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「梨乃ちゃん」
呼ぶ声に目を覚ますと、いつものようにエプロンをした母親が部屋に入り込んでいた。
彼女を見下ろす視線は、綾乃を見ているようでみていない。
虚ろな入れ物のような母親は、精一杯の笑みを浮かべている。
「おは、よう」
働かない頭を動かしながら、上半身をなんとか起こす。
母親は彼女を眺めながらにこにこと上機嫌だ。
「遅刻しちゃうわよ」
カレンダーなどない部屋で、綾乃は携帯を確認する。
今時、と友人たちからは言われるものの、彼女は古い携帯を手放せないでいる。
「あの、今日日曜日、だけど」
念のため今日の曜日を確かめてみれば、やはり休日だとカレンダー機能は示していた。
そんな綾乃の言葉など聞こえていないのか、母親は笑ったままだ。
「あら、スケッチに行くとか言ってたじゃない」
それは誰だ、と喉まででかかった言葉を必死で飲み込む。
別に彼女は絵を描く趣味もなければ、鑑賞する趣味もない。
ゆるゆると首を横に振る。
こうなってしまった母親は、彼女の言うことなど聞く耳をもたない。
「天気、悪くなるって」
天気予報など聞いてはいないが、それらしい言い訳を口にする。
母親は首をかしげると、その言い訳に納得したのか満足そうにうなずいた。
「んーー。でもごはん作っちゃったから」
音符でも零れ落ちそうなほど能天気にのたまう。
「パパは?」
わかりきったことをたずねる。
もしかして、ということがあるかもしれないと縋りながら。
「ゴルフ」
そんな幸運など彼女に訪れるはずもなく、母親は少しだけ困った顔をして答える。
ずっとそうだ、と。
綾乃はうつむいて見えないように唇をかみ締める。
父親は外に逃げて、母親は現実から逃げたままだ。
「梨乃ちゃん?」
俯いた綾乃に、別の名で彼女が呼ぶ。
「……違う」
綾乃の言葉は彼女には届かない。
「私は、梨乃じゃない」
貼り付けた笑顔のまま、何を言っているのかわからない、という顔をして母親が首をかしげる。
本当にわからないのか、わからないふりをしているのか。
彼女はずっと綾乃を梨乃と呼び、綾乃のことを見ようとはしない。
「私は梨乃じゃない!!」
俯いたまま叫んだ言葉が室内に響く。
静寂が一瞬だけ破られ、すぐさままたもとの静けさへと戻っていく。
外では鳥の鳴き声が聞こえ、カーテンを閉めたままの室内にも日差しが差し込んでいる。
綾乃の耳に、不規則な呼吸音が届く。
顔を上げれば自分の胸元をつかみ、苦しそうにした母親がうずくまっていた。
深くためいきをつき、彼女のそばに近寄る。
母親の肩を抱き、落ち着かせるように声をかける。
時間にしたら数分のこと、しかし綾乃にとってはとてつもなく長く感じられた時間が過ぎた頃、母親の様子が快方に向かう。
落ち着いて呼吸をさせ、さらに夫婦の寝室へと彼女を連れて行く。
綾乃の腕にしがみつく彼女を引き剥がし、ベッドに寝かしつける。
一通りの作業が落ち着いたころ、念のために父親へとメールを送る。
いつもの症状が出た、と。
結局、父から返事がくることはなかった。
「どういうつもりだ?」
綾乃からの呼び出しを受け、小野木はあっさりと待ち合わせの場所へとやってきていた。
念のため、というどういうわけかはわからない理由のまま渡された電話番号にかけたのは綾乃の方だ。
彼女の番号を知らない小野木は、当然かけられるはずもない。
彼女自身も、どうして彼を呼び出してしまったのかはわかっていない。
ただ、友人でもなく親戚でもない「大人」の彼に聞いてほしかったのかもしれない。
「なんとなく」
だが、ありのままを吐露できるはずもなく、綾乃は相変わらずの曖昧な返事を口にする。
隣町の有名な神社に小野木を呼び出した綾乃は、制服を着ているときとはずいぶんとその印象を変えていた。
女性はもともと化粧をすれば雰囲気が変わる。
彼女もその例にもれず、ある程度化粧をして、程ほどに今時の服を身につけている。
ただそれだけで学校にいるときの国沢綾乃、ではない別の少女のようだ。
「乗るか?」
それでも目ざとい誰かに見つけられたくはない綾乃は、小野木の提案に黙ってうなずいた。
「で?」
さらに遠い海側にあるカフェへと入る。
彼らの通された席は観葉植物で仕切られており、あまり姿を覗かれることがないポジションだ。
頼んだコーヒーとココアが届けられ、それでも口を開かない綾乃に小野木が問いかける。
「だから、なんとなく?」
あくまで口を割らない綾乃は、まだ熱いココアに口をつける。
季節はずれではあるが、なんとなく甘いものをとりたかった彼女は、想像通りの甘みにほっとする。
「せんせ、小野木さんはどうして来たの?」
自分から呼び出しておいて、といいたいところを小野木はこらえる。
無視すればよかったのに、と、あっさりと返されてしまいそうで。
彼にとっての綾乃はとても掴みづらい少女であり、何より自分が彼女をどうしたいのかがわかっていない。
恋愛感情なのか、と聞かれれば違う、と今のところは答えざるを得ない。
簡単には答えられない小野木に、綾乃は笑いかける。
「私が、似ているから?」
雨の日のあの言葉が綾乃の耳によみがえる。
誰かに似ている自分は、似ているから小野木にかまわれているのだと。
だから遠慮なく利用する。
まるで免罪符のように、彼の失言を捕まえて。
イミテーションの自分でも、彼にとっては多少の価値があるかもしれないと思っているから。
「……いや」
違う、と言い切れない弱弱しい小野木の言葉が消える。
綾乃が持っていたカップが、ソーサーの上に置かれる。
かちり、と無機質な音がして中の液体がゆれる。
「恋人?じゃないよね」
そうではない事をわかっていて、からかうような言葉を投げつける。
人生経験が浅い自分でも、小野木の捕らえる自分に、そういう「色」がないことは薄っすら感じ取っている。
綾乃は小野木が見つめる先を推測する。
「ああ」
全く手がつけられないコーヒーが温度をなくしていく。
外は快晴で、強く吹きつけた風が木々を揺らしている。
眩しげに海岸線を見つめる綾乃を、小野木は黙ったまま見据える。
客入りが少ない店内は、少し前の流行歌が流されている。
「私、やっぱり偽者なんですかね?」
静かな呟きに、小野木が我にかえる。
「段々、自分が誰なのかわからなくなってく、って言ったら、思春期にありがちな病気だって、からかいます?」
冗談を装ってはいるが、それが本質ではないことを痛いほど理解できる。
小野木は、外を見つめたままの綾乃の横顔を見つめ、混乱する。面影を重ねてつっかかっていったくせに、彼女の言いように妙にあせりを覚える。
「いや、からかわない」
あわてて口にだした否定の言葉に、綾乃の反応は薄い。
海岸線よりずっと遠い何かに魅入られながら、彼の言葉は耳には届かない。
「じゃあ、小野木さん」
ようやく交差した瞳がとてもきれいで、初めて小野木は彼女に見惚れる。
「今日、泊まっていっていい?」
彼女が、艶やかな笑みをこぼした。




