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 季節はずれの低気圧がやってくる、という話題になったときには、小野木はこんなことになるとは想像していなかった。


天気予報どおり、下校時刻を過ぎたあたりから空模様が急激に怪いものとなった。

急遽放送にて部活を取りやめるように告知して、担当の教師たちは校内に残っている生徒たちを追い立てる仕事を始める。

小野木も当然その一人であり、比較的若年に当たる彼はその担当範囲も広く当てられていた。

鍵束と、念のための懐中電灯を持ちながら一つ一つ確認していく。

中堅校、という名ののんびりとした校風をもつここにおいて、生徒たちはどちらかといえば素直な子供たちが多い。

だからなのか、言いつけどおりに帰宅した生徒たちが大半で、小野木の仕事は距離以外を除きとても楽なものだった。

ここが最後、と、職員室側からは遠いところに配置された校舎の玄関口を点検する。


「国沢……」


そこには、空を見上げ途方にくれたような国沢綾乃が佇んでいた。


「おまえ、まだいたのか?」


あきれたような口調で話しながら彼女に近づく。

綾乃に接触するのは保健室でのあれ以来だ。

少しの気まずさと、これ以上近寄ってはいけない理性が彼の行動を抑制していた。

だが、向こうから飛び込んできたとあれば別だ。

言い訳にもならない文言をひねり出しながら、垣根を飛び越え小野木は綾乃の隣に並ぶ。


「ええ、まあ」



相変わらずとってつけたような曖昧な返事しかよこさない綾乃に、変わっていなかったことを喜ぶ。

彼女に関わると自分の感情が乱される。

近づくべきではない。

頭は理解していても、自分自身が制御できていない。


「部活やってないだろ?」

「……はい」


この学校は別に文武両道だの、健康な体には、だのといったご大層な目標を掲げていない。

高校生らしくはつらつと過ごせばよい、という上層部の方針はきちんと生徒にまで浸透している。

だからなのか部活を熱心にやるものは少なく、結構な割合で帰宅部が占めている。そしてもちろん、それを責める風潮はどこにもない。

ご多分にもれず、綾乃もその中の一人である。

その割には遅い時間に帰宅しているのをちょくちょく見掛けはするが、友人につきあってだらだらと校舎内ですごすものも多いため、小野木もさほど気にしてはいなかった。

だが、この天候でこの場所に取り残されているとあっては放置できない。

彼女のそばに友人たちの姿はなく、おそらく教師たちですら大半は帰宅しているだろう。

それほど天気は急変し、すでに大粒の雨が玄関のガラスをたたき始めている。


「まあいい、送ってやるから」


くしゃり、と綾乃の頭を撫でる。


「別にいいですよ、先生。このまま帰りますから」


外の雨に対抗するにはあまりにも頼りない折り畳み傘を手にして、綾乃が小野木を見上げる。

薄く色づいた唇が、やんわりとした拒絶の言葉を紡ぎだす。


「いや、そんなんじゃ無理だから」


無造作に彼女の傘を取り上げ、背中を左手で押し出す。

自分についてくるように仕向けながら、ささやかな罪悪感が騒ぎ出す。

一生徒に、何をしようとしているのか、と。

教師という職業からくる、単なる責任感だと言い聞かせながら、彼女を連れ出す。

薄暗い校内はどこか退廃的な雰囲気をもたらし、彼の中の感情を刺激する。

生徒と教師だと、呟きそうになるほど頭の中で繰り返しながら、彼女と連れ立って歩く。

強く抵抗する気はないのか、はたまたこの天候のせいで諦めがついたのか、綾乃のほうもおとなしく彼についてくる。

窓の外に光が見え、一瞬だけ彼らの影を形作る。

程なくして雷鳴が聞こえる。

ぼんやりと窓の外を眺め、「カミナリ……」と、呟く声が小野木に微かに届く。

二人の距離はひどく近い。


「職員室にこれ置いてくるから、待ってろよ」


彼女の両肩に両手を置き、念を押す。

そうしなければ、この雨の中彼女が消え去ってしまいそうだと、馬鹿な予感がよぎる。

首をかしげ、綾乃はゆっくりとうなずく。

その態度に少しだけ安堵して、職員室へと向かう。


案の定誰も残っていなかった職員室をチェックし、最後に扉を施錠する。

書類が入るカバンを片手に持ち、すぐ近くにいるはずの綾乃の下へと走る。

薄暗い廊下にいる彼女の姿を確認する。

人知れず息を吐き出すほど安心をし、それでももう一度存在を確認する。

視線を斜めに落とし、どこか遠いところを眺めるような表情はひどく大人びている。

そして、彼の良く知る誰か、に酷似している。


「ほら、行くぞ」


気持ちを悟られたくなくて、彼女をせかすような真似をする。

触れた右手から体温が伝わる。

戸惑いながらも、彼は手が離せないままだった。




「家どこだ?」

「少し入り組んだとこだから、近くのコンビニまでで大丈夫ですよ」


綾乃は彼でも知っているコンビニエンスストアの位置を教える。

そういう控えめなところは長所ではあるが、この天候ではあまり意味を成さない。


「おまえなぁ、この雨みてそれ言ってんのか?」


ワイパーはひっきりなしにフロントガラスを往復し、それでも雨が滝のように流れてくる始末。

二人の話し声も、少し張り上げなければこの狭い車内ですら聞こえない。

駐車場にとめてあった車にたどり着くまでで、二人は十分に濡れてしまっている。

横殴りの雨には、傘だけの対策では不十分なのは明白だ。

濡れてまとわりつくスカートを気にしながら、綾乃はおとなしく助手席に座っている。

お互い上半身が濡れなかったのは幸いだ。

綾乃の指定する店から自宅までの距離はわからないが、それも風前の灯だろう。


「家へつけばシャワー浴びればいいし」

「まあ、そうだが」


どこまでも遠慮がちな綾乃に配慮しながら、小野木は指定の場所へと車を走らせる。

無言が続く車内では、ただ雨とタイヤが水を切る音だけが響く。

ふいに、珍しく綾乃のほうから口を開く。


「先生はどうして私にかまうんですか?」


聞く人が聞けばただの自意識過剰、とも取れる発言に小野木は唇をかむ。

その意味を誰よりも自分自身が認識しているのだから。

女子生徒にかまわない教師が、自分から近づくようなまねをする。

そんな危険なことをして彼にとっても、彼の職業にとっても何も得することはない。

だけどいつのまにか近寄ってしまった彼女。

彼にとっては不可思議で、だけどもちろん理由はうっすらと理解している。


「似ている……、のかも」


言うべきではない言葉が、掠れた声で車内に響く。

隣に座っているはずの綾乃が自分を見ている気配が伝わる。

前だけをまっすぐに見て、運転に神経を集中させる。


「そうなんだ」


視線がはずされ、小野木と同じように前を向く。

信号待ちで車を止め、隣に座る彼女を盗み見る。

語らない唇は硬く閉ざされ、長いまつげに縁取られた瞳はまっすぐに前をみつめていた。


「先生、信号」


いつのまにか青に変わったことを伝えられ、あわてて車を走らせる。

頑なにその場所しか伝えなかったコンビニエンスストアまで、彼らの間には会話がもたらされることはなかった。


「ありがとうございます」


雨傘を差し、綾乃が軒先で頭を下げる。

それに右手を振ることで答える。

周囲を確認し、車を動かす。

帰り際に彼女の姿をもう一度確認する。

彼女の唇が何か動いていることを発見した。

それがどういう言葉か届くはずもなく、小野木の車は道路へと進んでいった。

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