苦渋の選択
サラはアンガスの6歳になる娘である。年に一度、家族でオールドマン家を挨拶に訪れるので、ソフィアもよく知っていた。表情がくるくると変わる愛らしい少女で、アンガスはこの一人娘を目に入れても痛くないほど可愛がっている。普段は口数の少ないアンガスが、サラのことになると途端に饒舌になるのを、ソフィアは何度も目にしてきた。
「何があったの?」
ソフィアが怯えた表情のまま問いかけると、アンガスは暗い顔になる。
「昨日の昼間、サラが誘拐されました。庭で遊んでいたはずのあの子が、母親が少し目を離した隙にいなくなったのです」
「近所に遊びに行った可能性は……?」
「あり得ません。家の前に犯人からの手紙が残っていましたから。後から指示を出すから、その通りに行動しろと。指示を無視して警察に通報すれば娘の命はないと、そう書かれた手紙です」
「指示?」
「今朝娘の写真とともに、犯人の要求が書かれた手紙が届きました。貴女を指定場所に連れて来いという内容です」
アンガスは銃口を向けたまま左手だけ懐に入れると、写真を取り出した。ソフィアの前に差し出された写真を見れば、手足を縛られたサラが今朝の朝刊とともに写っている。怯え切った表情のサラを見て、ソフィアの胸は締め付けられた。
「朝の時点でサラは生きていました。貴女を連れ出すのに与えられた猶予は、今夜の12時までしかありません」
「……警察には?」
ソフィアの問いにアンガスは首を振る。
「言っていません。今朝手紙が届くまで、犯人の正体も目的もまるで分かりませんでしたから。ですが今朝の手紙でおおよその察しがつきました。これは身代金目的の誘拐じゃない」
お嬢様ならお分かりになるはずだ、とアンガスは続けた。
「お嬢様を連れ出して、犯人は一体何をしようというのでしょう。オールドマン家の中で最も警護が多いお嬢様をわざわざ狙う理由は? 何かお嬢様でなければならない理由が犯人にあるはずだ。そう思った時、サラの誘拐はバスカヴィル家の事件と関係していると思いました」
違いますか、とアンガスはソフィアを問いただすように見つめる。
「例の暗殺者はまだ見つかっていない。お嬢様が追っていたグウィン少年や事件の真相と、貴女を連れて来いという誘拐犯の要求には、何か関連があるのではないですか」
責めるようなアンガスの視線に、ソフィアは言葉を失った。
「お嬢様と誘拐犯がどう繋がるのか、私には分かりません。ですがお嬢様が事件を追い続けたりしなければ、サラが誘拐されることもなかったのでは?」
貴女は諦めるべきでした、とアンガスは絞り出すように言った。
「グウィン少年を探すことも、事件の真相を追うことも、諦めるべきだったんです。そうすれば皆幸せでした。ご家族も周囲も、本当はそれを望まれていたはずだ」
アンガスの言葉が刃のようにソフィアの胸に突き刺さる。自らの想いを貫く事が別の人間を傷つけていると言われることは、ソフィアにとって何より辛いことだった。
「サラが解放される条件は、お嬢様を連れて行くことなのです。どうか私とともに来て下さい」
アンガスがソフィアを説得しようとしている事は、ここまでの話の流れで分かった。力ずくで人ひとりを屋敷から連れ出すことは、簡単なことではない。ソフィア自身の協力がなければ、直ぐ周囲に勘付かれてしまうだろう。アンガスはソフィアの罪悪感と、サラへの同情心に訴えようとしているのだ。
じっとサラの写真を凝視したまま口を開かないソフィアに、アンガスが焦れたように言う。
「手紙には生きたまま連れ出せないなら、死体でもかまわないとありました。どうか私に引き金を引かせないで下さい」
その瞳を見て、アンガスは本気だとソフィアは思う。
銃口を眼前に突きつけられ、ソフィアは決断を迫られていた。アンガスの要求に応じるべきか、徹底的に抵抗すべきか。
この時点で犯人の真の狙いはソフィアではなくレイモンドだろう、という事は想像がついていた。サラを誘拐したのは、恐らくナサニエルである事も。
しばらくレイモンドには近づくな、というメイソンの忠告からそう日が経っていない。きっと何かあったのだ。何故ソフィアとレイモンドの関係が知られたのかは分からなかったが、犯人がソフィアを使ってレイモンドを誘い出すつもりであることは想像に難くない。
仮にソフィアが犯人の手に落ちれば、レイモンドはきっと助けに来るだろう。5年の歳月を経ても、レイモンドの本質はそれほど変わっていないとソフィアは思う。彼が仲間を見捨てるような人間でも、ソフィアを他人だと切り捨てるような人間でもないことは、よく分かっていた。故にソフィアがアンガスの要求に従うことは、即ちレイモンドを危険に巻き込む事と同義であった。
ーーどうすればいいの。
銃を前に思考は上手く働かない。レイモンドを危険に晒したくないという思いと、サラを見殺しにはできないという思いの狭間で揺れ動く。サラが既に殺されている可能性は否定できないが、生きている可能性もまた残されている。生きているなら今頃、彼女は想像もできないような恐怖の中、助けを待っているはずだ。今ここでソフィアが抵抗すれば、自身は助かるかもしれないが、サラは確実に死ぬだろう。
ーー皆が助かる道は。
どちらの道を選んでも後悔するような気がして、簡単には結論を下せない。目の前に突きつけられた二択のどちらを選ぶことが最善なのだろう。ソフィアは悩みに悩んだ。
切迫した状況の中、アンガスの後ろに佇むアルマの姿が目に入る。心配そうな表情で固唾を呑んでこちらを見ているアルマに、不意にソフィアの意識は集中した。
ーーそうだ、アルマがいる。
そこに一筋の光明を見たような気がした。
アルマならソフィアの行き先をレイモンドに伝えることができると、そう思ったのである。誰にも悟られずにソフィアの後をついて行き、監禁場所や周囲の状況をレイモンドに伝えることができるのではないか。
情報の価値というものを、ソフィアはよく分かっていた。犯人がどこでどのようにレイモンドを待ち構えているのか、事前に分かれば対策はできる。考えたくはないが仮にソフィアが拉致後、殺されてしまっても、罠だから来ないようにと警告することができるだろう。
アルマの存在が、ソフィアの背中を押す。
最終的にソフィアがアンガスの要求に応じる事にしたのは、レイモンドに対する絶対的な信頼故だった。正確な情報があり、機先を制することができれば、レイモンドがきっとなんとかしてくれるーーそうソフィアは信じたのである。
唯一の問題は、これまでアルマにレイモンドの正体やライアンの能力を伝えていないということだった。アンガスを前にどう伝えるべきか。ソフィアは思案しながら、ゆっくりと口を開いた。
「分かったわ。私が行くことでサラが助かるなら行きましょう。アンガス、一つ質問していい? これから向かう場所には、犯人がいるはずね?」
アルマの目を見ながら、ソフィアはそう言った。アルマの表情は強張ったままであったが、ソフィアの後半の言葉に、はっと気づいた顔になる。
「恐らくは」
アンガスが沈痛な面持ちで答えたが、その言葉はソフィアの耳にはあまり入ってこなかった。ソフィアの視線は、アルマから外れない。アンガスを前にしながら、その実アルマに向かってソフィアは語りかけていた。
「私は簡単に殺されるつもりはないの。だから助けが来ると、信じるわ」
ーーアルマ、お願い。
懇願するようにソフィアはアルマを見つめる。アンガスに不審に思われるのを承知で、「だからライアンに伝えて欲しい」と続けようとして、しかし音を発する前にアルマが口を開いた。
「私が犯人の居場所を、ライアンに伝えればいいのね?」
まるで心の声が届いていたかのような返答に、ソフィアは思わず瞠目した。小さく頷きながら、何故アルマがライアンの事を知っているのだろうと疑問が頭をよぎったが、深く考える間もなくアンガスに思考を遮られる。
「では、行きましょう」
銃口を上着のポケットに隠しながら、「妙な真似をしたら引き金を引きます」とアンガスが念押しする。それを見ながら、ソフィアは首元のチェーンを少し摘まんで持ち上げた。
「これだけは残していってかまわない?」
アンガスに示したのは、エミリアの形見の指輪である。「大切なものだから、失くしたくないの」と説明すると、アンガスは少し考える顔になる。しばしソフィアの顔を見つめた後、アンガスはゆっくりと首を振った。
「申し訳ありませんが、認められません」
「……アンガス」
「私が何年お嬢様の傍にいたと思うのです。貴女を何もできない小娘と侮るほど、私は愚かではありません。この部屋に何か残せば、不審に思う人間も出てくるでしょう」
追手がかかるのが早くなる、という理由でアンガスはソフィアの頼みを拒んだ。内心落胆したが、ソフィアは黙って従う。
私室を出ると、アンガスはソフィアの後ろをピタリとついて歩く。階下へ降り、玄関を出て、庭を横切る。屋敷には正門と使用人用の裏門とがあるが、アンガスが選んだのは正門だった。ソフィアが裏門を使えば、不審がられるからであろう。
正門までは誰にも呼び止められることなく辿り着いた。
「お嬢様、お出かけですか? もうすぐ暗くなりますよ」
壮年の門番の男が、ソフィアに声をかけた。不思議そうに首を傾げる門番に、ソフィアは笑顔を向ける。
「ええ。すぐそこまで買い物に行きたいの」
「ライオネルはどうしたんです?」
「忙しそうだったし、本当にすぐそこまで行くだけだからアンガスに護衛を頼んだのよ」
淀みなく答えるソフィアに、門番も疑問を解いたようだった。
「そうですか。ではお気をつけて」
そう言って門扉を開ける。にこやかな表情を貼り付けたまま、ソフィアはゆったりと門を出て行く。
「お見事です」
屋敷の角を曲がり、門番の視界から外れた所まで来て、アンガスが耳元で囁いた。全く褒められた気がしなかったが、ちらりと後ろを振り返れば、どうやらアンガスは本気で言っているようだった。
「すぐそばに馬車を待たせています」
アンガスはソフィアの後ろで、曲がる角を指示していく。ソフィアは言われるがままに、馬車のある場所まで歩いて行った。近づくと御者台に男が一人、座っているのが目に入る。
「待たせたな。ほら、約束の金だ」
アンガスの声に、座っていた小男が振り返った。男は瞬時に御者台から降りると、ほくほくとした顔でアンガスから報酬を受け取る。最初この男をナサニエルの仲間かと思ったソフィアだが、その様子を見るに金で雇われただけの男であるようだった。
アンガスは馬車にソフィアを乗せると、ポケットからロープを取り出す。これから何をされるのかを理解して、ソフィアは顔を歪めた。
「アンガス……嫌よ」
「申し訳ありません。逃亡を防ぐ為です。しばしご辛抱を」
そう言って、アンガスはソフィアの手足をロープで縛った。
「こんなことをしなくても、逃げたりしないわ」
嫌がるソフィアの願いを、この時もアンガスは聞き入れはしなかった。猿轡をかませられ、最後に布で目隠しをされると、ソフィアの恐怖心は一気に増した。視覚と手足の自由を奪われるというのは、これほど恐ろしいものなのか。自然と身体が震え、指先が冷えていく。
「ソフィア、私がいるわ」
そのアルマの声がなければ、平静を保ってはいられなかったかもしれない。アルマの声を聞いて、ソフィアは徐々に落ち着きを取り戻していった。
その時、アンガスが手綱を取った馬車がゆっくりと動き出したことに、振動で気がつく。
馬車は北へ進路をとっていると、アルマが教えてくれた。今どこを通っていて、どの角を曲がったのか、外にどんな景色が見えるのか。目隠しをされたソフィアに、アルマは説明を続けた。これはいざ逃げ出さねばならなくなった時、ソフィアが道を間違えぬようにというアルマなりの配慮である。それが分かるから、ソフィアもアルマの言葉をしっかりと記憶に留めた。
馬車は時折止まっては、また動き出すということを何度か繰り返していた。「目的地に着くと、次の指示があるみたい」というアルマの説明にソフィアは納得して頷いた。恐らくは追手を警戒してのことだろう。もしかしたらナサニエルがどこかで見張っているのかもしれない。
そんな事を2時間程繰り返した後で、ようやく馬車が止まった。アルマの説明とソフィアの知識を総合すると、市内最北端の地区に連れて来られたようだった。
「一軒家よ。隣の民家までは随分距離があるから、大声で叫んでも聞こえないと思う」
アルマの言葉をしっかりと頭に刻む。この情報が自らの生死を左右するかもしれないからだ。
やがて馬車のドアがガチャリと開く音がすると、唐突に身体が宙に浮く感覚があった。手足を縛られたままのソフィアを、アンガスが荷物のように肩に担ぎ上げたのである。少し移動した後、ノック音に続いて、キィッと扉が開く音がした。緊張したアンガスの声がする。
「……連れてきたぞ」
「どうぞ」
聞き慣れない男の声が耳に届いた。
ソフィアはアンガスに担がれたまま家の中に入り、どこかの一室でようやく目隠しを外された。
床に投げ出されたソフィアの視界に2人の男が映る。入口近くにアンガスが、部屋の奥には黒髪に灰色の瞳を持つ男が立っている。アンガスは露骨に警戒した様子で、男を見ながら口を開いた。
「お前がナサニエルか?」
男は薄く微笑んだまま、僅かに頷いた。ナサニエルという名にソフィアは息を呑み、アンガスはぎりっと歯噛みして、ナサニエルを睨みつける。
「約束は果たしたぞ。サラはどこだ!」
「ーーキングスリー精神病院です」
あっさりとナサニエルが告げたのは、5年前に閉鎖された精神病院の名前だった。何人もの患者が自殺したといういわく付きで、市民は誰も寄り付かない。
ナサニエルの答えに、アンガスは質問を重ねた。
「では、あの子はまだ生きているんだな」
「ええ」
ナサニエルの答えは簡潔だった。アンガスは目に見えてホッとした顔になる。
もうここには用はないとばかりにアンガスが踵を返した次の瞬間、部屋に銃声が轟いた。
乾いた2発の銃声に、ソフィアはビクリと身を竦ませる。咄嗟に何が起こったのか理解できない。気付けば床に転がったソフィアの間近に、アンガスが膝をついている。その身体から血がどくどくと流れているのを見て、ソフィアは硬直した。
アンガスが撃たれたのだ、と理解した時にはナサニエルがとどめを刺そうとこちらに近づいてくる所だった。「やめて!」とソフィアは叫んだが、猿轡のせいで意味をなさない音に変わる。
ナサニエルは迷いなくアンガスのそばまで近づくと、容赦なく至近距離から頭を撃ち抜いた。パンっという音が響いて、アンガスの命が消える瞬間を、ソフィアは目の当たりにする。
この間、僅か数秒。
恐怖のあまりソフィアが上げた悲鳴は、やはり猿轡によって声にはならなかった。
アンガスの遺体を前に自然と涙が溢れ出る。それが恐怖によるものなのか、アンガスの死を悲しんでいる為なのか、ソフィア自身にも分からなかった。
「さて、貴女にはもうしばらく付き合ってもらいますよ」
躊躇いなく素顔を晒すナサニエルを見ながら、ソフィアは悟った。ーーこの男はソフィアを生かしたまま返すつもりがないのだ、ということを。




