その38
◇◇◇◇◇◇ その38
三増峠で再会した親子は峠より北条を見下ろし親しく会見した。
「やはり北条は海辺の軍団だったな。甲斐の山猿には勝てないわけだ。」
「もう少し私が早ければ武田の損害をもっと減らせたように思われます。」
「いや、北条に完全に勝てると思わせなければここまで軍を進めてはこないだろう。おかげで叩きのめすことができたわけだ。」
「父上、いよいよでございますね。」
信玄はこれでようやく織田信長に決戦を挑む準備が整ったのである。四十九才の時であった。
信長は天下統一を目前に控えて一向一揆に苦しめられている。本願寺も比叡山も信長にとっては敵である。これも全て信玄が仕組んだことであり、信長もそれを承知しているだけに余計にはらわたが煮えくり返るのである。
「光秀を呼べ。」
「上様、いかがなされました。」
「比叡の山を完全に焼き尽くせ。一人も活かしておいてはならぬ。」
「それはなりませぬ。坊主を殺せば末代まで祟られますぞ。」
「うるさい、あの寺は諸悪そのものである。信玄はあの寺でなにやら術を使っておるのじゃ。ためらうことはない。」
信長は自分の前に立ちふさがる武田信玄という巨大な壁の存在に恐怖にも似た感情を持っている。最近では義元を桶狭間で討ったことでさえ信玄の掌の内で計算されていたのではあるまいかと感じている。
信長の恐怖は最初は信玄のご機嫌を伺う事で安堵され、天下統一へ向けて走り続ける事で忘れる事が出来た。だが、自分がその大事業を成し遂げたその時、
「うむ、大儀であった。」
と信玄にすべての栄光を横から奪われるのではないかという疑心へと変わりつつあった。信長自身、信玄に一度も逢ったことはないが、考えるほどにそう思えてくるのである。
「天朝を中心とする世の中では我が意のままに天下を統べる事は不可能である。」
信長が結論し、征夷大将軍の職を固く辞退したのにはこのような経緯があったのである。
信玄を抹殺し、自分が王になるしか道はないとの結論に至ったのも至極当然である。光秀は主人の並々ならぬ決意を知っていても止めることはできない。光秀にできることは比叡の中でも本当の優れた僧を助けだし、武田に送ることだけであった。
信長が叡山を焼き払うことは意図的に流布されたが、ほとんどの僧達はそのようなことが可能とは到底思えず、避難はしなかった。光秀はかねてからの打ち合わせどうり天台座主を始めとする真の学僧集団を武田に落ち延びさせた。全叡山に火の手が上がったのはそれからほどなくしてからであった。




