表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/6

30年後 1/2

 三十年という歳月は、一人の人間を青年から壮年へと変え、かつての情熱を落ち着いた円熟味へと昇華させるには十分すぎる時間だ。


 だが、鏡の中の私は、相変わらずあの夜の森で魔女に胸をなぞられた時の、若い姿のまま立ち止まっていた。


 魔女、彼女の名前すら、私はまだ知らない。


 心臓の奥に澱のように溜まった「時間そのものが液状化したような感覚」だけが、私が人間から切り離された存在であることを、刻一刻と、そして静かに告げている。


 私たち四人のパーティーは、ついに冒険者の頂の一つである「Aランク」へと上り詰めていた。


 かつて駆け出しだった頃に広場で誓い合った夢は、今や現実のものとなり、街の住人たちで私らの名前を知らぬ者はいない。しかし、その輝かしい栄光の裏で、私が抱える孤独の影は、かつてないほど濃く、深くなっていた。


「……ふぅ。アルス、お前は本当に化け物だな。これだけの討伐を終えて、呼吸一つ乱してないなんて」


 隣で大斧を杖代わりにし、大きく肩で息をついているのはゴウだ。

 四十代半ばとなった彼の顔には、戦いと年月が深く刻まれている。目尻の皺は笑うたびに深くなり、かつては自慢だった豊かな髪も、近頃は少し寂しくなってきたとこぼしている。


「ゴウこそ。あの一撃、全盛期より鋭かったじゃないか。頼もしかったよ」


 私はいつものように、相手の感情に寄り添うような相槌を打つ。だが、その言葉がどこか空虚に響くのを、自分でも抑えられなかった。


「はは、お世辞はよせ。膝にくるんだよ、雨の日はな。……不老不死ってのは、やっぱりいいな。お前のことを見てると、たまに、本当に羨ましくなるぜ」


 ゴウは冗談めかして笑う。それは何度も繰り返された彼なりの親愛の情なのだが、私の中には、冷たい血液以外の何かが流れるような、強烈な場違い感が広がっていく。


 彼は家に帰れば、温かい料理と愛する妻が待っている。一方で私は、誰とも人生を共有せず、ただ停滞し続ける。彼が老いていく姿を見守ることしかできない私の、どこが羨ましいというのだろう。


 

 時の流れというものは、残酷なほどに平等で、そして私にとってはひどく一方的なものだった。


 故郷の村。かつて父の大きな背中を追いかけ、母の作るスープの匂いに包まれていたあの家は、今や老いと死の静寂に支配されていた。  


 私は、父と母、二人の最期に立ち会うことができた。冒険者としての名声も、Aランクという称号も、この瞬間だけは何の役にも立たなかった。

 

 まず先に旅立ったのは、父だった。  


 私にこの大柄な体格を譲ってくれた父の体は、病と老いによって驚くほど小さくなっていた。

 かつて私を軽々と抱え上げたあのたくましい腕は、今は枯れ木のようになり、普段のような雑魚寝ではなく、病院で綺麗なベッドに寝かされていた。


「……アルス。お前は……本当に、変わらないな」

 父の掠れた声が、静かな寝室に響いた。その瞳には、二十代の若々しい姿のまま、自分の死を見守る息子への、不思議そうな、それでいて深い慈愛の色が浮かんでいた。


「……ああ。父さん。僕は、ここにいるよ」

 私は父のしわだらけの手を握った。


 私の手は滑らかで、血管には血液が淀みなく流れている。


 対して、父の手は冷たく、脈動は今にも途絶えそうなほどにか細い。

「不老不死……だったか。……辛いことも、あるだろう。だが、お前が……生きていてくれるなら、それでいい……。俺の命は、お前の中で、ずっと……」


 父はそれ以上、言葉を続けることはできなかった。  

 

 最後の一息を吐き出した父の顔は、驚くほど穏やかだった。まるで、重い荷物をようやく下ろした旅人のように。私は父のまぶたを閉じながら、自分の中を流れる血液以外の何かが、ひどく冷たく凍りつくのを感じていた。


 それから数年後、後を追うようにして母の時も止まろうとしていた。母は、私が幼い頃に怪我をして帰ってきた時にいつもしてくれたように、だが、それでいて弱々しい手で私の頬をなでた。


「……アルス。……泣かなくて、いいのよ。……お母さんはね、あなたが…ずっと綺麗で、若いままでいてくれるのが……少しだけ、自慢だったの」


 母の言葉は、私の胸の奥を鋭く抉った。  


 思わず、冷たい水が私の頬に流れてしまった。


 ただ、私の肉体は心がどれほど悲しみに暮れても、衰えることも、傷つくこともない。瞳からあふれる液体さえも、すぐに乾いて、私の頬には一点の痕跡も残さない。


「……ごめんね、母さん。……看取ることしかできなくて。……何も、してあげられなくて」


「いいのよ……。……あなたは、私たちの……誇り……。……魔女…あの女の人を……恨んじゃだめよ。…あなたは、生きなさい……。……誰よりも、長く……」


 母の手が、私の頬から滑り落ちた。


 私は一人、母の遺体の傍らで立ち尽くしていた。外では、三十年前と変わらない月が夜空を渡っている。

 

 Aランク冒険者のアルス。不老不死の私。    

 私をこの世界に繋ぎ止めていた、物理的な、そして確かな「愛」という名の鎖が、今、完全に断ち切られた。


 血管を流れる未知の感覚が、かつてないほど重く、澱のように胸に沈殿していく。それは、生命の躍動などではない。


 ただそこにあるだけの、永遠という名の虚無だった。

「……母さん、……行ってらっしゃい」

 私は、もはや誰も返してくれない言葉を、静かに部屋の隅へ置いた。


「母さん。私は……まだ、ここにいるよ」

 

 翌朝、私は実家の柱に刻まれた、自分の成長の記録を見つめた。ある一点で止まってしまったその傷跡。



 それ以降の私の「成長」は、もう誰にも、どこにも刻まれることはない。

 

 私は実家を後にした。背後で扉が閉まる音は、私の人生の第一章が、決定的な終わりを迎えた合図のように聞こえた。



 街へ戻れば、またゴウやカイル、リーザたちが私を待っているだろう。だが、彼らもまた、いつかは父や母と同じように、私を置いて去っていく。リーザとの温もりも、カイルとの知的な議論も、ゴウと交わす酒の味も。すべては「終わり」という幕が下りるまでの、束の間の演目にすぎないのだと、私は悟っていた。


 魔女。君は今、何を想っている? この孤独を、君もまた数百年、数千年も味わい続けてきたというのか。


「……不老不死を解く方法。……いつか、見つけなきゃいけないかな」


 独り言は、風に吹かれて消えた。それと同時に私は身震いをした。


これから始まる果てしない旅路の先に、一体何が待っているのか。私は、自分の止まった時計を呪いながらも、次の一歩を踏み出さざるを得なかった。

あとがき

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


 もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、レビューや⭐️評価、いいねなど、感想で応援いただけますと大変励みになります。


 次回、第5話は「30年後 2/2」の物語を予定しています。また明日、お会いしましょう。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ