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「どうして、あなただけが?」
なんの色味もない白い肌の女が、綾乃を見下ろす。
ただ伸ばし放題にした髪が風にさらされる。あらわになった顔は、驚くほど綾乃に似通っている。
「おねえ、ちゃん」
ほとんど呼んだことがない呼称を口にする。
病弱だった姉、梨乃との思い出は少ない。
梨乃は気がつけば寝台の上にいることが多く、妹である綾乃は静かにしていることを強いられてきた。当然、母親の意識は姉だけに注がれ、聞き分けがよかった綾乃は放置されていた。
それを、恨みに思わなかったと思えばうそになる。
だが、母の手をとろうとして、振りほどかれた経験が、彼女に諦観、という概念をしっかりと根付かせてしまった。
だから、姉のことを今は恨んでなどいない。
「どうして?」
しりもちをついて、ただ見上げるばかりだった綾乃に、梨乃の顔が近づく。
華奢な手が、綾乃の細い首に伸ばされる。
徐々にその手が強さをましていく。
振りほどこうと思えば、簡単にできるほどの力に、抗うことができないでいる。
まるで金縛りにあったかのように、綾乃の肢体はぴくりとも動かない。
ぎりぎりと、伸ばされた爪が首筋にめり込んでいく。
「おねーちゃん」
搾り出した声はひどく小さい。
「あなたなんか、いなければよかったのに」
呟いた声を掻き消すように、自身の悲鳴が響き渡る。
跳ね上がるように飛び起き、首に両手をあてる。
びっしょりとした汗が張り付き、不快感が現実の世界へと綾乃を引き戻す。
夢だったのだ、と、気がついたのは呼吸がようやく落ち着いてきたころだ。
見慣れたベッドと、天井を見渡し、一呼吸つく。
最近の綾乃の寝つきはひどく悪い。
うつらうつらとしながら、いつの間にか寝入ればこうやって嫌な夢をみる。
寝汗をかきながら起き上がれば、もう一度眠ることなどできなくなっている。
幸いなのは、自宅には綾乃以外の人間が存在しない、ということだ。
こうやって悲鳴をあげても、誰も何も気がつきはしない。
のろのろと起き上がり、シャワーを浴びる。
新しいシャツを着込み、冷蔵庫から取り出したペットボトルの茶を飲み干す。
いつの間にか明るくなった空を、窓から見上げる。
今日もまた、一日が始まるのだとため息をついた。
「綾乃、大丈夫?」
ちまちまとサンドウィッチを食べている綾乃に、千夏が声をかける。
「大丈夫だけど?」
「なんか、やせたっぽいし」
じろり、と綾乃を見ながら、千夏が訝しげな顔をする。
綾乃も千夏も、どちらかといえば痩せている部類に入る体型ではあるが、世の常のようにダイエットをしたい、などと口走ることも多い。
思春期の特徴めいたものなのだろうが、幸いなことに、それが実行されることは少ない。
千夏も、口では痩せたい、といいながら、帰り際にアイスクリームを誘い、ファストフードにもついていく。
一種の口癖のようなものだ、と、その矛盾を誰も咎めることはない。
「ああ、ちょっとダイエット?とか」
不摂生をダイエット、と言い換え曖昧に濁す。
「えー、なにそれ、いやみ?」
冗談っぽく、他の友人から突っ込みが入る。
「あとちょっと夏ばてっぽいのがきてるのかなぁ」
「ああ、暑かったからねぇ、ほんと」
酷暑を嫌そうに思い出しながら、話題は他へと移っていく。
千夏だけは、納得できない顔をしながらも、それらにつきあっていく。
彼女たちの会話は、午後の授業が開始される直前まで続けられた。
「ひとり?」
友人たちが部活へ行ったあと、綾乃は気まぐれに図書室へと足を運んでいた。
「ひとりだけど」
突然声をかけられ、首をかしげる。
見覚えがあるような顔の男子生徒は、おそらく同学年なのだろう。
だが、名前も正確なクラスも知らない男子だ。
一歩後ずされば、綾乃の背中はあっけなく書棚と接触してしまった。
「そんなに嫌がらないでよ」
「そういう、わけでは」
右手に少しかび臭い本を持ったまま、真正面から彼と対峙する。
彼との距離はみるみる縮まり、あっという間に綾乃の目の前へとやってきた。
「僕のこと覚えてる?」
見上げる格好となった綾乃は、周囲を素早く見渡す。
本の隙間からわずかに委員が作業している姿が確認できる。
あまり利用率が高いとはいえない図書室ではあるが、それでも数少ない本好きが机を陣取っている姿も見ることができた。
「ごめんなさい、ちょっと覚えてないんですけど」
「……、そっか、やっぱり覚えてないか」
距離をとろうと左へずれようとしたところ、彼の左腕がそれを妨害する。
まるでごく親しい間がらのような距離に、心臓が嫌な意味でざわつく。
「あの」
分厚い本を両手で持ち、彼との間に距離を保とうとする。
「ああ、ごめん。去年隣の組の委員長だったんだけど、ほんとに覚えてない?」
この学校では、二組合同で体育の授業を行っている。そのため、合同授業を行う組同士は、そのほかの組よりもは交流がある。
だが、それは同性同士の場合だ。
体育は当然男女別であり、昨年の隣の組だった女子は、さすがに綾乃でも記憶している。
「ごめんなさい」
申し訳ない、とは思ってはいないが、念のため謝罪の言葉を口にする。
「まあいいや。これから覚えてもらえば」
「はぁ」
この体勢の意味はわからないが、相手は納得したような顔をしている。
彼の左手が綾乃の左腕に触れる。
ぞわり、とした感触がそこから全身に伝わっていく。
今までに感じたことのない気持ちの悪さに、それ以上下がれないことを知りながら、後ろへと体重をあずける。
「またね、綾乃さん」
ふいに、影が遠ざかる。
目の前には誰も存在していない。
触れられた左腕をこする。
気持ちの悪さは消えてはくれない。
数度頭をふり、深呼吸をする。
かび臭い本を元へと戻し、置いてあった鞄を提げ、図書室を後にする。
彼に、名前を呼んでもらったことがないことを思い出す。
そして、「彼」を思い出した瞬間、あれほどまとわりついた嫌悪感はきれいに消え去っていった。




