第二章 王子の追跡
家に帰っても寝つけなかった。服も着替えず、俺は枕に突っ伏している。いつもはイヤホンをつけて音楽を聴きながら晩飯でも食べている時間だが、イヤホンを手に取ることもうっとうしかった。
アパートの外をパトカーが通りすぎた。俺は飛び起きて部屋の隅まで逃げた。普段なら、どんなにやましい悪事を働いたって、臆病になったりはしない。俺は疲れているんだ。そう、疲れているということにしておこう。
冷蔵庫から冷たいカフェオレを取り出して、一気に飲み干す。時計を見た。まだ夜といえる時間でもない。テレビでも見るか、と軽い気持ちでテレビをつけたら、飛び上がってしまった。
フロイアント・デル・ケール王子が行方不明になりました。これは、王室側が会見で、たった今発表したものです。行方不明になったのは、三日前でしたが、世間の混乱をさけるために、発表は今日まで待ったということです。
現在、あらゆる手を尽くして捜索を行っているということですが、最終的に見つからない場合、どんな手段もいとわないと、国王は軍隊の招集も考えているもようです。
俺は、画面に食い入るようにしがみついた。王子の写真や、つい一ヶ月前に外交で飛行機に乗る映像が流れていく。警察よりも恐ろしいものがあったとはな。俺は、何度も息継ぎをして、テレビから後ずさった。
「参ったぜ。あいつは本物だ」
胸の辺りが疼いて気分が悪くなった俺は外に出かけた。コンビニは五時を過ぎるとどこも閉まってしまうので、煙草を買いに近くの煙草屋に寄った。そこには先客がいた。ふてぶてしい態度で商品を物色している二人の男がいる。
一人はほっそりしているが、かなり筋肉質な男。紺色のニット帽をかぶっている。もう一人は無精ひげで、髪はパーマを当てているのか、元々くせ毛なのか、寝癖のついたような髪のだらしない男だ。二人は何やら小声で話している。
大方、誰かが煙草を買うのを待って、そこで一本分けて貰おうと考えている金欠な男たちだろう。煙草は一箱五ポンド(約千円)もするので、イギリスでは一本の煙草も貴重な品だ。ところが、聞こえてきたのは奇妙な会話だ。
「あのガキ俺の指を何や思てんねん」
そう苦々しげにわめいたのは無精ひげの男だ。指はティッシュで丸め込まれ、血が滲んでいる。
「エバン、いちいち毒づくな。不審者と思われる」
エバンと呼ばれた無精ひげの男は酔っ払いのように変な笑い声を立てた。
「ほんまや。俺たちは怪しまれちゃかなわんからな。なんやって、王――」
ニット帽の男がエバンの脇を肘で突き上げた。鈍い音が店内に響いて、店員も目を丸くしている。エバンは息もできないのか、悶えながらニット帽の男を憎憎しげに見上げた。
「本気でやったやろグレイ? あばらが折れたか思ったやん」
グレイという男は、店員を横目に確認すると、何も言わずに俺の隣を通り過ぎて煙草屋を去っていった。
「ちょい待てや! 俺、まだ何も買ってないんやけど?」
エバンがよろよろと後を追って行く。俺は、本来の目的も忘れて、この二人の男のやり取りを見ていた。事件の臭いがする。さっきエバンの言いかけた言葉が、「王子」に思えてならない。
それに、俺は確認した。一瞬だが、グレイが肘を突き上げたとき、はためいた上着の内側に、銃を入れておくホルスターのようなものが見えたのだ。
二人の後をこっそりとつけた。白いワゴン車に乗り込んだ。俺はすぐに煙草を買い、信号を待っているふりをしながら見張った。煙草をふかしながらナンバープレートを確認したが、やはり外されている。これはますます怪しい。
突然、ニット帽のグレイが携帯電話を片手に車を降りた。人目を避けるように路地へ向っていく。エバンは、車内で音楽を鳴らしはじめて、リズムを取っている。
これはチャンスだ。グレイが戻ってくる前に車のトランクに入ってしまえば、王子のところに着けるかもしれない。だが、ためらいもあった。だいたい、俺はいつから探偵ごっこをするようになったんだ? こいつらが王子の誘拐犯じゃなかったら、俺が変質者だ。
グレイの電話が気になったが、エバンが助手席でくつろいでいる今なら忍び込める。トランクに入るなら今しかない。悪態をついて潜り込んだ。すぐにグレイが車に乗り込んできた。
窮屈なトランクに体を折って入ったものだから、息が詰まる思いがする。俺は一体どうしたんだろう。胸やけまでしてきた。こんなこと柄に合わない。
一方、二人は俺に気づかずにエンジンをかけた。かなりポップな音楽が振動で伝わってくる。
「で、上司は何て?」
エバンが何かを一気に飲み干したような声を上げた。酒でも飲んでいるような声だ。まさか飲酒運転ではないだろうな。
「俺達はリーダーのお使い係だそうだ。このまま帰って来いってな」
エバンは喉を鳴らしてやはり何かを飲んでいる。大きく天井を仰いで息を吐き出す動作が想像された。
「こりゃ、いい仕事したな」
車は勢いよく大通りへと入っていった。それもかなりのスピードだ。俺は、体を丸めてじっと忍んでいたが、激しく揺れる度に放り出されやしないかと不安になった。
この状況で一番辛かったことはエバンが曲に合わせて歌い始めたことだ。歌が上手であればまだ許せた。音痴だったので、気に障って仕方がない。
十分。十五分、と経ったが、グレイは無口で、エバンの歌が続いていく。いい加減、この窮屈な空間と、エバンの歌にしびれが切れそうだ。まだ、目的地へ着かないのか。
「いい加減黙れ。曲を変えるぞ」
俺と同じことを思っていたのかグレイが釘を刺した。
「別にいいやんか。今日は特別な日やねんで」
「着いたぞ。リーダーの前では歌うな」
つまらないと言わんばかりにエバンが毒づいた。
こっそり外を窺うと、到着したのは、船着場の倉庫の前だった。ここに王子がいるのか? 人通りはほとんどない。電灯が一つあるが、消えかけている。
車を降りた二人は他の倉庫の方へ歩いて行った。俺もその後を密に追う。倉庫がいくつも並んでいて、海側には小型の船もちらほらあった。錆びたシャッターを持ち上げて、倉庫の中に入っていく二人。不用心にも、シャッターを開けたままだ。
中は月明かりだけで照らされている。俺も一分遅れでその中に入った。二人の姿がなくなっていた。薄気味悪いものを感じたが、見つかったとしても相手は今のところ二人だ。何とかなるだろう。それより、こんなところに王子がいるのか?
俺は王子の顔を思い出すと吐き気がしてきた。助ける義理がどこにある? あいつは俺に向かって撃ってきたのだ。誘拐されても俺には関係がないはずだ。
このまま引き返そうかとも迷っていたとき、グレイでもエバンでも他でもない少年の声が聞こえた。
「こっちこっち」