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天人散華

作者: 星水晶

 初秋の日は早や西に傾いた。おうなが一人、その顔に西日を斜めに受けて歩いていた。このあたりはひと気もない荒れ野と化して、焼け残った木々がまばらに立ち枯れていた。うすら青草のいじましく生えかかった塚の脇には、赤錆びた鉾の折れ先が頭を出していた。小高い丘にさしかかると、館の跡か、炭になった柱がまだ残っていた。ここいらも戦場となったのであろう。媼は幾度となく頭をたれ、顔をそむけて足早に通り過ぎた。つまずく足元を見るのも恐ろしい。木の根ならよし、もしや白く光る人骨ででもあったなら。媼は見知らぬ土地を、ただひたすらに歩いて行った。

 媼はここよりはるか北の国の生まれだった。その国の名を玄象げんしょうといった。玄象は山国。その国が戦をしかけた。媼の今旅しているこの青蓮華しょうれんげの国に。二年ほど前のことであった。

 道というほどのものとてなく、古い轍の跡をたどりつつここまで来たが、荒れ野を旅する心細さは日が傾くにつれいやました。古戦場で野宿をするのは恐ろしい。気の荒れた野の獣が徘徊するのも、またそれにもまして無念の思いでさまよい出る亡霊に出会うのも。

 ふと顔をあげると、ゆくての左手に小さな鐘撞き堂のようなものが見えた。媼は杖を握りなおして、その堂を目指して歩きだした。近づいて改めて見れば、やはり鐘撞き堂であろう。土台の石垣の上に櫓が組まれ、青銅の小さな鐘がまだ下がっていた。堂に上って腰をおろすと、媼はつつましい荷物の中から瓢箪を取り出し、水を飲んだ。手布に水をたらして、土埃によごれた顔や手をふいた。次に糒と木の実をほんのわずか取り出した。今夜はここで明かすのかと覚悟した時、突然に声をかけられた。

「旅の方、じきに日暮れとなります。よろしければ拙宅へおいでになりませんか」

 見慣れない衣を身につけた小柄な男であった。男の指さす方を見れば、なるほど堂の裏手に草庵があった。媼は導かれるままについていった。

「何もありませんが、茶など進ぜましょう」

 広くもない庵のまんなかに炉が切られてあった。男は炉に火をおこすと、水をいれた土瓶をかけた。媼に藁座を勧めると、自分も向かいあって腰をおろした。日中はまだ暖かいとはいえ、日が暮れると火が恋しい季節となっていた。土瓶がたぎると、男は椀を二つ取り出し、団茶の塊から小刀で大切に削りとった茶の葉をひとかけ入れて湯を注いだ。庵中に茶の香りが満ちた。その椀のひとつを媼に手渡し、もうひとつの椀を手にとって自分も飲んだ。媼も温かい椀を口に運んだ。かすかな苦みと甘味に、馥郁とした香気が体を満たした。二人はほっと息をついて、目をあわせるとほほえんだ。

「粥でよろしければ召し上がりませんか」

 男は土瓶を鍋にかけかえながらたずねた。

「いえ、食べ物は持ちあわせておりますんで」

「どこまでおいでになるか知りませんが、まだまだ道は遠いでしょう。その食糧は取っておいでになるとよい」

 男は水をはった鍋に一握りの雑穀と山菜や茸をきざみ入れた。

「門にくみおきの水甕があります。粥の煮える間に、手なとおすすぎなされては」

 媼は庵を出ると、脚絆をはずして手足をすすいだ。故郷の山をおりてから、このようにくつろいだことは初めてだった。この男には不思議と人を惹きつける力があった。媼がもどると粥はもう煮えていた。

 ふたりは向き合って静かに粥を食べた。

「たいそうご雑作をおかけしました」

 媼が頭をさげると、男は手をふって遮った。

「なにほどのこともございません。わたしとても旅の者です」

「この国の方ではあられませんので?」

 媼が少し驚いた顔をすると、男は静かに微笑んだ。

「あなたも、青蓮華の方ではありますまい。わたしはここより南の迦毘羅かびら国の者。戦がおさまってからこのあたりに参りました。もうその時分から、このあたりには青蓮華人はひとりも見かけませぬよ」

「迦毘羅国とは、またはるか南、黛嶺たいれいのむこうの国と聞いております。われらはてっきり、物語の中の国とばかり思いこんでおりました」

 媼は男の勧めるままに藁筵わらむしろに横になった。炭を埋めた炉辺は暖かかった。草葺きの屋根の隙間より、月の光がさしこんで、媼の顔を照らした。夜半の風がわたるのを聞きながら、媼はくらがりの中で目をあけていた。さらさらと聞きなれない葉ずれの音がした。静かに優しいその音はいつまでも鳴り止まず、媼はつい半身を起して耳を傾けた。埋もれ火の向こうに座っていた男が声をかけた。

「竹の音です。わたしの生国より持ってきて、この裏手に植えました。竹はこの国には根付かぬようで、あちこち植えましたが、ここだけしか残りませんでした」

「起こしてしまってすみません」

 媼が小さくなって謝った。

「眠れないご様子。夜語りでもいたしましょうか」

 男は炉の火をかきたてた。

「青蓮華の戦の話を聞いたとき、わたしは学問僧でした。ご存じかどうか、迦毘羅国では仏陀のみ教えが国教です。大伽藍寺の経堂にこもって、経典を学ぶのが学問僧の本分でした」

 男は苦笑をうかべた。

「その時分のわたしは、おこがましくも学問僧として名を成しかけておりました。同輩の中からぬきんでた者と評価され、ゆくゆくは僧正の位も夢ではない、と言われておりました。ですが、経典を学べば学ぶほど、迷いが出てまいったのです。もとより、粗衣粗食は仏徒のならい。だがそれはすべて修行であって、本物の飢えや寒さではないのです」

 男は手に取った粗朶を折ると、炉の火にくべた。媼は静かに男の語る声を聞いた。

「自分で植えもせぬ穀物を食べ、織りもせぬ衣をまとって、手を汚さず額に汗することもなく、いかに貴いみ教えとはいえ、ただ経典の文字の上でのみ学んだことを、真理として衆生に語り聞かせる。それこそ増上慢ぞうじょうまんとは言えますまいか。仏陀がその御身をもて悟り得たことを、経典の字句を左右して是非を論じる。そら恐ろしいとは思いませんか」

「われらには難しいことはわかりませんが、お苦しかったのでございますな」

 男は何度もうなずいた。

「わたしはとうとう寺を出て修行者の群れに身を投じました。大伽藍寺の僧侶とはちがい、修行者は小乗を実践によって学ぶもの。現世を捨てることが悟りへの道。修行者にとっては僧綱に守られた大伽藍寺の僧侶の身分が、すでに現世でありました。襤褸らんるをまとい、はだしで、身を清めず、あれば食しなければ食べず。苦行を重ねて、捨てて、捨てて、捨て果てた末にその命までも土くれのごとく投げ捨ててしまう。でも、そのありようのどこに救いがあるのでしょうか。わたしは修行者にもなりきれませんでした」

 媼はただ相づちを打つばかり。

「経典のみ教えの中に『捨身飼虎』というものがあります。子を養う飢えた母虎に、仏陀の前生がその肉体を餌として投じるというみ教えです。その利他行こそが菩提薩埵ぼだいさったの行道とされています。ですが、骨と皮ばかりの人間が身を捨てても、虎の餌には足りますまい。与えるのには与えるべき何ものかを持たねば、他を利することにもならぬ道理です。ただ空しく捨てるばかりの修行は、我欲の満足をのみもたらすにすぎぬではありますまいか。修行者の群れからもはぐれでて、わたしはあてもなくさまよう身となりました」

 男の暗いまなざしがゆるんで、月の光を見上げる様子だった。

「この地に流れてきて、焼け落ちた村落を見、荒れた畑を見、地に倒れ伏した野ざらしの屍を見たときに、わたしは自分の悟りを求める前に、人としてなすべきことが、今目の前にあるのだとわかりました。おそらく青蓮華人でありましょう。野に打ち捨てられた屍を、一体一体抱き起して洗い清め、土に埋めて卒塔婆を手向け、ひたすらに祈ることが、わたしの仕事となりました。一年ばかりもかかりましたでしょうか。このごろやっと、このあたりの人々を葬りおえることができたようです」

 男の顔には内側から静かな光がさしているようだった。またしばらく、竹の鳴る音が続いた。

「これはとんだ若気の恥をお聞かせしました。よろしければ、そちらさまも、いずこへ行かれる旅かお聞かせくださいませんか。差支えがあれば、無理にとは申しません。が、しかし、見知らぬ人に話すことで楽になる、ということもございますよ」

 男はにっこり媼に問いかけた。媼はしばらくためらっていたが、重い口を開いた。

「われらは、玄象の国のものでござります。ひとり息子の願いをかなえに、青蓮華国の都までまいりますので」

「玄象は戦勝国ではありましょうが、女性にょしょうの身でひとり旅をなさるのは、いささか危険ではございませんか」

 媼はゆるく首を振った。

「いえもう、われらにはこの願いのほかには何も残ってはおりませんで、よろしいのです」

「仔細あるご様子。まだ夜明けには間があります。お話しになってください」

 男の促しに媼はかすかにうなずいて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「青蓮華の都、華厳府と申しますやら、その北の門の近くに梅里という村がございましょうか」

「北門といえば、文殊門ですね。ああ、あの凄絶な攻防のあった門。たしか梅里という村はありましたな」

「その梅里のうちのとある家に、息子の伝言を届けにゆくのでございます。井戸の傍らにみごとな楊柳の木がある家だそうで」

「息子さんがご自分で来られぬわけがあるのですね」

 媼はうなずくと、その日焼けした頬に涙がつたった。

「玄象国は山国で、貧しい国でございます。われらの住まいはなかでもひときわ北のかた、桑山と申すところで。五年ほど前の山崩れでつれあいを亡くしまして、ひとり息子の狗彦いぬひこが一人前になることばかりを頼みに、暮らしておりました」

「お国は寒い土地柄なのでしょうな」

「はい、畑地も少なく、しかも山畑で穀物は取れにくい。冬は一面の雪でございます。山の者はみな獣を狩り、木を伐りして暮らしておりますので」

 媼は続けた。

「にわかに戦の触れがまいりまして、狗彦はお国のため兵となって出征して行きました。この戦は初めから勝ちと決まっている。決して戦死などするようなことはない。と、触れ役のお役人さまがおっしゃるもんで、泣く泣く出したんでござります。なにせ、狗彦は体は大きくともおとなしい子で、とんと争いごとなぞできぬ子でござりましたので」

「そうですか。玄象では最初から勝ち戦と」

「戦は勝ちと知らせがまいりました。いっしょに出征した村の男衆もぼつぼつと戻ってまいるのに、狗彦はなかなか帰って来ません。もしや万一にも怪我でもしたか、まさか討死にでもあるまいと、毎日山神さまにお灯明をあげて祈っておりました。半年もたったころ、息子はやっと戻ってまいりました。髪はぼうぼう、ぼろぼろの着物を着て、やせこけた息子は片足なくして帰って来たんでございます」

 男はなぐさめ顔で大きくうなずいた。媼はためいきをつくと袖で頬をぬぐった。

「おとなしくて気持ちの優しい子でしたのに、息子はすっかり人が変わってしまっておりました。片足では山の仕事はできません。山畑に水を上げるのも、木を伐っておろすこともできません。それでも、生きて戻ってくれただけで、われらにはよかったのでございました。なに、息子とふたりぐらい、山繭蛾の糸をとって紡げば何とでも食べてゆかれます。あとは嫁をもろうて孫の顔を見せてくれれば、十分な幸せなので。お国のためになくした足だで、嫁は来手がないわけでもなかったです。でも、狗彦はうんとは言いませなんだ。荒れすさんだ目をして、山の向こうをにらめてばかりおりました」

 媼は言葉を継いだ。合間に竹の鳴る音が聞こえた。

「戦場でなんぞあったんだろう。足をなくしたことを悔やんでいるのだろうと、われらは何も聞かなんだです。夜ふと目がさめると、隣で息子が泣いている声が何度もしました。時がたてば気持ちも落ち着くだろうと、われらはただ待っておりました。ですが、息子にはその時間がありませなんだ。なくした足の手当が悪かったのか、傷口が固まらずだんだん腐れてまいったので。息子は寝たきりになりました」

 媼は着物の胸元を両手でぎゅっと握った。そこに痛みのもとがあるかのようだった。男は黙って耳をかたむけた。

「とうとうこの春、われらにも狗彦がまもなく山神さまのもとに召されることがわかりました。あれほど荒れた色をしていた息子の目が、昔のように静かになってきたからでございます。『おっかさま、堪忍してくれろ』狗彦がぽつりと申しました。『嫁をもらって孫の顔見せよと言うたなあ。俺にはできんかった。足がこんなでなくても、できん訳があったんじゃ』息子はとうとう話してくれる気になったんでございます」

 媼は顔をあげて男と目をあわせた。

「他国の方もよくご存じのことでしょう。文殊門の戦は騙し討ち。玄象国にとっては青蓮華は先のお后さまのご実家。もとより味方するはずの遠征が、火竜国の甘言に誑かされての寝返り。文殊門の前に布陣するまで隠密であったそうにございます。われらが王さまのことを悪しく申したくはありませんが、あとになって聞けば聞くほど、寝覚めの悪い戦でございました」

 媼は一気に言葉を続けた。その声は苦々しく響いた。

「息子は命じられて、ほかの何人かと、その文殊門の近くの村に食糧を集めに参ったそうで。それがその梅里という村です。明ければ総攻撃という前の夜、村に押し入り村の衆を縄目にかけて、食糧の隠し所を責め問うたそうでございます。井戸に楊柳のある家に押し入ると誰もおらず、息子は水を飲もうとして井戸の釣瓶に手をかけました。井戸の中には若い娘が綱にすがって隠れていたのでございました。娘は必至のまなざしで息子に訴えたそうです。でも、息子が思わず声を上げたためその娘は見つかってしまったのです。『俺は人でなしになってしもうた。俺はもう人なみの幸せなんぞ望んではならんのじゃ。おっかさまの子として、顔向けできぬ男になってしもうた』息子はそう申しました」

 男は話の流れがおぼろげに見えて、痛ましげに媼をながめた。

「女のわれらにはわからぬことながら、戦場という所には魔物が棲むと申しますやら。狗彦は仲間といっしょに、その娘を手籠めにしてしまったと申すのです。息子の足は文殊門の戦でなくしたそうでございますが、心はその前に失ってしまったんでございます。そのあとその娘がどうなったのか、狗彦にはわからないそうでございます。息子はそれだけ話すのにまるひと晩かかりました。『俺は詫びをせねばならぬ。それができんと山神さまの元には上がれぬ。死んだおとっさまにどの面さげて会われよう』息子はやせた手で頭を胸をかきむしって泣きました。その娘さんには悪いが、われらは狗彦が哀れじゃった。これほど苦しんだのだもの、もうよいと思ったのでございます。ですが、狗彦は首を振りました。『おっかさま、すまない。すまないが、俺のかわりにあの娘に詫びてくれ』そう申すのでございます。われらが承知すると、息子はやっと安堵の色を浮かべ、安らかな顔になりました。それからはもう、先に逝くのを許してくれろというばかり。『よしよし。もう何も気にかけずとも、おっかがちゃんとしてやるよ。狗彦はよい子じゃったで。おっかもおっとも自慢の子じゃったでなあ』そう言ってやりました。息子は遊び疲れた子どものように、静かに眠るように息をひきとりました」

「それはよいことを言っておあげなされた」

 男がうなずくと、媼は懐より古い守袋を取り出した。

「山には墓を掘る土地もありませんで、人が死ねばみな焼いて、骨灰は山に撒いてしまいます。ただひと握り、狗彦も詫びたかろうとここに持ってまいりました」

 胸につかえていたものをすっかり吐き出して、媼は安らかな眠りについた。目がさめると、男は朝餉の支度をすませていた。

 つつましい朝餉を取ってから、媼は庵の中を掃除した。せめてもの礼の気持ちだった。もっとも、簡素な庵では掃除もすぐに終わってしまった。

「何から何まで、たいそうお世話になりました」

「わたしこそ、久しぶりに人と話ができて、楽しうございましたよ。この道をまっすぐたどれば、二日ほどで文殊門が見えてまいります。梅里はすぐその門外の村ですよ。道中堅固でお過ごしください」

 媼は深々と頭をさげた。

「ご出家さま、どうかお名前を」

「世捨て人にはもう名もありませんが、昔は竜樹と申しましたなあ」

 男はそう言うと、にっこりと笑った。その笑顔にはすでに、何ものにもとらわれない無碍の境地が見て取れた。媼は黙って合掌した。



 二日歩いて、文殊門が見えた頃、媼は梅里にたどりついた。このあたりには戦の痕跡こそ残ってはいても、すでに人々も戻ってきており、日常の暮らしが営まれていた。畑を耕すもの、荷車を牽くもの。里の家々も無人のようではなかった。ここまで来て、媼はためらっていた。息子のいまわの際の願いによって、無我夢中でここまで来たものの、いざ実際に対面するとなると、相手の娘に何と申し出ればよいものか。戦での悪夢のようなできごと。若い娘の身では思い出すも忌まわしい記憶であろう。それを「詫び」という形で無理に思いださせることになるのだから。媼はゆるゆると頭をふった。ともかく、件の楊柳の井戸の家を探すことにして、梅里の中に入っていった。

 村の奥まったところに、その家はあった。息子の話のとおり、見事な楊柳が井戸の上に涼しげな陰を投げかけている。風にそよぐ枝葉はさらさらと優しくしなっている。媼はそのかたわらにためらいながら立っていた。家の入口から、洗い桶をかかえた若い娘が出てきた。娘は媼に気づくと声をかけた。

「旅のお方、なにかご用?あれ、水がほしいんですか?どうぞ、くんであげましょう」

 娘は桶を置くと、釣瓶に手をかけて水をくみあげた。井戸端においた椀にくみたての水を注いで媼に手渡した。媼はだまって頭をさげ、その水を飲んだ。よく冷えた甘い水だった。

「ごちそうさまでした。たいそうおいしいお水で」

「はい、うちの井戸の水はおいしいと、よく言われますよ」

 娘はにっこり微笑んだ。

「旅のお方、都へおいでですか。もう日が暮れます。門は日暮れには閉まってしまうんです。よかったら、今晩はうちに泊まりませんか。明日の朝門が開いてから、都に入るといいですよ」

「見ず知らずの者にそんな情をかけられては」

「なんの、うちには困るようなものもおりません。難儀は相身互い。どうか遠慮しないでくださいな」

「ありがとうございます」

 娘は媼をつれて家に入った。小さいが気持ちのよい家だと媼は思った。玄象の山の家とはかなり異なっている。娘はすすぎの水を井戸から汲んできて、媼の足を洗った。

「もったいない。自分でいたしますで」

「気にしないで。お疲れでしょう。今すぐご飯の支度をしますから、少し待ってくださいね」

 媼はしゃがみこんで足を拭く娘を見下ろした。この娘なのだろうか。だが、その少しも翳りのない顔に、媼はとまどっていた。狗彦の、あの荒れすさんだ目とはまったく違う。では、この娘ではないのだろうか。その時、奥の部屋から幼い子どもが目をこすりこすり、歩み出てきた。

「おっきしたの?ごめんね、いまご飯にするからね」

 娘は桶を片づけるために立ち上がった。幼子は上り框に腰かけた見知らぬ媼を不思議そうに見た。人見知りをするかと思い、媼はじっと動かなかった。幼子は眠たげな顔で媼のそばに歩み寄ると、膝にもたれかかってあくびをした。

「あ、これ、いけませんってば。お客さまよ」

 媼は膝にかかった幼子のぬくもりに、思わず頬をゆるめ頭をなでた。誕生すぎか、まだ二歳にはなるまい。乳の香の残るこの子どもは、娘の子であろうか。この若さで母親とは、と考えて、媼ははっと胸を突かれた。

「あんたさまの赤ちゃんで?」

「ええ、あたしの。そして青蓮華の姫宮さまのでもあるの」

「だっこしてもよいですか。われらはこの春に息子を亡くしたもので。とうとう孫を抱くこともできませなんだ」

「どうぞ、抱いてやってくださいな。息子さんはお気の毒なことでした」

 媼は幼子を膝に抱きあげて、そっと懐に抱きしめた。温かいやわらかい小さな命。幼子はうっとり指を吸いながらおとなしく抱かれていた。

「すみません、甘ったれで。あたしがあまりかまってやれないから」

「おつれあいは?」

 娘は寂しげな色をうかべてかぶりをふった。そのまま台所に入って食事の支度をする様子に、媼は幼子を抱いて見入っていた。そのうちに穀物の炊ける甘く香ばしいにおいがただよいだした。娘は手際よく支度を整えた。誘われるまま媼は板の間の卓についた。卓の上には根菜の炊き合わせに川魚の焼きものが並び、具だくさんの汁椀もついた。炊き立ての雑穀米は粟や黍よりも米が多かった。質素ながら心のこもった温かい食事。媼の暮らしていた山の生活よりもずっと豊かな食事だった。平原の国である青蓮華は小さくとも豊かな実りに恵まれているようだった。

「ごちそうさまでした。おかげで助かりました」

「いいえ、お粗末さまでした。うちはあたしとこの子の二人きりだから、遠慮なんてしないでくださいね」

「よいお子ですじゃ。お名前は?」

「蘭。名前といっしょに、この子の命も、青蓮華の姫宮さまに頂いたんです。だから、産んだのはあたしだけど、この子は姫宮さまの預かりもの。まあ、すっかり小母さんに甘えてしまって」

「なんの、かえってうれしいで。かわゆいのう」

 幼子は食事をすますといつの間にか媼の膝で寝入っていた。娘は子どもを抱き上げると、奥の部屋に連れて行って寝かしつけた。それからもどってきて、卓上の食器をかたづけると、茶を二人分淹れてきた。

「このあたりの方ではないですね。都は初めて?」

「われらは山家の住まいで、とんと田舎のものです。都へは知り人を訪ねてまいったので」

「華厳府はたいそう広いのですけど、その人の住まいはわかってますか」

 娘は薬草茶の椀を手で包みながら尋ねてきた。

「先の戦で、町並みも住んでいた人もめちゃくちゃになってしまってね。このごろは随分と落ち着いてきましたけど、ひところは人探しの人が大変困ったそうですよ。お役所へ行ってもお役人はよその者が多いから、前のことは全然わからなくなっていて。訪ね先がはっきりしないなら、いっそ王宮で聞いてもらってあげましょうか」

「あんたさまは王宮に知り合いがおありなさるんで?」

 媼は驚いて思わず大声を出した。娘は苦笑して手を振った。

「あたしは別に王宮とは関係ないけど、青蓮華の子たちの世話をしてくれる係の女官さまを知ってるの。仙歌さまっていうんです。その人から人別の係の人に聞いてもらってあげる」

 娘は囲炉裏の脇に媼の布団を敷いた。古びてはいるがきちんと繕われ、日に干されて、ふっくらと温かい綿入れの布団だった。媼はここでも青蓮華の豊かさを思い知った。貧しい玄象国では、王侯貴族だけが綿入れの布団に眠ることができるのである。

「このごろ急に夜寒くなったから、亡くなったあたしのかかさんの着物でよかったら、着替えてくださいな」

 娘の出してきたのは、合いの長着に裏付きの袖無しだった。これも古くはあってもきちんと手入れがされている。まるで村長の家の御隠居の着物のようだ、と媼は思った。見ず知らずの行きずりの旅人に、なぜこれほどの厚意をみせるのか。青蓮華人はみな心も豊かなのであろうか。あるいは、この娘が特別な気立てなのかもしれぬ。もし、この娘が狗彦の嫁で、あの子どもが孫だったなら、貧しくとも親子四人、さぞかし楽しく暮らせたことだろう。媼はふと空しい夢を描いた。媼は先ほどの幼子の顔立ちに、息子の面差しを必死で探している自分に気が付いた。目はどうか。口元は。媼は深い溜息をついた。

「小母さん、眠れませんか。旅の疲れが出たんじゃないですか。腰をさすってあげましょう。かかさんによくさすってあげたから上手ですよ」

 奥の部屋から娘が声をかけた。

「息子さんが亡くなって、気をお落としでしょうけれど、生きていればまたよいこともありましょう。訪ね人が見つからなかったら、またうちに来てください。都の宿は高いですからね」

 娘は媼の足腰をさすりながら言った。

「あんたさまのあのお子は、もしやその」

「はい。戦にはつきものの父なし子。戦の時この村を襲った兵に乱暴されてしまって。蘭がおなかにいるとわかった時、あたしは死のうと思った。両親はもういなかったし、兄さんも戦で死んで、あたしはひとりぼっちだった。でも、姫宮さまから呼び出されて王宮に行きました」

「姫宮さまとは、青蓮華の王族のお方?」

「ええ。何人もあたしのような娘たちが呼ばれていてね。みな苦しんでいた。でも姫宮さまは、この戦でたくさんの青蓮華人が亡くなってしまった。もうひとりも死なせたくない。青蓮華の女の産む子どもは、みな青蓮華人である。たとえ父親がわからなくとも、敵であろうとも、戦で親を亡くした子、戦で無体に宿った子、その子どもらに何の罪がある。子どもらはみな同じく青蓮華の子、姫宮さまのお子を預かったと思って産んでほしい。産んでなお憎いと思う気持ちが消えぬなら、王宮に捨て子にせよとおっしゃったの」

「それはまた、なんとも心の広い方じゃ」

「そうよ。あたしもそのお頼みだから、産むだけは産もうと思って。でも生まれた赤子の顔を見たら、もう手放せなくなりました。子どもを産んだ娘は、ちゃんと王宮から手伝いの方が来てくれたの。みな安心して産めたんです。あたしの名が紫苑だからと、子どもには蘭とつけてくださった。村の人もみな、蘭は姫宮さまから預かった青蓮華の子だと知っていて、優しくしてくれる。たつきのために、王宮から機織りのお仕事もいただいてくるんです。その世話をしてくださるのが女官の仙歌さま」

「さぞ、その兵を憎んでおいでのことだろう」

「あのときは確かにそうだったけど、今はどうかしら。男は獣になるのだとわかったから、もうこりごりだけど。蘭を育てるのに精いっぱいで、思い出すこともなくなったかも」

 娘の苦笑する声が聞こえた。媼は衾の上に起き直ると、娘に向き合って膝をそろえた。枕元の手荷物の中から、守袋を取り出し、膝の前においた。娘は改まった様子の媼をいぶかしげに見つめた。媼は両手をついて深々と頭をさげた。

「まあ、突然なにを」

「われらは玄象国の人間です。この村にご迷惑をかけた軍は玄象のもの。あんたさまに重い罪を犯した者どもです。この程度のことで、今さらお気がすむとは思いませんが、せめてわれらを打ち罵ってくだされ。足蹴になりとしてくだされ」

「小母さん、あたしはなにも小母さんを責めようなんて思いませんよ。いくら玄象の人だとて」

「それが、それが、そうしていただかねばならん訳がありますので」

 娘は媼を抱き起こそうとして手を肩にかけた。媼はその手を取って額に押し当てた。

「われらの息子が、あんたさまに、乱暴を……」

 娘は驚愕の表情でその手を引き抜いた。媼はいっそう小さく体を縮めた。

「息子は戦がもとの怪我で先日亡くなりました。最後まであんたさまに詫びたいと願っておりました。おのれではもうできないとわかると、われらに代わりに詫びてくれろと言い置きました。罪を償いもせず、身勝手なと思うでしょうが、息子はこの通り骨灰となってしまいましたで、どうか、息子の詫びを納めてくだされ。われらが代わりに罪を償わせてくだされ」

 娘は両手で口を押えた。媼は床に頭をすりつけたまま、ぼろぼろ涙を流した。しばらく時がたった。

「手をあげて、玄象のお方」

 娘は静かに声をかけた。

「あたしはもう忘れました。その事は酷いけれど、蘭を授かったことは逆にありがたいと思うようになりました。小母さん、子どもってそういうものじゃないですか。小母さんにとっても、大切な息子さんだったんでしょう。戦には酷いことが多い。でも、そのひとつをあとで謝りに来るなんて話は聞いたこともありません。息子さんは本当は心の優しい人だったんですよ。そして小母さんも」

 媼は顔をあげて娘を見つめた。

「息子が亡くなって、われらもひとりきりになりました。もうこの思いひとつかなえば、あとは野垂れ死にをしようとかまわんと思っておりました。息子の罪の償いになるなら、責め殺されても本望と思ってきました」

 媼は目を奥の間の方にむけた。そこには幼子が眠っているはずだ。

「それが、蘭ちゃんの顔を見たら欲が出てきてしもうたので。万一、蘭ちゃんが息子の胤であったらと思うと、どうしてもそばにいたいと思う気持ちが出てきました。あんたさまには不愉快な、目障りな老婆ではありましょうが、この村に置いてはもらえないでしょうか。山の者じゃで、足腰は丈夫です。野良仕事も力仕事もできますで」

 娘は思いつめた顔の媼をながめ、ふっと溜息をついた。

「小母さん、相手は何人もいたんですよ。顔も見た覚えもない。息子さんがその中にいたとして、蘭の父親とはとても」

「われらは山に帰ってももう何もない。誰もおらぬ。あんたさまは、生きていればよいこともある、と言ってくだされた。われらには蘭ちゃんがその生きるあてじゃ。どうかわれらをここに置いてくだされ」

「息子さんの名前は?」

「狗彦と申しました」

 娘は静かに立ち上がると、奥の部屋から幼子を抱いて戻ってきた。抱かれてもぐっすり眠ったままの幼子を媼の腕に手渡した。媼は無言で幼子を抱きしめた。娘は幼子の顔を覗き込むと、媼に聞かせるように話しかけた。

「蘭や、よかったね。蘭におばばさまが来てくださったよ。蘭のととさまは狗彦という名前だと教えにきてくださったよ」

 媼は胸をつかれて娘の顔を見上げた。

「ではここにいてもよいと」

 娘はにっこりほほえんで軽く頭をさげた。

「ふつつか者でございますが、嫁にしてください。親子孫三人で仲良く暮らしましょう」


















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