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規則正しい寝息を立てる少女を見下ろす。
本来、自分がいる場所ではない保健室において、ほとんど関係のない女生徒を眺めている姿というのは、通報されてもおかしくないのかもしれない。
それぐらいの自覚はある。
だが、小野木彰人は彼女の息を確認し、脈をとりおえてもなお、その場から離れられないでいた。
――生きている。
そんなことは嫌というほど理解している。
自分の心音を確かめ、ひどく緊張していることを認識する。
穏やかな寝顔はやがて表情を変え、少女は眉根を寄せる。微かに苦悶の表情を浮かべた綾乃を、ただ見つめる。
起こすべきか、起こさないでおくべきか。
ためらったまま、ただ突っ立っている小野木をよそに、綾乃の両目がゆるやかに開く。安堵し、静かに息を吐き出す。
「……ヘンタイ?」
焦点が合わなかった両目が、徐々に鋭いものとなり、小野木を認識した瞬間、かわいらしい声からあまりにもな言葉が零れ落ちる。
小野木はがっくりと肩を落とし、途端に緊張から開放され、ベッドサイドにあるいすに腰掛ける。
ゆったりとした動作で、半身を起こした綾乃と視線がぶつかりあう。
「おはようございます?」
どうして、だとか、なぜ、という疑問を一切封じ込めながら綾乃が笑いかける。
これ以上は入ってくるな、という自然な線引きに、小野木は苦笑する。
常に自分がやっていることをやり返されている。ただそれだけだというのに、目の前の少女にそうされるのにはひどく傷ついている自分がいる。
とりちらかった思考を振り払うかのように、数度頭を左右に振る。
「ああ、おはよう」
できるだけ抑えるようにして、挨拶だけを返す。
小野木は、彼女の担任でもなければ副担任でもない。
しいていうなれば昨年数学を教えたこともあるが、ただそれだけだ。
教科担任は山ほどおり、彼はその中の一人にすぎない。
こんな風に、不躾にも保健室で眠っているそばに立っていていいわけがない。
まして、彼女は異性の生徒だ。
取り扱いには十二分に注意せよ、というのが上からのお達しだ。
昨年もひょい、と踏み越えた同僚がどうなったかを彼は知っている。
「病気、じゃないんだよな?」
立場が逆転したかのように、ひどく青白い顔をして綾乃に問いかける。
自己申告ではあるが、彼女は病気ではない。
ただ、頻繁にここへと訪れ、養護教諭と親しくしている、といった情報は開示されている。
だからといってさぼっている、というほど彼女の素行は悪いわけではなく、思春期特有の症状だろう、と結論付けられている。
「違いますよ」
短く答える綾乃は、制服のリボンをブラウスにとりつけている。
白くて薄い手に一度だけ視線を合わせ、そらす。
同じぐらい白いシーツが目に飛び込んでくる。
「眠かっただけです」
教師の前で堂々とさぼりだと宣言する。
その背後にあるものを一切合財みないまま、彼女の気楽な言葉に瞬間目の前が暗くなる。それはただの八つ当たりであり、彼女を彼女として認識していない愚か者のやり口だ。
「甘えてんじゃねーよ」
思った以上に乱暴な言葉遣いに、すぐさま冷静な自分が起き上がる。
繊細な年頃の、ましてやあまり関係のない少女にかける言葉ではない、と。
「先生に迷惑かけましたか?」
小首をかしげ、甘やかな表情とは裏腹な、ひどく冷淡な声音で問われる。
その声が彼を現実へと引き戻し、今ここにいるのは「国沢綾乃」という生徒の一人であることを思い出す。
――彼女は、彼女ではない。
「冗談ですよ、先生。そんなに深刻にならないでください」
微動だにできない大人の男を一瞥し、彼女はころころと笑うように告げる。
いつのまにか身支度を整えていたのか、ベッドから降りてスカートのしわを確認している。
「先生、失礼しますね」
ひらり、とスカートが舞う。
小野木はしばらくその場から動くことができなかった。
「おのぎせんせーーー」
かわいらしい声が職員室に響き、想像通りにかわいらしい女子生徒が教科書を片手に小野木の席へと駆け寄る。
よほど急いでいたのか、彼女は息も整わずに小型犬のように息を切らしている。
「職員室で走らないように」
メガネをかけなおし、ことさら冷たくあしらう。
それだけで、普通ならばめげる子供たちが多いところではあるが、彼女、浅見桃子は全く違った態度をみせつける。
「せんせー、ここ教えてください」
「そういうものは担当の先生に聞いてください」
確かに去年までは彼女の数学の担当教諭ではあったが、二年生になって文系に進んだ彼女の担当ではなくなっている。小野木が教えることは越権行為ともとられかねない。
浅見の担当教官は、苦笑いをして彼女を手招きする。
それに気がついた彼女は、年相応に頬をふくらませつつも担当教官の方へと歩いていった。
どうやら今日は本当にわからないことがあったようだ、と、小野木の方も困った顔を浮かべる。
浅見は、教師に対してあからさまに好意を見せ付けるよくあるタイプの生徒ではある。
この年頃の少女たちはすでに社会人となった教師たちを、ものすごく大人だと勘違いしやすい。
それは、小野木にしたところで思い返せば理解しうる感情だ。
社会人に憧れ、大人に憧れ、そしてそれを異性への恋心と勘違いすることも珍しくはない。
その典型例としてあげられるのが浅見桃子であり、彼女の隠さないストレートな態度はほほえましいものとして職員室で受け止められている。
一過性の麻疹。
思春期の通過儀礼。
そんなことをのたまいながらのんきに眺めていられるのも、小野木が傷つけないように、だが、鉄壁のガードで彼女の告白をあしらっているからだ。
あと一年もすれば彼女は卒業し、そして小野木のことなどすっかり忘れて学生生活か職場の生活を楽しむだろう。
それをわかっているからこそ、の、態度である。
もちろん小野木も、誤解を招くことを恐れ、彼女と二人きりにならないよう注意を払っている。
できるだけ他者の目が多い職員室に在中しているのも、それが理由だ。
そうでなければ雑用を押し付けられ、タバコ一本吸えないこんな場所にいる理由はない。
「せんせー、またねー」
かわいく手を振って、浅見が帰っていく。
台風一過のように、職員室がまたもとの静かな雰囲気に立ち戻っていく。
「小野木先生も大変ですねぇ」
「いえ、まあ」
先ほど浅見を手招きした教師、藤崎から声がかかる。
彼女は彼より十ほど上の、既婚の女性教師だ。
落ち着いた雰囲気と、丁寧な指導が生徒たちからも人気が高く、同性の生徒たちからの受けも非常に高い。
小野木にしても、頼れる先輩として彼女のことは尊敬している。
お互いに苦笑いをかわしながら、それぞれの仕事へ戻っていく。
すでに彼の脳裏には浅見のことなど残ってはいない。
ただ、少女特有の声に触発され、誰かを思い出してしまったせいで。
仕事が終われば、当然小野木も自宅へと帰る。
自宅、といっても一人暮らしのアパートではあるが、親から独立して過ごす空間はやはり開放感を感じている。
無機質な金属の音をたて、がちゃりとドアを開ける。
誰もいない部屋の電気をつけ、電話機に視線をよこす。
いつもと変わらず、着信を告げる印がともっていた。
誰から来たのかを確認することなく、吹き込まれていただろうメッセージを聞きもせずに消去する。
家の電話番号を知るものは少ない。
偶然つながったセールスを除けば、その発信者を小野木は良く知っている。
冷蔵庫からビールを取り出し、コンビニで買ってきた弁当の横に並べる。
学生の頃はそれでも炊事をしていたが、社会人になってからは買ってくることが多い。
仕事が忙しい、といいわけをしながら、無気力さに拍車をかけている。
ビールの缶を開けようとしたとき、タイミング悪く電話の着信音が鳴る。
携帯のそれとは異なるシンプルな呼び出し音に、彼はかすかに眉間にしわを寄せる。
「はい?」
名乗りもせずに受話器に返事をよこす。
そして、よく知っている声が耳に飛び込んでくる。
「ああ」
矢継ぎ早に話す女性の声だけが部屋に響く。
小野木は愛想もなく適当にそれに相槌をうつ。
聞いていてもいなくとも、それだけで相手は安心することを知っているから。
「……。わかったよ、オフクロ」
受話器を置き、ためいきをついて両肩をまわす。
何もなかったようなやりとりに、いつのまにか緊張していた自分に気がつく。
「わかってるよ」
小さく呟いた声は、彼以外は誰もいない部屋に吸い込まれて消えていった。




