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「ちょっときれーだからって、調子に乗ってるんじゃない?」
綾乃は、古典的な呼び出し、というものに応じてみた。
できれば寄り付きたくはなかった美術室に足を運んだのも、好奇心が勝ってしまったせいだ。今時、かわいらしい便箋に名指しで呼び出す、などといったアナログ的な行動をする相手に興味を抱くのも無理はない。
あたりまえだが、ここは進行途中の絵が部屋の片側に無造作に立てかけられており、独特のにおいが充満している。
僅かに顔を顰める。
薄暗い室内には部員は誰もいない。
授業で美術を選択しているものも利用できるため、この部屋自体にかぎはかかってはいない。美術製作に必要な道具などは、担当教諭から許可をもらい、準備室から用意するのが決まりとなっている。
そのためさして高価なものがおいてあるわけではない部屋は、誰でも自由に出入りできるようになっている。
まして、本来ならば今日は部活がある予定である。
残念ながらこの学校の美術部はあまり活動熱心ではなく、週三回ある活動日の半分も出席していない。相手はそれを知っていたのだろう。ぽつんと一人待たされた綾乃は、周囲を見渡すことなく、ただドアだけを見つめていた。
匂いに、思い出しそうになってこの場に来たことを後悔する。
開口一番、文句なのかよくわからないことを投げかけてきたのが、待ちに待ったアナログな人間であり、おそらく同学年であろうたった一人の少女だったことは意外だったけれど。
「はあ、ありがとうございます」
とりあえず、顔をほめられたことに関して礼を述べる。
本気、というよりもはどちらかといえばからかいが主ではある。
「な!誰もほめてないし!」
当然、呼び出した本人は簡単に気色ばむ。
表情がぐるぐると変化して、みていて飽きない少女だ。
などと思っていることがわかれば、さらに彼女は怒り狂うだろう。
だが、名前は知らない、顔すらおぼろげな彼女から呼び出される理由がわからない。
そんなくだらないことを考えるしか、正直間が持たないのだ。
「あの、どういった用件で?」
とりあえず単刀直入にたずねてみれば、少女はとたんに顔を赤くしてうつむいた。
照れている表情は非常に少女らしくはあり、だからといってやはり理由は一向に思いつかない。
こてん、と首をかしげ、綾乃は少女を観察する。
千夏ほどではないが、なかなかにかわいらしい少女ではある。
クラスが違うはずではあるが、だからと言って彼女がどこのクラスかはさっぱり検討がつかない。
それほど、綾乃にとって彼女は縁のない人間なのだ。
「先生……」
消え入りそうなほど小さな声で、ぼそっと呟いた言葉に、ようやく綾乃は思い当たった。
「ああ、小野木先生?」
メガネで、どこか冷酷で、そして自分に一歩も二歩も踏み込んでくるなぞの教師の顔を思い浮かべる。
知らない間によく会話を交わすようになった教師のことは、綾乃自身もどう捕らえていいのかを整理しきれていない。
さすがに保健室で寝姿を観察されていたことには羞恥心を覚えたが、だからといって彼から性的な興味を示すような態度をとられたことはない。
どこか遠くを見ているようで、自分ではない何かを求めているようで、喉に小骨がひっかかったようなもどかしさを感じるけれども。
「そう!先生!先生に近づかないでよ!」
よほど思いつめたのか、堰を切ったように大声を張り上げる。
目は涙で潤み、彼女が小野木に恋をしていることは一目瞭然だ。
「……そうは言われても」
だが、どのように主張されようとも、綾乃には対処ができるとは到底思えない。
彼女が自分から小野木に近づいていったことなど、一度もないのだから。
綾乃の近くにいる人間ならば理解できるからくりも、外側から見れば綾乃が小野木に近寄っているように見えているのかもしれない。
小野木は不用意に女生徒に近づくようなまねなど、一度もしたことがないと噂されている。それは確かに綾乃から観察しても、用心深く少女たちを排除している様子を感じ取ることができる。
だが、綾乃にとっての彼は違う。
だからこそ彼女の友人たちも、彼女と小野木の関係について興味をもったのだ。
関係性が希薄な教師と、周囲から沈んでいる少女。その組み合わせは第三者からみれば、確かに好奇心にかられるものだろう。
綾乃の性格を知っている彼女たちですら疑問に思い、一度は口にしたのだ。
小野木の側からしかみていない少女にとって、綾乃は邪魔者で、目障りなものでしかないだろう。
「あんたも小野木先生のこと好きなわけ?」
勢いなのか思い余ったのか、あっさりと小野木に対する思いまでを口にする。
「いや、それはない」
あっさりと否定した綾乃の言葉に、少女は安堵した表情をみせる。
だからといって、小野木の近くに綾乃がいることを承服したわけではなさそうではあるが。
「もういい。でも、近寄らないで!」
あまりに手ごたえのない綾乃に飽きたのか、それとも無駄だと悟ってくれたのか、少女は踵を返すようにして美術室を去っていった。
取り残された綾乃は、竜巻のようにあっという間に過ぎていった彼女の背中を見送るままにしていた。
――ここは嫌い。
ふいに沸いてきた心の声に、ここは美術室だということを思い出す。
何か、を思い出しそうな絵の具の匂いに、無意識に鼻を覆う。
視界に入り込むのは描きかけの油絵、無造作に置かれた石膏像たち。
ぐるり、と見回して目を閉じる。
静かに息を吐いて、綾乃は美術室をあとにした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
まっすぐに自宅へと帰った綾乃は、エプロンをした母親に出迎えを受ける。
病気がちの彼女がここまで出てこられる、ということは体調がいいのだろう、と判断する。
後ろでひとつくくりに髪を束ね、昔は美人だったのだろう、ということがうかがい知れる容貌はやはり綾乃とどこか似通っている。
ただ、やや垂れた目尻が綾乃よりは優しく、そしてはかなげな印象を他者に与える。
「今日も部活?」
「……うん」
戸惑いを顔に出さないように返事をする。
「程ほどにしないと、いくら絵が好きだからって、ね」
「わかってる」
母親の視線を振り払うようにして階段を登る。
二階へあがり、左に曲がれば彼女の部屋がある。
廊下の突き当たりにある部屋のドアをにらみつけ、綾乃はひとつ手前の部屋へと滑り込む。
ふぅ、と息を吐き、制服のリボンに手をかける。
ベッドと机、作り付けのクローゼット以外のない部屋は、ひどく殺風景だ。
ここには時計もカレンダーも、その壁を飾るものは何も存在していない。
白い壁紙が無造作にのぞき、綾乃によってかけられた制服以外のものはそれを隠すことはない。
鏡すら隠され、彼女が身支度を行うのは、クローゼットの扉裏にある小さな鏡の前だ。
Tシャツとハーフパンツ、というラフな格好をした綾乃は、どさりとベッドの上に寝転がる。
何もない天井だけが目に映る。
ぎゅっと目をつぶり、自分の体を抱きしめるようにして丸くなる。
――何も、見えない。
呪文のように繰り返し、そして眠りに落ちる。
幾度もの浅い眠りと目覚めを繰り返し、違う名前を呼ぶ声に起こされるまで。




