二
「元より今回の命は無謀すぎます。当家を除いた十家の強者が揃ったとしても無事に果たせるかどうか……それを、日和様お一人でなどと」
その事に関しても陽織はぐっと奥歯を噛み締めた。「一人」と命じられた際、日和は一言も反することなく了承したのだ。断れば他の者に害が及ぶ、それを分かっているからこそ反するような言葉を一言も洩らさなかった。
そのことは陽織も分かっている。日和の気持ちは十二分に承知しているのだ。だとしても、それでも結果は変わりない。当主たる日和に万が一があれば、そこで当家は終わりとなる。
「ここ数ヶ月に及ぶ無理難題、あまりのなさりようではありませんか。上首の意のするところは明らかです。上首は我が家を滅ぼ――」
「陽織」
日和は普段と変わらぬ優しい口調で――だがしかし、その内に強さを込めて陽織の言葉を止めた。
「しかし、日和様っ」
「駄目だよ、陽織ちゃん」
陽織の気持ちはよく分かっている。幼き日より常に離れず共にいたのだ。言葉で表さずともその心は十分に知れた。だからこそ日和はニコリと微笑み、幼き時と同じ口調で嗜めお礼を言った。
「ありがとう。分かっています」
分かっています――それは陽織も同じだった。そして、『だからこそ』陽織もなお言葉を次いだ。
「ですが、日和様。日和様には……」
「…………」
日和は目を伏せ――自らのお腹へと手を触れた。陽織の話したいことはよく分かっている。分からないはずがない。自らに宿ることなのだから。
「……大丈夫です。大丈夫。だからこそ、わたしは生きなければなりません」
日和は顔を上げ、凛と声を発した。当主として家の者を守り、大小母様の恩を守り――そして、自らに宿った命を守るため、信念を言霊に託し誓う。
「必ず無事に帰ります」
その姿と声に――
「…………」
陽織は何もいえなかった。もう何もいえない。これ以上何かをいうことは主の意に反することであり、信念を疑うことだ。仕える者としてそれは決してしてはならないことだった。
「……日和様、御無事で」
握り締めた拳で、震えた声で、ただその一言だけを搾り出す。
憤りと悔しさと、我が身の不甲斐なさと悲しさを噛み殺し、ただ祈りだけを込め。
「ありがとう。行って来ます」
にこと微笑み、ふわりと袖を揺らし髪を靡かせ静かに歩き出す。
柔らかく、本当に散歩するかのように暖かな陽と涼やかな自然を楽しみつつ――日和は頂上を目指し歩を進めた。
――山頂より少し前。
突然、斜面は途切れ木々がなくなり視界が広がった。とはいえ人の手が加えられたものではない。近くに水が流れているのか大きな岩が無造作に転がり、その岩石によって木が育たなかったのだろう。
葉の傘がなくなった陽の光が差し込む平地。白む視界に目を細めた視線の先――そのモノは岩に腰をかけそこに居た。
「名は?」
そのモノ――二人居る内の一人。蒼い装束を纏った女は、突如現れた姫巫女のような少女に驚くことなく静かに問いかけた。
とはいえ、問うても答えることはないことは知っている。物見遊山ではまずないだろう。路を外れた森の中、わざわざ迷うような木々の隙間を歩き進め、こんな所まで来る人間はそうはいない。何よりこちらも事前に知っていた。真っ直ぐにこちらへと近づいてくる少女を。
そして、我らを見ても少女は驚いてもいなかった。つまりは、我らが居ることを知っていてここへ来たことになる。我らに用がある人間――それは、つまりは敵だということだ。だからこそ、名を問うても答えないだろう。
十一家の者ならば、名を聞けばその能力をも教えることとなる。実力の利があるのならともかく、互いに何も知らない状態で手の内を明かすのは得策ではない。問うたのも、戦いの機を計るためだ。
だが、
「月隠日和といいます」
と少女――日和は答えふわりと微笑んだ。
(この童女は相当な馬鹿か、それとも……相当な器か)
蒼い装束の女はそう思い、
(どうにもやりにくいな)
そのモノ、二人の内のもう一人――紅い装束の女は顔をしかめた。
とはいえ、戦わないわけにはいかないのだ。本当に物見遊山で偶然に迷い込んだのなら、あるいは見逃しても良かったのだろうが、相手は明らかに自分たちに用があって来ている。ならば、戦うしかない。
「童女、その名を名乗って我らの所に赴いたという事は、どういうことになるかは分かっておろう」
「はい」
「ならばよかろう。これ以上の話は無用」
紅い装束の女の言葉に、蒼い装束の女も静かに頷く。
性として、この少女を見極めたいという欲求がでるが、すぐに「見極めたところで……」と蒼い装束の女は思い直した。見極めたところで、殺すか殺されるかしかない。
無論、殺されるつもりもないが……
(細い身体だな、一薙ぎで引き裂けそうだ)
殺す気持ちも削がれてきている。だからだろうか、紅い装束の女も機を計りかねていた。
(追い返すだけでもよいか。例え十一家の者でも、童に手をかけるのは忍びない)
ザッ――と蒼い装束の女は一歩踏み出した。それだけで、紅い装束の女は全てを理解する。
本来ならば、戦いにおいて一対一というものに拘る必要はない。もちろん戦いの作法はあるが、勝たねばならぬ戦いで作法を守れば負けにつながることもある。そして、負けるという事は死ぬということだ。
甘いことを言うつもりもない。が、今回は蒼い装束の女一人で戦うことにした。童女相手ならば一人で十分というのもあったし、二人で相手というのは逆に戦いを鈍くするようにも思えたからだ。
紅い装束の女はすでに戦いに置いて一歩退いてしまっている。万が一を恐れ、先に蒼い装束の女は踏み出した。そして、その事も紅い装束の女は理解していた。
「さあ、参ろうか」
「いつでも」
日和は応じ、サッと袖を靡かせた。右足を前に、左足を後ろにし、軽く両手を上げる。かといって、拳を握り締めてもいなかったし、身体に力をいれてもいなかった。限りなく自然に、柔らかい構えを取る。
その姿に、つい、
(ほう)
と、蒼い装束の女は内で唸った。悪癖とは分かっていても身体より先に頭が動いてしまう。
柔らかい――構えも、その発する気配も、指先一つ一つの動きまでもが小春のように柔らかく穏やかだった。しかし、そのことがまた赤子のような印象を際立たせてしまっているのは戦いにおいて有利なのか不利なのかは難しい。
無手ということで、体術に自信があるだろうということは分かっていた。が、自信があるといっても攻めの体術ではないだろう。受けに徹する守りの体術に違いない。
(さて……)
そうであるならば、こちらから攻めなければいけない。このまま睨み合っていても――いや、睨み合ってはいないか、相手の童女は真剣な眼差しはしているものの睨んではいない。すごんでもいない。視線に圧もなく、殺気すらない。
ともあれ、このまま視線を合わせていても仕様がないのには違いない。実を言えば自身も後の先の戦いではあるのだが、今回は仕方がないだろう。
蒼い装束の女は摺り足で左の足を一歩出し、そして、
ザッ――!!
右足の親指に力を込めた瞬間、そのまま蹴り上げ一気に日和の懐に踏み込んだ。
左の貫手で首を狙う……がこれは牽制に過ぎない。狙いは胸への掌底、その一撃で動きを止める。
そのつもりだったが、
(――っ)
蒼装束の女は内で僅かに惑った。日和は紙一重で貫手を避け、動きに合わせ自らの手を合わせてきたのだ。受けるのでもなく弾くのでもなく、退く前に手を掴もうとしてくる。蒼装束は流れを崩され、貫手の腕で日和の手を弾き、左足を起点に右足を踏み出した。そのまま、踏み込みと同時に右の掌底も打ち込む。機を外され威力は弱まっているが、これで一呼吸分でも間を空けれればいい。
受けるか流すか、蒼装束は日和の動きに合わせ冷静に次手を考えていた。流れは向こうにある。距離を空けるということはないはずだ――
と、思った瞬間だった。
日和は蒼装束の掌底を左手で外へ流し、更に近接するかと思いきやタンッと距離を置いた。また、間を外されている。これでは、自分はもちろんのこと日和でさえも攻めることができないはずだ。
紅装束の女と同じく蒼装束も、
(やりにくい)
と感じ始めていた。戦う気が逸らされている。
近接での打ち合いならば、こちらも臨むところだった。だが、相手は臨まずに一歩退いた。戦いに来たのにも関わらず、戦いにすらなっていない。
妙な点ならもう一つある。最初の貫手の一打で、日和はこちらの手を掴もうとした。力では必ず負けると分かっていて、戦いに不利な掴むというやり方を何故選んだのか。そのおかげで、こちらのほうが一瞬戸惑ってしまい、掌底が半端なものになってしまった。
(狙いがあるは必然。ならば)
見定めるだけのこと。それが致命的な罠かもしれないと思っても、興味のほうが勝った。
視線を向け、身体を向ける。軽く左足を前に右足を後ろにし、腰を落すが身体を重くはせず、踏み込みの機を伺う。
構えは同じ、だが、力は同じではない。