50年後
鏡の中にいるのは、五十年前から何一つ変わることのない、完成された「私」だった。
魔女――いまだにその名前さえ、私は知らない。
私の心臓の奥には、変わらず冷たく、粘り気のある血液が流れている。それはもはや私の身体の一部でありながら、私をこの世界の理から切り離し続ける、異質なものだった。
月日は残酷なまでに平等に、私以外のすべてを押し流していった。
かつてAランク冒険者として名を馳せ、共に死線を潜り抜けた仲間たちも、今やそれぞれの終着駅を迎えようとしている。
私はこの数年、一人で旅を続けていた。
目的はない。ただ、彼らと語り合った景色をなぞり、その様子を年に一度、彼らに報告することだけが、私の枯れかけた心を繋ぎ止める唯一の「人生の楽しみ」になっていた。
そんなある日、私は一通の手紙を受け取った。
差出人は、リーザの夫だった。
『リーザが、もう長くない。最後に、あなたに会いたがっている』
その短い一文を読んだ瞬間、私の心臓の奥が、ひどく冷たくうずいた。
私はすぐに馬を走らせた。風を切る感覚も、馬の蹄の音も、今の私にはどこか遠い世界の出来事のように思えた。
リーザの家に着いたとき、そこにはかつての鋭い眼光を失い、ベッドに横たわる一人の老女がいた。
小柄な体はさらに小さく縮こまり、その肌は枯れた木の皮のように乾いている。
「……ああ、来たのね。アルス」
掠れた声。けれど、私を呼ぶその響きだけは、五十年前の少女だった頃の面影を残していた。
私は彼女の枕元に膝をつき、その痩せ細った手をそっと握った。私の手は、あの日彼女の手を握ったときと同じように滑らかで、熱を帯びている。そのことが、今の私には何よりも申し訳なく、残酷なことに思えた。
「……ごめんね、リーザ。来るのが遅くなってしまったかな」
私は努めて穏やかに、彼女の感情に寄り添うように相槌を打つ。
彼女の夫は、部屋の隅で静かに立っていた。彼は私と同じくらいの年齢だろうが外見はまるで違う。当たり前だ、実際には七十歳を越えているのだから。彼の瞳には、妻を失おうとする深い悲しみと、そして私に対する複雑な色が混ざっていた。
「いいのよ。……あなたは、本当に、少しも変わらないわね。まるで、私だけが勝手に、遠いところへ行ってしまったみたい」
リーザは苦笑し、弱々しく私の手を握り返した。
彼女はかつて、私に告白した。一夜を共にし、その後で別の男と結婚することを選んだ。
彼女の人生において、夫は最高のパートナーだったはずだ。けれど、彼女の心の一部には、常に私という毒が回り続けていたことを、私は知っていた。
私と一緒だったら、もしかしたら老いることもなく、死ぬこともなく、ずっとこの輝かしい全盛期のままいられたのではないか。そんな馬鹿げた幻想が、頭によぎった。そんなわけないのに…
「……ねえ、アルス。最後に、我儘を言ってもいい?」
彼女の呼吸が、次第に浅くなっていく。
私はただ、頷いた。今の私にできることは、それしかなかった。
「もし、……もしも、あなたと同じ屋根の下で、一緒に、暮らせたらな……。そんな馬鹿なこと、ずっと、ずっと考えていたのよ」
その言葉は、消え入りそうな呟きだった。
けれど、静まり返った部屋の中で、それは驚くほど明瞭に、私の耳ではなく頭蓋の奥に響いた。
それは彼女の生涯をかけた、切なる願いであり、同時に果たされることのなかった呪詛でもあった。
彼女の視線の先には、私がいた。若い姿のまま、欠けることのない姿をした私が。
部屋の隅にいた夫が、僅かに肩を震わせたのを私は視界の端に捉えた。彼は知っていたのだ。妻の心の最奥に、自分ではなく、死ぬことのないかつての友人が居座り続けていたことを。
彼は悔しかっただろう。自分は彼女と共に老い、病を分かち合い、現実に彼女を支えてきた。それなのに、最後の瞬間に彼女が求めたのは、現実を共にする自分ではなく、時間の止まった幻のような男だったのだから。こんな悲惨な話はない。
けれど、彼は何も言わなかった。ただ、唇を噛み締め、その理不尽な事実を飲み込んでいた。
「……そうだね。きっと、それは素敵な日々だっただろうね、リーザ」
私は嘘を吐いた。
私と共にいれば、彼女は自分だけが枯れていく恐怖に、今よりもずっと激しく苛まれたはずだ。私の変わらない肌を見るたびに、自らの死を突きつけられ、狂ってしまったかもしれない。
けれど、今はそんな正論は何の意味も持たない。
リーザは私の嘘に満足したのか、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
そして、握っていた手の力が、ふっと抜けた。
彼女の時間は、そこで止まった。
私とは違い、もう二度と動き出すことのない、本当の意味での停止。
私はしばらくの間、彼女の手を離すことができなかった。
悲しい。その感情は理解できている。けれど、私の肉体は、涙の一粒さえも流れない。まるでそれは生存には無駄なこと、として拒絶しているかのように、どこまでも健康で、完璧だった。
葬儀は、しんみりとした雰囲気で行われた。そこには、かつての仲間であるゴウとカイルも参列していた。その他にも大量の参列者がいた。
ゴウは杖を突き、何度も涙を拭っていた。彼の自慢だった筋肉は落ち、背中は丸くなっている。
カイルはさらに酷かった。もともと痩せ型だった体は、今や骨と皮ばかりになり、顔色も青白い。
「……次は、俺たちの番だな」
ゴウが、墓標を見つめながらぽつりと呟いた。
私は答える言葉を持たなかった。彼らにとって、死は順番待ちの列に並ぶような、自然な、けれど避けられないものだ。
私だけが、その列から弾き出され、いつまでも待合室で独り、取り残されている。
葬儀が終わった後、私はカイルに声をかけようとした。
旅先で見つけた、彼が好きそうな古い魔導書の写本を渡したかったのだ。
けれど、彼は私の方を見ようとはせず、家族に支えられながら足早に去っていった。
それから数日後のことだ。
私は、ゴウの家を訪ねていた。彼に、旅の話を聞かせるために。
それが、私に残された唯一の「人間らしさ」を保つ儀式だったからだ。
「……ああ、アルスか。ちょうどよかった」
玄関先に現れたゴウの顔は、かつてないほど沈んでいた。
「カイルが、倒れた。……流行病だそうだ。あいつの体はもう、魔法で持たせるのも限界だったらしい」
ゴウのその言葉を聞いた瞬間、私の視界が、一瞬だけ白く塗り潰された。
「……カイルが?」
「ああ。……今、あいつの家族が看病しているが、医者はもう、長くないと言っている」
リーザがいなくなり、今度はカイルまでもが。
私の中の砂時計は、最初から砂が入っていないかのように空っぽだ。
けれど、彼らの砂は、今まさに最後の一粒が落ちようとしている。
「……行こう、ゴウ。カイルのところへ」
私は自分の声が、自分のものではないように冷たく、響くのを感じていた。
魔女。
君が私に与えたこの祝福は、世界で一番静かな拷問だったよ。私は、震える足取りで歩き出したゴウの隣を、揺らぎ一つない完璧な足取りで歩き始めた。
私はまだ、永遠という時間の本当の絶望を、何も分かっていなかったのだ。
あとがき
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次回、第8話は「60年後」の物語を予定しています。




