【1-2】存在しない階
「やっぱり、無いじゃない……!」
翌朝、私はいつもより少し早く家を出た。
目的は一つ。昨日、あの仮面の男に押しつけられた“お使い”を片づけるため。
あの不気味な声が頭から離れなくて、昨夜はほとんど眠れなかった。
恐怖って、一定量を超えると怒りに変わるのね。今朝の私は、もう怯えるより先に、ただ腹が立っていた。
セントラルビルに着くなり、エントランス中央の四基並んだエレベーターの、一番左に乗り込む。
そして行き先ボタンを、穴が開くほど睨みつけた。
――セントラル・ホテル6006号室へ、それを届けてほしい。
確かに、そう言ったのよ。
でも。
セントラルビルに、60階は存在しない。
念のため、四基すべてのエレベーターを確認した。
けれど、どれにも「60」の数字はない。
私は小さく舌打ちして、結局いつも通りオフィスのある45階で降りた。
けれど、どうして60階だけ無いのかしら。
「無い」という事実は、入社前の説明で聞いた気がする。
でも、それがなぜなのかまでは、考えたこともなかった。
……そうだわ、聞けばいいのよ。
私は上司のフタバさんのデスクへ向かった。
彼は気さくで話しやすいし、俗っぽい噂話が嫌いではないタイプ。こういう話題にはちょうどいいわ。
「フタバさん、少しお時間よろしいですか?」
「どうしたんだい? 仕事で困ったか?」
「いえ、業務とは直接関係ないのですが……セントラルビルの60階についてお聞きしたくて」
「60階? 急にどうして」
「今朝、エレベーターのボタンを眺めていたら、そこだけ数字が無いのが気になりまして」
フタバさんは「ああ」と、妙に含みのある声を出した。
「……あれはな、昔はあったみたいなんだよ」
このビルが竣工した当初、60階は実在した。
セントラル・ホテルの客室フロアとして、実際に数年間使われていたらしい。
けれど、ある日。
60階の宿泊客が、忽然と姿を消した。
荷物は部屋に置いたまま。
防犯カメラにも、出ていく姿は映っていない。
警察が入り、大きな騒ぎになったが、結局行方は分からずじまい。
そして――同じことが、五度も起きた。
共通点は二つ。
一つ、消えるのは必ず宿泊客だけ。
一つ、すべて60階で起きていること。
「その頃は“人喰いホテル”なんて噂も立ったらしい」
フタバさんは肩をすくめる。
「評判が落ちるのを恐れてな。ビルとホテル側が60階を丸ごと閉鎖した。エレベーターのボタンも撤去。階段も、その階だけ物理的に行けない構造にしたそうだ」
「……では、今は?」
「空間自体は、59階と61階の間にあるはずさ。でも到達手段が無い。事実上、存在しない階だな」
私は、くらりと目眩がした。
昨日の男は、何と言った?
――6006号室。
聞き間違えた?
それとも、わざと?
礼を言って自席へ戻ったものの、その日はまるで仕事が手につかなかった。
60階。失踪。存在しないフロア。
まるで、私が拾ってしまった“あれ”みたいじゃない。
帰り道、私は裏道を避け、大通りを通った。
人通りの多い場所なら、少しは安心できると思ったのだ。
「はあ……もう、嫌になっちゃう」
自室に戻るなり、ベッドへ倒れ込む。
手のひらの上で、赤い球体をころころ転がした。
男はこれを“キー”と呼んだ。
鍵?
どこにも差し込む穴なんて無いのに。
いっそ捨ててしまおうかしら。
そうすれば、すべて終わるのでは。
――そのとき。
ピンポーン。
インターフォンが鳴った。
こんな時間に?
胸がひやりと冷える。
私はそっとドアスコープを覗いた。
……誰もいない。
悪戯? それとも。
念のためドアを開けると、一枚の紙がふわりと宙を舞って床に落ちた。
どうやら、ドアの隙間に挟まっていたらしい。
拾い上げる。
そこには、たった一行。
『エレベータはもう一つある』
筆跡も、差出人も分からない。
けれど私は、一目で理解した。
あの男だ。
だめだわ。
これを届けるまで、私は解放されない。
今まで味わったことのない恐怖が、背中を這い上がる。
急いでチェーンをかけ、ベッドに潜り込んだ。
この夜も、眠りは浅かった。
翌朝。
私は再び早く家を出て、セントラルビルの中を歩き回っていた。
エレベーターがもう一つ?
そんな話、聞いたことがない。
一般利用者が使えるのは、1階中央の四基のみ。最上階112階まで伸びる、あの目立つ箱だけ。
途方に暮れ、私は2階のビル管理事務所を訪ねた。
「あの、少しお伺いしたいのですが。このビルには中央の四基以外にエレベーターはありますか?」
「急にどうしたの?」
「朝夕は特に混みますでしょう? 他にもあるのかと思いまして」
「一般の人が使えるのは、あの四つだけだね」
「“一般の人が”ということは……?」
「作業用ならあるよ。点検や搬入用のエレベーターだ」
「どちらに?」
「49階と50階の間に“M50”ってフロアがあってね。そこにある。ただし関係者以外立ち入り禁止だよ」
M50。
そんな階、初耳だ。
礼を言って事務所を出たあとも、その言葉が頭から離れなかった。
入れない?
でも、確かめるくらいなら。
昼休み。
私は45階から階段で49階まで上がった。
さらに上へ。
そこには、他の階には無い扉があった。
『関係者以外立ち入り禁止』
白いプレートに書かれた文字が、やけに冷たい。
どうせ鍵がかかっているでしょう。
半ば自棄になって、ドアノブに手をかける。
――ガチャリ。
あっさりと、開いた。
私はしばらく立ち尽くす。
引き返すなら、今よ。
でも。
一昨日から続く恐怖と、少しばかりの好奇心が、私の背を押した。
ほんの少し、中を見るだけ。
そう自分に言い聞かせて、私は“M50”と書かれた薄暗いフロアへ足を踏み入れた。




