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作者: 雉白書屋

 ――あ、死んだ……。


 ――え、死んだのか……?


 ――ああ、おれは死んだ……。


 地面にへたり込む彼は、朝起きたばかりのような脳でそう思った。ぼーっとしてはいるが、自分が死んだ瞬間の記憶、こちらに迫りくる車が網膜に張り付き、頭から離れない。この体が、つい先ほどまでいた現世と未だ粘液性を帯びた糸で繋がっているような感覚がしていた。

 だが、もうその糸は断たれている。そう、自分は死んだのだ……。

 彼は辺りを見回し、そして少しばかり安堵した。この景色。どうやらここは天国のようだ。彼の周りには同じように辺りを見回す人々がいた。そのうちの何人かと目が合い、軽く会釈する。それもまた、彼の心を落ち着かせた。

 しかし、自分が天国に来られるとは思っていなかった……とまでは言わないが、確信はなかった。警察の世話になったことはないが、自分は善良な人間だったと胸を張って言えるかと問われれば、顔を背けただろう。もっとも、多くの人間がそうだろう。多かれ少なかれ誰しも悪いことはしたはずだ。虫などを殺したことがあるだろうし、嘘もつく。

 しかし、こうしてここにいるということは、そういった些細なことは判断基準にはならないらしい。地獄行きは免れたのだ。

 彼はふぅと息をつき、立ち上がろうとした。その時、頭上に影が差した。


「え……天使?」


「はい、そうです」


 彼の問いかけに天使はそう答え、人々は「おおっー」と声を上げた。天国に来られたという実感が湧いたらしい。彼もまた気分が高揚した。

 天使はきっと説明をしに現れたのだろう。そう思った彼は再び尻を地面につけ、天使を見上げた。


「それでは、今から皆さんの罪を洗い流します」


「洗い流す……? え、それは消毒みたいなものか?」


「はい」


 それを聞いた彼はふふっと笑いそうになった。罪を洗い流すとは、おそらく一人ひとりが手を合わせ目を閉じて待ち、天使がその人の頭上から聖水のようなものをぱっぱっと振りかけた後、聖なる言葉を述べるのだろう。しかし、彼はそういった場面が頭に浮かぶよりも先に、劣悪な収容所で野太いホースから放たれる水を全裸で受ける、そんな想像をしたのだ。


「天使のねーちゃん、俺の汚れはすげえぞー!」


 と、誰かの野次が飛び、笑いが起きた。彼も笑った。

 しかし、場はすぐに静まり返った。それは天使が無表情だったからではない。まるで硫酸を飲まされたように喉が、体の内部が焼けつくような痛みがし始めたのである。

 

「があ、ごごがぁ!」

「あが、あがががが!」

「あ、あ、あう、あ、あ」


 彼は殺虫剤を浴びたゴキブリのように仰向けに倒れ、白目を剥いて悶え苦しんだ。開けた口からまるで助けを求めるように舌が伸び上がっていた。

 彼は一度舌を引っ込め、歯を食いしばり、天使に顔を向けた。そして再び口を開き、言葉を発そうとしたが、できなかった。

 苦しい。何で、どうして。そう訊きたかった。

 天使はそれを察したのか、あるいは義務だったのか、淡々と語り始めた。


「罪が洗い流されれば、皆さん晴れて天国の住人となれるのです。苦しいでしょうが、どうか頑張ってください」


『苦しいでしょうが』と天使は言ったが、彼は天使が今自分たちが味わっているこの痛み苦しみを知っているとは到底思えなかった。どこかロボットのようだと感じ、そしてきっと慈悲を乞うても無駄だと思った。現に、何人かが地面に這いつくばりながら、天使に向かって手を伸ばしていたが、天使は彼らに対して、雑草を見るように何ら感情といったものを抱いていないようだった。

 

「体に染みついた罪の量は人それぞれ違います。現世で清く過ごした人は、罪を洗い流すのに時間はそうかからないでしょう」


 具体的には、例は、自分はどれくらい耐えればいいのか。この場にいる誰もがそう思っただろう。しかし、この苦しみに終わりはないように思えた。せめて誰か、この苦行を乗り越えた天国の住人に話を聞けたら。そして、励ましてもらえたら。でなければ何か気を紛らわせるものがあれば。誰か助けてくれるものがいないか。各々そう考えたのか、徐々にナメクジのようにずりずりとその場から離れ始めた。そのあとには黒い粘液性がありそうな液体が薄く伸び、白煙を上げて消えていく。


 やがて体内だけでなく皮膚も焼けつき、また刺されるような痛みが始まった。彼は辺り一帯を照らすこの光こそがこの苦しみを与えているのではと考え始めた。しかし、ここには遮蔽物といったものはなかった。

 這い、悶え、進む中で、彼が気付いたのは、これの終わりは程遠いということだった。

 

 ――死ねば楽になれるのか。


 ――それなら、死にたい。


 ――死なせてくれ。もう終わらせてくれ。

 

 そう思い始めたとき、彼は声を聞いた。

 彼は悶え苦しみながら、必死にその声の方向へ進んだ。

 辿り着いたその場所は暗く、深い穴だった。その縁には一本の縄のようなものが生えており、穴の中に垂れ下がっていた。

 縄の先っぽも穴の底も見えなかったが、彼は迷わずその縄を手に取った。

 これは、この穴はおそらく地獄へ続いている。でも、彼はそれでも構わないと思った。

 なぜなら、そこから聞こえてくる声はとても明るく楽しげだったからだ。

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