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くぐもった悲鳴で、意識が瞬時に覚醒する。
荒い呼吸を整えるように、喉に手を当てる。ゼイゼイと音を立てた呼吸音が、徐々に穏やかになっていく。
半身を起こし、うなだれるようにしてシーツの上に置かれた自らの左手を眺める。
――いつも、そうだ。
夢の中で、自分に良く似た誰かに対峙する。
彼女はほっそりとした手を、自分の首にかける。
抗おうとしても動けない体は、足元が地面に縫い付けられたかのようだ。徐々に強まる力に、体中の力が抜けていく。
あげられない声で、悲鳴をあげる。
そして、それを合図にゆるゆると夢は破られ、徐々に現実へと引き戻されていく。
彼女が、にやり、と笑う。
その顔を、自分はよく知っている。
――ユウウツ。
呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく拡散していく。
空を見上げても、見慣れた傘の柄がみえるだけ。
はしゃいだような声が聞こえ、わずかにため息をつく。こういう行事は苦手だと、そんな気持ちを隠そうともせず、彼女の周りの空気はどこか沈んでいる。
「優雅な身分だな」
突然、影が日傘を覆ったかと思えば、上から低音の声が降りてきた。
日傘の持ち主の彼女は、その声の主を知っていた。寄せられた眉根がさらに深くなる。
ふと視線を落とせば、いつもとは違う靴を履いた両足が覗く。
「……人数は足りてますから」
彼が言いたいすべてをひっくるめて、拒絶するかのように彼女は手短に答える。
球技大会が行われているグラウンドでは、あちこちから歓声が聞こえる。エネルギーが充満したかのような空間は、高校生という年代特有の若さからくる活気だろう。
そんな空間から一人離れ、彼女はグラウンドの端、敷地と外界を遮断するかのように植えられた木々の下に腰を下ろしていた。
ご丁寧に日傘を差して体育座りする姿は、どこか浮世離れしている。
どさり、と音がして、声の主が彼女の隣に陣取る。
ささやかな拒否など気にしないかのように、彼は彼女に話しかける。
「病気なわけじゃないんだろ?」
日に焼けていない白い腕を眺めながら、男が問いかける。
確かに、彼女はひどく色白で体のつくりは華奢だ。
だが、彼女に既往歴があるということを、彼はあいにくと耳にしたことはない。
もっとも、ただ体が弱いから、と言われてしまえば納得せざるを得ない雰囲気ではあるのだが。
「先生こそさぼり?」
全ての問いかけをうやむやにして、彼女が質問を返す。
この年代とは思えないほど、彼女は巧みに距離を測りとる。
相変わらずの様子に、彼女からは顔が見えない彼はなんともいえない表情を浮かべる。
「いや、もう負けた」
「そう」
続かない会話は、不思議なことに二人にとって苦痛なことではない。
憎らしいほどの晴天と、爽やかな五月の風が二人の間を通り抜けていく。
「あやのー」
場違いな、いや、どちらかといえばこちらの方がふさわしくはあるのだが、甲高い声が届く。
続いて慌しい靴音が聞こえ、あっという間にその声の主は二人の近くまでやってきた。
綾乃、と呼ばれた少女は少しだけ日傘を傾け、そばに来た少女へと視線を合わせる。
「もうおわっちゃった」
全く悔しそうではない様子で、彼女は小首を傾げながら報告をする。
茶色く、軽くウェーブがかかった髪を左サイドでまとめ、当然おそろいの体操着を着用した少女は、年相応にひどくかわいらしい。
どこか低体温な雰囲気を伴う綾乃とは正反対の少女千夏。他者からはアンバランスにみえても綾乃とは仲の良い友人同士だ。
千夏は、綾乃の腕をひっぱりあげ、じゃれるようにして彼女を連れて行く。
渋々といった様子で日傘をたたみ、綾乃は千夏と一緒に歩き出す。
「せんせー、またね」
千夏の屈託のない声に、教師である小野木彰人は手を振りながらこたえる。
振り返らずにまっすぐ歩いていく綾乃の背中を見つめながら。
「ねえ、綾乃ってば、小野木先生と仲いいの?」
千夏の机を中心にして、綾乃を含め四人のクラスメートが固まりながらお弁当を食べる。いつもの光景の中、千夏は無邪気に綾乃へと質問を投げかける。
疑問に思ったことは口に出さずにはいられない。
それが千夏のよさである。
こういった話には興味がある、などという言葉は生易しいほど興味のある年代の残り二名もその質問にすぐさま反応する。
「いい、っていうか」
こてん、と首をかしげ、綾乃は思索する。
小野木というのは教師たちの中では比較的若く、それなりに整った容姿をもった女生徒に人気のある教師だ。
行事のたびに、彼女たちが遠巻きに彼を見つめる姿をみかけることは少なくない。
若さゆえの無鉄砲さで、どうして彼を直接取り巻かないのか。
その疑問は彼が持っている雰囲気にあり、崩さない生徒に対する姿勢のせいでもある。
授業に対する態度は非常に厳しく、そしてそれなりに熱心ではある。
だが、それ以上の「情」が彼には存在しない。
顔がよければそれだけでいいではないか、という層を除き、あまりにも自分たちに関心の薄い彼へは、最初は懐き、そして離れていくことを毎年繰り返している。
優しい笑顔で、だが薄っすらと膜を張ったかのように拒絶する。絶妙な間合いは、いっそ感心されるほどだ。
自己肯定観が強く、自信満々な女生徒たちですら愚かではない。
この学内で人気のある教師は、誰よりも熱心で、まれに境界を越えてしまうことのある平凡顔の社会科教諭だということが、それを証明しているかのようだ。
その、小野木が特別親しくしている女生徒、というポジションに綾乃はいつのまにか立たされていたようだ。
「よく、わかんない?」
疑問系でそれへ答え、煙に巻く。
綾乃自身は、他の先生への態度と変えているつもりはない。
ただ、一歩踏み込んできた相手を拒絶することなくどこか許している、という認識はある。
そして、あの小野木が自分に対して、他の生徒たちと違う態度をとっていることにも気がついている。
それが、たとえ自分自身に対する興味ではないのだとしても。
「まあ、綾乃だし」
「綾乃だから」
全く手ごたえのない答えに、千夏らはなんとなく納得し、すぐに話題は他のものへとかわっていく。
箸を持ち、食べ物を口に運ぶ。
何か、を味わいながら綾乃は彼女たちの話に耳を傾ける。
時折、綾乃、と、自分の名前を呼ぶ千夏の姿を確認しながら。




