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難局

 ソフィアの意思に反して、涙はなかなか止まらなかった。息が乱れ、呼吸が苦しい。

 恐慌状態の中、ソフィアは何度も自らに言い聞かせた。ーー冷静になれ。考えろ。ここで取り乱しても何一つ解決しない。生き延びる為に、できることをしなければ。

 アルマの姿を探して、ソフィアは顔を上げた。もぞもぞと横たわった身体を起こす。壁際に佇むアルマは、茫然とした様子でアンガスの遺体を見つめていた。

 やがて心配そうにソフィアを見たアルマと視線がぶつかった。狼狽え、不安げなアルマに一つ頷いてみせる。

 

 ーー大丈夫だから、ライアンの所へ。


 アルマを安心させるため、努めて平静を装う。

 本音を言えば怖くてたまらなかったが、ソフィアは目線で行くようにと促した。事は一刻を争う。ソフィアが急かすように視線を送ると、アルマは最後まで後ろ髪を引かれるようにして部屋を出て行った。

 ナサニエルと2人、部屋に沈黙が落ちる。ここからは本当に一人。心細いと思ったが、他に選択の余地は残されていなかった。

 10分程たった頃、突然ガチャリと扉が開く音がして、ソフィアの肩がビクリと跳ねた。他に人がいるとは、想像もしていなかったのである。扉の向こうから低くしゃがれた声がする。


「旦那、またやったんですか」


 背の低い男が、ひょっこりと扉から顔を覗かせていた。禿げ上がった額に、耳と鼻は異様に大きく、唇が歪んでいる。男を見て、ナサニエルが入るようにと手招きした。


「ネヴィル、次の仕事を頼みます」

「入ってよろしいんで?」

「ええ」


 ネヴィルと呼ばれた男は部屋に入ると、ひょいとアンガスの遺体を跨いで、ナサニエルの方へと近づく。途中ちらりと床に座るソフィアを見て、いやらしい笑みを浮かべた。


「こりゃあ、随分若い女だ。この女も殺しちまうんですか?」


 もったいねえ、とソフィアの身体をねぶるように見つめる男に、鳥肌が立った。ナサニエルは冷ややかにネヴィルをねめつける。


「無駄口を叩かぬように。死にたいのですか」

「おお怖い」


 くわばらくわばら、とネヴィルはわざとらしく肩をすくめる。


「それで旦那、何をすれば?」

「今から指定する屋敷に手紙を置いて来てもらいたいのです。宛先はレイモンド・マックスウェルという男です」

「どんな内容を?」

「『ソフィア・オールドマンを取り戻したくば、今夜12時に指定の場所に来い』と」

「呼び出し場所はこの家でいいんですかい」

「無論、警察が後をつけていないか確かめてからです。しばらく適当に泳がせておきなさい」


 やり方は任せます、とナサニエルは続ける。2人のやり取りを見ながらこの男はナサニエルの仲間なのだろうかと、ソフィアは思う。

 視線を感じたのかネヴィルはソフィアの方を見ると、ひひっと笑った。


「悪党には悪党の仲間がいるもんさ」

「余計な事を言わなくてよろしい。早く行きなさい」


 ナサニエルは追い出すように手をひらひらと振る。ニタニタと笑いながらネヴィルが出て行こうとしたところで、ふと何かに気がついたようにナサニエルが呼び止めた。


「ーーああ、待ちなさい」


 そう言うとナサニエルはソフィアの方へと近づいてくる。一体何をされるのだろうとソフィアは身構えた。

 ナサニエルはソフィアを間近から見下ろすと、全身をジロジロと眺め回す。思案するように顎に手を置いた後、その視線がソフィアの首元で止まった。すっとナサニエルの手が伸びて、ソフィアの首に触れる。

 触れられた恐怖で、背筋が凍った。ナサニエルの手はぞっとするほど冷たい。ナサニエルはソフィアの首に下げられた鎖をつまみ上げると、するするとそれをたぐり寄せた。

 服の中に隠していた、深く澄み切った光を放つブルーダイヤの指輪が現れる。ナサニエルはソフィアの首からチェーンごと指輪を外すと、それをネヴィルの方へ放り投げた。


「それも手紙に入れておきなさい。揺さぶりをかけるんです」


 ぽいっと無造作に渡された指輪を受け取ると、ネヴィルはまじまじとそれを検分した。


「こりゃあ上等ダイヤだ」

「くすねたら承知しませんよ」

「おっかないねぇ」


 怖い怖いと笑いながら、ネヴィルは部屋を出て行った。

 2人きりになった部屋でナサニエルは椅子に座ると、深く息を吐き出した。頭を垂れ、その体勢で固まったナサニエルをソフィアは恐る恐る見つめる。

 腹部を押さえたまま、ナサニエルは身じろぎさえしない。やがて顔を下に向けたナサニエルの表情が苦悶に歪んでいるのを見つけて、内心ソフィアは訝しんだ。


 ーー具合が悪いのかしら。


 アンガスに発砲した時は気付かなかったが、ナサニエルはどこかを痛めているのだろうか。ナサニエルが万全ではないなら逃げ出すチャンスはあるかもしれないと、少しだけ希望が湧いた。

 改めて周りの様子を見回せば、テーブルと椅子が置かれただけの簡素な部屋である。窓は全て鎧戸が閉じられ、外の様子は分からない。窓から逃げるのは難しそうだと、そう思う。


「ーー余計なことはしないように」


 突然話しかけられて、声のする方を見ればナサニエルが顔を上げてこちらを見ていた。その顔を見てもこの男が何を考えているのか、ソフィアにはまるで分からない。ソフィアを怯えさせて楽しむ風でも、罪悪感を感じている風でもない。無機質な声でただ淡々と、ナサニエルはソフィアの立場を説明した。


「貴女は魚を釣り上げる為の餌にすぎない。逃げ出そうなどと馬鹿なことは考えないことです。貴女は大人しく、助けを待っていればいいのです」


 おかしな真似はするな、と念押しするナサニエルの顔をソフィアはじっと見つめ続けたが、結局最後までそこに感情の揺らぎを見つけることはできなかった。


 ***


 その頃、アルマは急ぎレイモンドの屋敷へ向かっていた。

 死者といえどできることは生きていた頃とそれほど変わらない。馬のように千里を駆けることも、空を飛ぶこともできはしないのだ。人が走る速度以上のスピードは出せないし、薄い壁なら通り抜ける事はできるが、階段がなければ2階に上がることすらままならない。不思議な事に、乗り物には乗ることができる。馬車や鉄道があればその乗り物の速度で移動できるので、結局のところ生きていた頃の感覚に引きずられてできることが制限されているのではないかと思うのだが、そう思った所でアルマ自身が列車並みの速度で移動できるわけではなかった。

 緊急事態に直面しても、一瞬でレイモンドの屋敷に飛んで行くことなどできない。故にアルマはナサニエルの隠れ家を出ると、人通りの多い道まで移動した。南へ向かう馬車を探すためである。幸いエルドの中心部に向かう馬車が早々に見つかり、アルマは馬車の乗客である商人らしき男とともに馬車に乗りこんだ。

 市内の最北端から中心部までは、真っ直ぐに向かっても片道1時間以上はかかる。その間ソフィアの身に何か起こりはしないかと、アルマは気が気ではなかった。

 茜色が徐々に空を覆いはじめている。あと少しで夕闇が夜に変わるだろうという頃、ようやくアルマはレイモンドの屋敷に辿り着いた。


「ライアン! グウィン様はどこ?」


 居間にライアンがいるのを見つけるなり、前置きもなくアルマは切り出した。突然目の前に現れたアルマに、ライアンはあからさまに嫌そうな顔になる。


「レイモンドなら、ここにはいない」


 ライアンはアルマの言葉を言い直した。ライアンはアルマがレイモンドをグウィンと呼ぶのを快く思っていないのだ。かつてバスカヴィル家の使用人であったアルマにとって、本来の名で呼ぶ事は自然だと思うのだが、何故かライアンは気に入らないようだった。

 最低限の答えしか言わないライアンに、アルマは焦れるように尋ねた。


「じゃあ今どこに?」

「熊みたいなオールドマン家の護衛が来て、2人で警察に向かったが」

「どういうこと?」


 アルマが怪訝な顔になると、ライアンが説明を加えた。


「1時間ほど前にオールドマン家の娘が来ていないかと、護衛の男が屋敷に来たんだ。姿が見えないから、探していると」


 ソフィアを探してライオネルがここに来たのだと、アルマは合点する。オールドマン家では想像以上に早く、ソフィアの不在が発覚したらしい。ソフィアを探しているなら話は早いと、アルマは叫んだ。


「そのソフィアが大変なの。早くグウィン様に伝えて!」

「待て、何の話だ?」

「ソフィアがナサニエルの人質になってるのよ! グウィン様をおびき出す為に、ナサニエルはソフィアを狙ったの!」

「……順を追って説明しろ」


 アルマは息せき切って話し始めた。アンガスの娘の誘拐に端を発する一連の出来事を、詳細に語って聞かせる。話を聞くうちライアンの表情はみるみる険しくなっていった。


「早くグウィン様に知らせないと。今ならナサニエルは油断しているはずよ」


 まだ間に合う、と言ったアルマにライアンが見せた反応は意外なものだった。険しい表情のまま、首を振ったのである。


「ーー駄目だ」


 冷ややかなライアンの声に、アルマは硬直する。


「何ですって?」


 耳を疑うような発言に、アルマの思考が停止する。ライアンはその言葉が嘘ではないと強調するように、言葉を重ねた。


「ーーあの娘のことは、レイモンドには教えない」

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