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「そろそろ進路?」
「あーー、忘れてた」
夏休み明けの教室で、いつものメンバーで会話を交わす。
のんびりとした校風があいまって、将来のことを見据えた進路指導すらどちらかというとのんびりしている。
そういっていられるのも今のうちだけで、三年に進学すれば、それなりに追い立てられるのが現実ではあるが。
「私入れるとこならどこでもいいや」
あまり勉強が好きではない友人がこぼす。
具体的目標がなければ校風とあいまって、割とこういう生徒が多い。
「綾乃は?」
窓の外を眺めながらぼんやりとしていた綾乃は、友人の問いかけに現実へと戻る。
働かない脳を動かしながら、曖昧に答える。
「あー、医療系?」
専門学校でも短大でも、手に職をつけて今すぐにでも独立をしたい。
そういう気持ちが強い綾乃は、引かれない程度に具体的な目標を口にする。
看護師や医療技術者を目指す人間は少なくはない。
高尚な理由から、なんとなく食いっぱぐれなさそうだ、といった程度の理由までさまざまではあるが。
「頭いいから、医学部とかは?」
「それは無理」
どうがんばっても地元の大学の医学部はかすりもしない。
現状は優等生で成績上位ではあるが、受験期の競争に入ってからそれを維持できるとはとうてい考えていない。
自分の頭はあくまでそこそこだ、と十分自覚している。
母親が今も家にいれば、きっとありえもしない芸術系の学校を勧めていただろう。
綾乃を、姉の梨乃として認識したままの母だったならば。
幸い、彼女は居心地の悪いはずの実家に居続けている。
症状は悪化し、綾乃と梨乃の混同だけではなくなっているらしい。
しばらくすれば、そういった施設に入れる、という投げつけられるような報告を叔母から聞いたばかりだ。
暗に引き取れ、という言葉を飲み込み、承諾の言葉だけを告げてはいたが。
「えー、数学とか小野木先生に教えてもらえばよくない?」
久しぶりに聞く名に、動揺する心臓を落ち着かせる。
本来接点がない二人は、綾乃が遠ざかれば会うことはない。
同じ校舎内にいるのだから、遠目で見かけることはあっても、それだけだ。
綾乃は彼の家族ではないし、それ以上の何かでもない。
綾乃も、彼に手を伸ばさないし、彼も綾乃には手を伸ばさない。
想像はしていたが、感情は追いついてはいない。
無意識に彼の背中を捜し、そして匂いを探している自分がいる。
「できれば数学は世の中から抹殺されてほしい。あ、そうだ、綾乃なら川崎君に教えてもらえばいいじゃん」
数学が嫌いな千夏は、嫌そうな顔をしてさらにはとんでもない言葉を付け加える。
図書室での出会いから、川崎という男子生徒が近辺をうろうろしていることには、さすがに気がついている。
他者から見ればお似合いだと、さんざんからかわれてもいる。もちろん、綾乃が嫌そうな顔をすれば、止めてはくれるのだけれど。
今回も、無意識に顔をしかめれば、千夏は小さく舌を出して他の話題へと移っていった。
「……おはようございます」
意味もなく、川崎少年が綾乃の登校を出迎えていた。
ちらちらと好奇心の旺盛な生徒たちが、二人をうかがいながら通り過ぎていく。
ため息をつきたい気持ちを抑え、かろうじて挨拶を交わす。
「おはよう、なんか、いつまでも他人行儀だねぇ」
他人ですから、という言葉を飲み込んで少年の前を歩く。意識しなくとも、視線が自分に向けられていることを感じてしまう。
「綾乃さん、さぁ、好きな人とかいるの?」
朝一番で出す内容ではないだろう、と、振り向きもせずに毒づく。
だからといって、学校帰りに話されても、それはそれで厄介そうな話題ではあるが。
「僕さ、結構綾乃さんのこと気に入ってるんだよね」
曖昧な、告白ともいえない微妙なしろものが耳に届く。綾乃以外に聞こえていないことが幸いだ。
「だから?」
振り向きざまに、川崎へと切り出す。
常に彼女の背中を追いかけてきたせいなのか、その挙動に彼の方がたじろぐ。
「悪いけど、私は全く気に入ってないし、気に入る予定もないから」
同程度の曖昧な否定を投げつける。
彼は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐにいつものへらりとした笑顔に戻る。
傷つきたくなくて、誤魔化したままの告白など、相手にする価値もない。
綾乃は、再び進行方向へと向きなおし、いつもの通り一言の言葉も発することはなかった。
曖昧に誤魔化したままなのは、自分の方ではないか、という思いを抱きながら。
「ごはんちゃんと食べないとだめよ?」
「すみません」
体育の授業中に倒れた綾乃は、すっかり居場所となった保健室のベッドの上で意識を取り戻した。
熱中症だろう、という診断ではあるが、原因は暑さというよりも体力の低下によるものが大きいとの見立てだ。
一年のころからお世話になっている保健室の主にはお見通しとなっている。
体操服の上から触っても、自分自身のあばらが浮き出ていることがわかる。
専業主婦で料理が得意だった母の不在は、こういった形であわられたようだ。
家にいたがらない父親は金だけを置いて、やはりあまり帰宅していない。
料理などしたことがない綾乃にとっても、買ってきたものを食べる以外の選択肢はなく、さらには食に対する欲求すら低い彼女にとっては、食べたくなければ食べなくてもよい、と捨て置いた結果がこれだ。
取り繕うように笑顔を浮かべ、ゲームのしすぎによる寝不足だ、と主に伝える。
それを嘘だ、と言い返すこともなく、養護教員は複雑な笑みを浮かべた。
ドアが乱暴に開き、一人の男が入室する。
「先生、お静かに」
「あ、すみません」
勢いよく扉を開けたものの、出会い頭に叱責をされ、反射的に謝罪をする。
「何かご用?」
別に異常はなさそうな小野木の姿を見て問う。
健康そうで、怪我もしていない彼がここを訪れる理由はないはずだ、と。
「あ、ちょっと頼まれて頭痛薬を」
「そういうのは、本人にきてもらわないと」
そう言いながらも、手早く頭痛薬を手渡し、数量をチェックしているようだ。
もはや懐かしさすら覚える声を聞き逃さないように耳を向ける。
「あ、そうだ、小野木先生、もう帰り?」
「ええ、まあ」
「ちょどよかった。お願いしてもかまいません?」
「あの、何を」
彼ではない手がカーテンを少しだけ開放する。
「熱中症で倒れたみたいなんだけど、送ってもらえるかしら?ほら、まだ外は暑いじゃない」
ちらり、と久しぶりの視線が注がれる。
「ええ、大丈夫ですよ。それぐらい」
「ありがとう、私これからお迎えにいかなくちゃいけなくって」
両手をあわせ、背の高い小野木に感謝の意を表す。
「あ、じゃあ鍵しめもお願いねー」
歌うようにして、養護教員は去っていった。
思った以上に長い時間眠ってしまっていた綾乃に困っていたようだ。
綾乃は苦笑してシーツをみつめる。
「久しぶり」
振ってきた声に、不意に胸がつまる。
こんなにも小野木の声を聞きたかった自分に気がつく。
「だい、じょうぶですよ。もう。ただの立ちくらみみたいなものですから」
精一杯の虚勢をはって小野木の顔をようやく見返す。
何も変わっていない彼と視線がぶつかりあう。
「遠慮すんな」
「でも」
勝手に縋って、勝手に離れたのは彼女の方だ。
もう「代わり」になどされたくはない、と。
その主張に変わりはないが、それでも綾乃はどこかで小野木に頼りたい自分がいることに気がついている。
誰かの身代わりでもいいからそばにいたい。
矛盾した気持ちがただただ渦巻いていく。
「おまえは甘えとけばいいんだよ」
生徒に対しては甘い言葉を吐き出す。
するすると出てきたはずの言い訳の言葉が思い浮かばないでいる。
「じゃ、準備しとけ。職員室行ってから帰るから」
ただ俯いて、否定もできない。
「綾乃」
名前を、彼女の名前を口にして、小野木は立ち去る。
背中を視線が追いかける。
シーツに涙がこぼれたことにも気がつきはしなかった。




