最終話「ひよごっぐの精霊」
とあるスペースコロニーの一角にひよごっぐのようなものを売っているさらに一角があり、そこには今日もわずかな人だかりができていた。
コロニーの人工の空は、その日も何事もなく青かった。
「ほら、ミナ。焼きたてよ」
母親が白い紙袋を差し出すと、小さな手がおそるおそる受け取った。袋の口からほわりとレモンの香りが漏れる。
「あっちい」
隣に立っていた少年が、自分のものをもう半分かじりながら言った。口の端に粉砂糖がついている。
「知ってる」
少女は言い返したが、それでも急いで一口かじった。口の中に、やわらかい生地と、じんわりと広がる甘さと酸っぱさが混ざり合う。思ったより熱くはなかった。
母親が屈みこんで言った。
「おいしい?」
少女はこくりとうなずいた。
「おいしい」
「よかった」
母親は笑った。特別な笑い方ではなく、ただそこにある笑顔だった。
しばらくして、少年がもうひとかけを口に入れながら言った。
「これ、なんで鳥の形してんだ」
「ひよこと、ゴッグで、ひよごっぐ」
「ゴッグって何だ」
「水の中を泳ぐ大きいやつ」
「……なんでそれとひよこが一緒になる」
「わからない」
二人はしばらく無言でそれを食べた。サクッとした音と、包み紙のカサカサという音だけが響く。
母親は少し離れたところでそれを見ていた。
ずいぶん後になって、ミナはそのことを何度か思い出した。
思い出すのはいつも、決まって、困っているときだった。
深度91メートルの機体の中で、計器の光だけが頼りの夜に、ふと鼻の奥にレモンの香りがするような気がして、ミナは一瞬だけ目を閉じた。
気のせいだった。
あるいは、気のせいではなかったのかもしれない。
機体の隅に置いてあったひよごっぐが、気づくと少しだけ位置を変えていたが、ミナはその理由について深く考えないようにした。
深く考えたら、泣いてしまいそうだったから。
ハルがひよごっぐを見るたびにわずかに眉を寄せるのを、ミナは気づいていた。
「なんか、さっきと置き場所が違う気がするんだが」
「そう?」
「……お前が動かしたんじゃないのか」
「動かしてない」
「じゃあ俺が動かしたんだな」
「そうかもね」
ハルはしばらく黙ってひよごっぐを見た。ひよごっぐは何も言わなかった。当然だった。
「……食うか」
「まだ残しておきたい」
「そうか」
それだけで会話は終わった。
ハルは背を向けて計器の確認に戻ったが、ミナはもう少しだけひよごっぐを見ていた。
精霊なんていない、とミナは思った。
ただの焼き菓子だ。レモン餡が入っていて、ちょっと塩が効いていて、お母さんがよく買ってきてくれた、それだけのものだ。
ただの焼き菓子が、人知れず動いたりするはずがない。
ミナはそう思った。
そしてそれきり、ひよごっぐの方を見るのをやめた。
七日目の夜明け前、ミナは夢を見た。
夢の中でも、やはりレモンの香りがした。
誰かの声が、遠くの方から聞こえた気がした。内容は分からなかった。ただ、聞いたことのある声だと思った。
目が覚めると、ハルが計器の前で眠っていた。
機体は静かだった。
ひよごっぐは、ミナの手の届く場所にあった。
「記録は死者の代わりに語る」
MINA KAWASHIMA / LOG END




