しげに見上げる顔は、確かに妹のものだ。
どうして、だとか、なぜ、とか聞きたくて聞けなかった言葉を夢の中でも飲み込む。
張り付いたかのような喉は、空気しか吐き出せず、妹は困ったような顔をして首をかしげたままだ。
器用に編みこんだ髪の毛が、両サイドに下りる。
白いうなじは折れてしまいそうで、思わず手を伸ばす。
妹はあとずさり、そして小野木の右手は空を切る。
泣き顔一歩手前の妹の姿は掻き消え、小野木の意識が浮上していく。
無意識下で、今見た人は、妹だったのか誰かだったのかを混同させながら。
体温を確認するかのように、手を握り合って眠る。
儀式のように、何かを確かめながら、綾乃が眠りについている。
二人で眠るには少々狭いベッドの上で、少女と並ぶ。
その字面さえ見れば、眉をしかめざるを得ない。露見すれば、あれこれ揶揄する言葉が飛ぶだけでは済まないだろう。
なのに、小野木は隣に並ぶことを許してしまっている。
彼女の何が、特別なのか。
そして、彼女にとって自分はどういう枠の中に納められているのか、と。
「せんせ?」
「……その呼び方はちょっと」
夜中に目が覚めた綾乃に呼ばれ、夢から覚めたばかりの小野木は顔をしかめる。
事実、ではあるが、それを故意に意識させる呼称はひどく扇情的だ。
「小野木、さん?」
「まあ、それで」
まだ寝足りない綾乃は、両手で小野木の右手を抱え込むようにして再び眠りにつく。
平衡になった体温は、すっかり彼の中に馴染んでしまっている。
それが、以前からあたりまえだったかのように。
現役の生徒を家に招きいれ、あまつさえ。
と、そこまで考えたところで小野木は頭から色々なものを振り払う。
綾乃の言葉に逆らえず、あっさりと迎え入れた。
事実はそれだけで、だが、結果は重い。
あれ以来、綾乃は気まぐれに小野木の部屋を訪れている。
簡単なメール一つで訪問を告げ、そのそっけない文面をみて嬉しく思う自分がいる。
状況を考えれば褒められたものではない。
だけど、と、思考はひたすらループする。
淡々と授業をこなしながら、頭の端でそんなことを考える。
教師としてはあるまじき姿勢ではあるが、幸いそれが外部に露呈することはない。
チャイムがなり、授業が終了する。
うとうととした生徒たちも、目を覚ます。
「せんせー」
甘えた声で浅見桃子が小野木のそばへとやってくる。
小野木が授業を終えたクラスとは全く関係がないというのに、時間が合えば彼女はこうやって彼の出待ちをしている。
けなげ、とも言える行動ではあるが、小野木にとってはうっとうしいとしか思えない。
わずかに右手をあげ、無言で立ち去る。
それだけのリアクションでも、浅見にとっては喜ばしいことらしい。
背中に視線を感じながらも、黙々と足を進める。
彼女と彼女は、何が違うのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら。
「小野木さん」
部屋を訪れた綾乃が、唐突に質問を口にする。
「こんな感じの子、知ってる?」
首をかしげながら、人物の説明をする。
それは今日まさしく彼を出待ちしていた彼女のことであり、彼女と彼女の接点がわからない小野木が次に疑問を口にする。
「浅見、だと思うけど。知ってるのか?」
「知っているっていうか」
綾乃の名前すら呼べない小野木が、彼女の疑問の答えをあっさり提供する。
彼女の方はといえば、どこかすっきりした顔をしている。
「ようやく名前がわかったけど、やっぱり知らない人だった」
一人で納得して、持参してきたスナック菓子を口に放りこんでいる。
しっかりと泊まるつもりの彼女は、準備万端に色々なものを用意している。
ただ、ここに痕跡を残すことはしない。
細々とした消耗品など置いておけばいい、という小野木の提案に、彼女は曖昧に首を横にふる。
「いや、あの子先生のこと好きでしょ?」
全く違うニュアンスで言われたにも関わらず、綾乃からもたらされた「好き」という単語に年甲斐もなく気恥ずかしさを感じる。
「まあ、たぶん」
若さゆえのあふれんばかりの好意を示してはいるが、一過性のものであり小野木にとっては多数いる女子生徒のうちの一人、という認識でしかない。
「あの子と私、どう違うの?」
小野木にとって蠱惑的とも言える表情を浮かべる。
もちろん綾乃はそんなつもりは毛頭ありはしないが。
内心の動揺を隠すように、からかうような口調でやりとりを返す。
「ん?やきもちか?」
冗談めいた口調に、綾乃は年相応に口を膨らませて反抗的な態度をとる。
先ほどまで幻惑された雰囲気が消え去り、安堵する。
自分より随分と年下の少女に振り回される。
それが、嫌いではないことを知っている。
「……今何時だと思ってるんだ?」
早朝の電話にたたき起こされ、休日ゆえの惰眠をむさぼっていた小野木は不機嫌に受話器を握る。
綾乃は、けたたましい電話の音にも気がつかずに、彼のベッドの上でまだ規則正しい寝息をたてながら眠っている。
これが年の差というものか、という自虐めいた思いもさらに彼の機嫌の悪さを加速させる。
「ああ、で?」
他にはいない相手、母親を相手にしながら小野木はぶっきらぼうに受け答えをする。
なんだかんだ言ったところで相手をするのだから、小野木も親に対しては冷酷になりきれはしない。
これでも、心配はしているのだ。
「だーかーらー、そういうのはいいから」
いつまでたってもそういう話の気配すらない小野木に痺れを切らし、あちこちに見合いをお願いしたと告げられ、受話器を叩き置きたい衝動にかられる。
別に興味がないわけではない。
学生時代はそれなりに普通に恋人もいたし、今でもその気になればそういう相手に不自由はしない。
周囲のおせっかいな人間がそういう面倒をみよう、と提案してきたこともある。
だが、今はその気がない、とだけ答えている。
ふいに誰かの顔が浮かび、振り払う。
「ちゃんと断っておいてくれよ。大体そっち離れてこっちに来たがる人なんて珍しいだろうが」
もっともらしい断り文句を口にする。
母親は地元から出たことがないまま嫁いだ人間だ。
その交友範囲はとても狭い。
そんな地元民が固まったままのコミュニティーでは、やはり地元から離れない人間の方が多い。
彼がこちらの大学を希望する、といったときの騒動は記憶に新しい。
それがどれほど偏差値が高くとも、親元を離れる人間の方が親不孝なのだと思い知るきっかけとなった。
「は?だから帰らないって、帰ってどうするんだよ」
まだ諦めていない母親は、安易に帰郷を促す。
彼ならばその辺の企業に簡単にもぐりこめると信じて疑っていない。
そのあたりは父親がもう少し口出ししてくれさえすれば状況は改善させるはずではあるが、彼の父親はどこまでも空気のように存在するのみだ。
「そういうことだから、ちゃんと断っておいて」
言いたいことだけを言い切り、受話器を置く。
親と話すときは疲労感しか感じず、盛大にため息をついた。
後ろから、何かが動く気配がした。
この部屋にいる自分以外の存在を思い出し、振り返る。
「おはよーございます」
まだ寝ぼけた顔をして、上半身を起こした綾乃に挨拶をされる。
寝たりない、という風情を全面に出し、油断をしたらすぐさまベッドの上へと落ちていきそうだ。
「ああ、悪い。まだ寝てていいぞ」
そういいながら、小野木も同じベッドにもぐりこむ。
自分が寝ていた場所の温度はすっかりなくしてしまったが、隣にいる綾乃から体温を感じる。
再び寝る体制となった綾乃を引き寄せる。
このままではだめだ。
そんなわかりきった答えを、深い闇に埋めた。




