不老不死になった日
鏡の中にいるのは、昨日までと変わらないはずの自分だった。
アルス。それが僕の名前だ。
少しばかり体格が良く、冒険者として日銭を稼ぐには不自由しない程度の腕っぷしはある。どこにでもいる、二十代そこそこの若者。
だが、僕の心臓の奥には、昨日までは存在しなかった「何か」が、澱のように居座っている。
それは温かいようでいて、恐ろしく冷たい。血管を流れるのは、単なる赤い血液ではない。もっと粘り気のある、時間そのものが液状化したような、未知の感覚が全身を巡っている。
きっかけは、一週間前のことだった。
依頼の帰り道。夕闇が森の輪郭を曖昧に溶かし始めた時間帯だ。
街道の真ん中に、不自然なほど白い服を着た女が立っていた。
「……こんばんは。こんなところで立ち往生かな。魔物でも出た?」
僕は足を止め、努めて穏やかな声で話しかけた。
夜の森は、腕に覚えのある冒険者でも一人歩きは避ける場所だ。女は、僕の声に反応してゆっくりと振り返った。
その顔は、若くもあり、同時に長年生き抜いた老婆のようにも見えた。瞳の奥には、夜空の星をすべて吸い込んで固めたような、底知れない闇が広がっている。
「いいえ、待っていたのよ。あなたのような、退屈に耐えられそうな魂を」
女の声は、耳ではなく頭蓋に直接響くような、奇妙な残響を伴っていた。
僕は本能的な危険を感じ、腰の剣に手をかけようとした。だが、体が動かない。指先一つ、瞼一つ動かすことができず、ただ女の視線に射抜かれるままになった。
彼女は世に言う魔女だった。それはふわりと浮き上がるような足取りで僕に近づくと、その冷たい指先で僕の胸元をなぞった。
「贈り物をしてあげる。壊れず、朽ちず、ただそこに在り続けるという祝福を」
胸の奥に、焼けるような熱さが走った。
心臓を素手で掴まれ、中身を別の何かにすり替えられたような、おぞましい感覚。
視界が白く塗り潰され、僕はそのまま意識を失った。
翌朝、目を覚ました僕に変化はなかった。
傷一つなく、持ち物も盗まれていない。狐に包まれたような気分で町へ戻り、いつもの日常に戻ったつもりだった。
変化に気づいたのは、その三日後だ。
「おい、アルス! ぼーっとしてるんじゃないぞ。さっさと食えよ、冷めちまうだろ」
酒場の喧騒の中、対面に座る親友のゴウが、大きなジョッキをテーブルに叩きつけた。
ゴウは僕よりも一回り大きな体格をした、裏表のない男だ。彼とは駆け出しの頃からの付き合いで、文字通り背中を預け合ってきた仲だ。
「ああ、ごめん。少し考えごとをしていてね」
「なんだ、女のことか? お前、最近妙に顔色が良すぎるぞ。まるで病気一つ知らない赤ん坊みたいにな」
剛は豪快に笑いながら、僕の肩を叩いた。
その言葉に、僕は小さく笑みを返した。
「そうかな。健康なのはいいことじゃないか」
「違いない。だが、お前、その手の傷はどうしたんだよ。昨日の討伐で、結構深く斬られたんじゃなかったか?」
剛が指差したのは、僕の左腕だ。
確かに昨日の午後、はぐれオオカミの牙を避けきれず、袖が真っ赤に染まるほどの傷を負ったはずだった。
だが、そこには傷跡すら残っていない。
まるで最初から何もなかったかのように、滑らかな肌がそこにあるだけだ。
「……ああ、これ? 大したことなかったんだよ。薬を塗ったら、一晩で綺麗に治っちゃったんだ。僕の体質、意外と頑丈なのかもしれないね」
僕は嘘をついた。
心臓の奥に居座る「何か」が、傷口を内側から縫い合わせ、欠けた肉を瞬時に再生させるのを感じていたからだ。
それは、生命力が溢れているというよりも、時が戻っているという表現の方がしっくりときた。
「おいおい、そんな特効薬があるなら俺にも教えてくれよ。俺なんて、先週の切り傷がいまだに疼いてるってのに」
ゴウは冗談めかして言った。
彼の目には、僕への疑いなど微塵もない。ただ、運のいい友人を冷やかしているだけだ。
「……ねえ、ゴウ。もし、人が絶対に死ななくなったら、どう思う?」
僕は唐突に、自分でも驚くような問いを投げかけていた。
ゴウは一口エールを飲み込み、不思議そうな顔で僕を見た。
「死なない? なんだそりゃ、神様にでもなるのか。いいんじゃねえか。ずっと冒険して、ずっと美味い酒が飲めるんだろ? 最高じゃないか」
「そうだね。最高かもしれないね」
「なんだよ、湿っぽい顔しやがって。あ、わかった。お前、まさか不老不死の薬でも見つけたのか? だったら俺にその血を飲ませろよ。分け前ってことでさ」
ゴウはニカッと笑い、僕の腕を掴んだ。
もちろん、彼は冗談のつもりだ。僕ら冒険者、いや、この世界の全員にとって、「不老不死」なんてお伽話の類でしかない。
だが、僕の中には、彼に対する申し訳なさと、そして抑えきれない好奇心が湧き上がっていた。
もし、僕が本当に「それ」になってしまったのだとしたら。
「いいよ。……そんなに言うなら、試してみるかな」
「はあ? お前、マジで言ってんのか?」
僕は腰に差していたナイフを抜き、迷わず自分の手の平に刃を立てた。
普通なら、鋭い痛みが走るはずだ。
だが、感覚は鈍い。まるで他人の皮膚を切っているような、現実味のなさがそこにはあった。
皮が裂け、赤い血が溢れ出す。
「うわっ、馬鹿! 何やってんだよ、アルス!」
ゴウが慌てて立ち上がり、布を差し出そうとする。
僕はそれを手で制し、血の滴る手の平を彼に向けた。
「飲んでみてよ、ゴウ。僕の血、意外と美味しいかもしれないから」
「……お前、本気で頭がおかしくなったのか?」
引き気味のゴウだったが、僕の真剣な眼差しに気圧されたのか、おずおずと僕の手首を掴んだ。
そして、毒見でもするかのように、指先に付いた血を少しだけ舌に乗せた。
「……げっ。……ぺっ、ぺっ! なんだよ、ただの血じゃねえか。しかも、なんか妙に鉄臭くて不味いぞ」
ゴウは顔を顰め、何度も唾を吐き出した。その反応を見て、僕は小さく息を吐いた。
「なんだ、やっぱりただの血か。期待させちゃってごめんね」
「当たり前だろ! ……あ? おい、お前……」
ゴウの目が、見開かれる。彼が見つめる先――僕の手の平には、先ほどつけたはずの深い切り傷が、もうどこにもなかった。
「え……? 今、お前、確かに切ったよな? 深かったよな?」
「……さあ、どうだったかな。見間違いじゃない?」
僕は努めて明るい声で言い、手をひらひらと振った。
ゴウは狐につままれたような顔をして、何度も僕の手の平を確認したが、そこには古傷一つ残っていなかった。
その夜、僕は一人で自宅のベッドに横たわり、天井を見つめていた。
いつまでも生きていられる。その事実に、喜びがないわけではなかった。
冒険者という、常に死と隣り合わせの職業に身を置く僕にとって、死の恐怖からの解放は、何物にも代えがたい救いに思えた。
だが、同時に、冷たい不安が指先から這い上がってくるのを感じる。ゴウは、僕の傷が治るのを見て驚いていた。
今は「見間違い」で済むかもしれない。けれど、十年後、二十年後はどうだろうか。
ゴウの顔にシワが増え、彼の自慢の筋肉が衰えていく一方で、僕がこの若々しい姿のままだったら。
僕は、彼らと同じ時間を歩めなくなるのではないか。
窓の外では、月が静かに夜空を渡っていた。
その月は、数百年前も同じように夜を照らし、そして数百年後も変わらずにそこに在り続けるのだろう。
僕の体の中を流れる、血液以外の何か。それは、僕をこの月と同じ存在に変えてしまったのかもしれない。
誰にも言えない。家族と、そして今日少しだけ見せてしまった剛以外には、絶対に打ち明けてはいけない。
本能がそう警鐘を鳴らしていた。
魔女が言った「退屈に耐えられそうな魂」という言葉が、呪いのように耳の奥で反響する。
僕はまだ、永遠という時間の本当の恐ろしさを知らなかった。
ただ、翌朝も、その次の朝も、僕の体からは「死」という概念が失われていることだけを、確信していた。
「……まあ、いいのかな。とりあえず、明日の依頼の準備をしようかな」
独り言は、静かな部屋に溶けて消えた。
これが、僕の長い長い旅の、最初の第一歩だった。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は、ふとしたきっかけで不老不死になってしまった青年・アルスが、数百年という途方もない時間を歩んでいく物語です。
アルスの心臓に宿った「祝福」という名の呪いが、彼に何をもたらし、どこへ連れて行くのか。
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次回、第2話は「10年後」の物語を予定しています。




