【1-1】拾ってしまったもの
「向かいの店が火事だって!?」
「マスター大丈夫かな?」
エレベーターの中は、私と同じく様子を見に行こうという人たちでぎゅうぎゅうでした。
それにしても、どうして火事なんて起きたのかしら。
最近はガスなんてあまり使わないって聞くし、そうそう火の手が上がるものでもないでしょうに。
……まあ、あのお店のことですもの。
古いガスコンロでも使っていたのかもしれないわ。
きっと、それが原因になったんだわ。
そんなことを考えているうちに1階へ到着。
エントランスを抜けると、すでに消防車と警察車両が何台も来ていて、あたりは騒然としていました。
消火はまだ終わっていないようで、炎は建物を噛み砕くみたいに揺れ動いている。
熱気が、ここまで届いてくる気さえした。
――さっきまで、いい気味だわ、なんて思っていたのに。
あの炎を目にした途端、胸の奥がひりついて、体が強張る。
「爆発の可能性があります! 危険ですから離れてください!」
消防士が怒鳴った次の瞬間。
ドッカーン、と耳をつんざく音。
窓ガラスが砕け散るのが見えた。
物見遊山だった野次馬たちは半分パニックになって四散する。
私も同じ。
好奇心なんてどこかへ吹き飛んで、ただ怖くなってしまった。
オフィスへ戻ろうと踵を返しかけた、そのとき。
足元に、赤くて丸いものが転がっているのに気づいた。
「まあ……なにかしら、これ」
まるで私を待っていたみたいに、ぽつんと綺麗な球体。
吸い寄せられるように手に取る。
軽そうに見えたのに、ずっしり重い。
飴細工みたいにつるりとしていて、継ぎ目もない。
中までぎっしり詰まっているような感触。
落ちているものをむやみに拾ってはいけませんよ、と母さまには口酸っぱく言われていたけれど。
あまりにも綺麗で、どうしても目が離せなくて。
――私は、それをポケットに入れてしまった。
その後は何事もなかったかのように仕事をこなした。
ときどき窓から武田屋を見下ろしたけれど、火は消え、黒く焦げた建物から白い蒸気が立ちのぼっているだけ。
私の住んでいるアパートは、電車で四十分ほどのところにありますの。
セントラルビル勤務なのに、なぜそんなに遠いのかって?
そりゃあ、私みたいな非正規雇用の下っ端に、ニュー・トウキョウ近郊の家賃が払えるわけありませんもの。
……まあ、郊外のほうが落ち着くと言えなくもないですけれど。
帰り道、私はいつも駅まで裏道を通る。
商店街のさらに奥、人通りの少ない細い道。
その日は、前方にひとりの男が立っていました。
季節外れの黒いトレンチコート。
細身で長身。
なぜだか、とても不気味。
視界に入れないようにして、そのまま通り過ぎようとしたとき。
「待ってください」
呼び止められた。
しまった、と思う。
どう見ても怪しい。
無視してしまおうかしら、と一瞬考える。
でも、この道には私しかいない。
揉めるのも面倒で、私はそっと男を一瞥した。
――ぞわり、と背筋が粟立つ。
男は、目元だけを覆う象牙色の仮面をつけていた。
表情がわからない。
「何かご用でしょうか?」
できるだけ刺激しないよう、丁寧に応じる。
「キーを返してくれないか」
キー?
何のことかしら。
誰かと勘違いしているのでは。
「キーとは何でしょう? あなたのような方から何かお借りした覚えはありませんけれど」
「形は分からない。だが今日、何か拾ったり、もらったりしなかったか?」
その言葉で、昼間拾った赤い球体を思い出す。
「……もしかして、このボールのこと?」
私は鞄から取り出し、差し出した。
男は受け取ろうとして――
ぼとり。
落とした。
もう一度拾おうとする。
けれど、なぜか持ち上がらない。
私はからかわれているのかと思い、仕方なく拾い上げて差し出す。
「持てない……。もう、持ち主が確定してしまったか」
抑揚のない声が、妙に冷たい。
「これはあなたが持っていてください。……それと、少しお願いがある」
心底面倒だと思った。
けれど、静かなのに鬼気迫る雰囲気に、押し返す勇気が出ない。
「ど、どんなお願いですの?」
「セントラル・ホテル6006号室へ、それを届けてほしい」
セントラル・ホテル。
セントラルビルの50階から90階を占める高級ホテル。
「まあ、職場がセントラルビルですから、ついでに寄れますわ」
一刻も早くこの場を離れたい一心だった。
軽いおつかいでしょうし、と自分に言い聞かせて即答する。
「助かる」
男はそれだけ言うと、私とは逆方向へすたすた歩き去っていった。
ほっと胸を撫で下ろす。
……あれ?
そういえば、セントラルビルに60階なんて――
「あの、すみません。60階っておっしゃいました?」
振り返る。
けれど。
「……どこへ行ったのかしら?」
そこにはもう、誰の姿もなかった。




