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その35

◇◇◇◇◇◇ その35


「お主のおかげで命拾い致した。」

 信玄は改めて少年を見つめた。髪はざんばらであるものの決して見苦しくはなく、衣服は機能的であった。澄んだ瞳を見つめているとどうも他人とは思えない。


「名前はあるのか。」

「ひがしたにじゅんいち。」

「どこに住まいじゃ。」

「おかや。」


「信濃の岡谷か。父母はいるのか。」

「うん、げんきだよ。」


「そなたを父母の元に返してやりたいのはやまやまじゃが、予にもそのやりかたはわからないのじゃ。時がくればいずれできるやもしれぬがのう。」

「おじさん、ふうりんかざんのひとでしょう。ぼくしばらくいっしょでもいいよ。」


 純一は光の河の中を通り抜けた時、簡単に父と母の場所には戻れぬらしい事を悟っていた。


「うむ、そうするがよい。今日からは四郎と名乗れ。武田四郎じゃ。母はほれ湖静姫じゃぞ。」

「うん、ありがとう。」


「四郎、そなたのお印だが・・」

「ほいくえんのぼくのまーくは、このとんぼだよ。」

 四郎が指さしたのは靴下に貼り付けられているかわいらしいとんぼのアップリケであった。


「そうか、ならばこれをそなたのお印にしよう。四郎の持ち物には全て貼り付けるが良い。」

信玄はそういうと指物師を呼び、とんぼのアップリケを筆で書き留めさせた。


 大人なら到底すぐには納得出来る現象ではない。だが子供の純一だからこそ自分の環境の変化に順応しようという本能が働いているらしい。味方にも大きな損害を出したこの合戦であったが、謙信に甲州軍の迅速さを見せつけた戦いでもあった。


「これで謙信もうかつに信濃に手を出すこともあるまい。ましてやこれから冬がやって来る。」

信玄は海を目指す環境がようやく整ったことを感じ取っていた。


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