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決別の覚悟

 その頃レイモンドは瞑目しながら、傍聴席で評議が終わるのを待っていた。


 ーーメイソンさんは、ソフィアに伝えてくれているだろうか。


 今はレイモンドに近づいてはいけないと。

 昨夜は結局、ナサニエルを見つけることはできなかった。未明に戻ってきたマイクは、途中でナサニエルの姿を見失ったとライアンに告げたのである。


『北に逃げたのは確かだ』


 それで朝から、ライアンに市内北部にある病院を調べてもらっている。マイクには、昨夜見失った場所から血痕を追ってくれと頼んであった。

 ナサニエルを探索する一方、防衛策も昨夜の内に講じた。レイモンドの存在がナサニエルに知られているのなら、逆に狙われる可能性はある。攻守が転じ、ナサニエルがレイモンドを殺しに来る可能性は否定できない。

 既に屋敷の人間には、一歩も外に出るなと厳命している。あの屋敷の造りは要塞並に堅牢だ。食料の備蓄もある。出入りする人間の数を減らし、門楼の上から監視を続ければ、そう簡単に侵入を許すことはないだろう。

 レイモンド自身外出する際は、護衛をつけることにした。今もメイソンがティトラから連れてきた護衛達が、扉の外に待機している。レイモンドが自由に動き回る事は難しくなるが、こればかりは仕方がない。

 瞼を閉じてそんな事を考えていると、近くに人の立つ気配がした。レイモンドがゆっくりと目を開けると、アリシアが目の前に立っている。


「今、いい?」

「アリシア」


 傍聴席の反対側を見れば、アリシアの祖父母が心配そうな顔でこちらを見ている。


「ああ、かまわない」

 

 場所を変えた方がいいかと尋ねると、アリシアは無言で頷いた。レイモンドは立ち上がると、メイソンが出て行ったのとは別の扉を選んで廊下に出る。視界の端にソフィアとメイソンの姿を捉えながら、2人がいるのとは逆方向に歩き出す。いくつか廊下の角を曲がり、裁判所内にある中庭に出ると、レイモンドは振り返った。


「ここでいいだろうか」

「ええ」


 レイモンド自身アリシアに聞きたいことがあった。拘置所でイライアスとどんな話をしたのか。それを今は知る必要がある。


「さっき、法廷で声をあげるとは思わなかった」


 そうレイモンドが口火を切ると、自嘲気味にアリシアは口の端を上げた。


「私にそんな事できるとは思わなかった?」

 

 皮肉めいた口調。唇を歪めて笑うアリシアの表情は、これまでレイモンドが目にしたことのないものだった。


「……だって知ってしまったんだもの。お父様が私に嘘をついていたことに。知ってしまったらもう、どうしようもないじゃない」


 アリシアは渋い表情で呟いた。


「……あの日、拘置所でどんな話を?」


 レイモンドの質問に、アリシアはぼうっとした顔になる。


「あなたが帰ってすぐ、拘置所に向かったの」


 2週間前。レイモンドから母カーラの死はただの事故ではないと知らされて、アリシアは拘置所へ向かった。どうしても真実をその目で確かめたかったからだ。拘置所の受付で来意を告げると、面会室へと通される。家族であれば、面会は難しいことではない。20分程待っていると、刑務官に連れられたイライアスが部屋に入ってきた。


『アリシア、来てくれたのかい』


 頬を緩ませたイライアスの表情は、アリシアへの愛情に溢れている。それは長年、アリシアが目にしてきたものだった。

 鉄柵越しにアリシアとイライアスは向き合った。アリシアから見て奥の机には刑務官が座り、2人の会話を記録するため帳面を広げている。

 それを視界に入れながら、アリシアは単刀直入に切り出した。


『お父様、ネル・デュプレーという女性をご存知ですか』


 アリシアはイライアスに考える時間を与えぬよう、一息にそう言った。やましいことがあるならば、少なからず取り乱すだろうと思ったのだ。

 かくしてアリシアの発した一言は、イライアスに僅かな変化をもたらした。ネルの名を出した瞬間、イライアスの瞳が狼狽に揺れたのである。それを目にして、アリシアは息を呑む。

 次の瞬間には、イライアスの表情はいつもの穏やかなものになっていたが、今しがた目にしたものにアリシアは愕然とした。


『ーー誰だい? それは』


 不思議そうに首を傾げたイライアスに、アリシアは喉の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。


 ーー嘘だわ。


 それはアリシアが生まれて初めて見抜いた、イライアスの嘘だった。アリシアは声が震えぬよう気をつけながら、言葉を重ねる。


『お父様の昔の知り合いだと言っていました』

『知らない人だ。アリシア、何があったんだ? その女性が屋敷に来たのかい?』


 問う声音は優しいが、イライアスの目は笑っていない。あっさりと平静を取り戻したイライアスに、アリシアは内心戸惑った。


 ーー何故こんなに落ち着いていられるの?


 何故こんなに平然と、嘘がつけるのだろう。すっと血の気が引いたような気がして、指に痺れが走る。


『会ったんです。ネルという人から直接、お父様との関係を聞きました』

『何を言われたのか知らないが、見ず知らずの女の言うことなど信じてはいけないよ。私を嵌めようとしている人間は多い。私の不在に乗じて、悪巧みをしようというのだろう』


 諭すように言い含めるイライアスに、アリシアは混乱した。ネルと一緒に写った写真を見ていなければ、その言葉を信じてしまいそうなほど、その表情は真摯なものだった。


『じゃああの手帳は……?』

『手帳?』


 イライアスが首を傾げると、アリシアはチラッと刑務官を気にする素振りを見せた。


『……書斎の奥の部屋にある革の手帳です』


 会話を聞かれている以上、裏帳簿とは口にできずにアリシアはそう言った。だがそれでイライアスには十分だった。イライアスの瞳孔が開き、口調がやや強くなる。


『アリシア、それをどうやって見つけた?』

『え……レイが、レイが教えてくれたんです』

『レイ? レイモンド・マックスウェル?』


 すっと目を細めて、イライアスは黙り込む。少し考えた後イライアスは表情を和らげると、アリシアに囁いた。


『手帳は今どこに?』

『今は、レイが持っていて……』

『そうか。良い子だ、アリシア。あの手帳はいらないものなんだ』

『いらない……?』


 アリシアの声が震える。イライアスは鉄柵越しにそっと手を伸ばすと、アリシアの指に触れた。


『そうだ、アリシア。あの手帳は処分しようと思っていたものなんだ』

『処分……』

『あれはフェラー家の手帳だろう。彼から取り返して、捨てなくちゃならない』


 分かるね? と念を押すイライアスの声音は優しい。


 ーーこれは、誰なの。


 目の前に座る男の顔をアリシアは茫然と眺めた。裏帳簿を処分するよう命じるその顔は、いつもの優しく誠実な父のものである。優しい表情と口調で、手帳を消せとアリシアに言っている。


 ーーなら本当なんだわ。


 イライアスは不正を犯している。己の父親が汚職に手を染め、いとも容易く嘘をつける人間なのだということを、アリシアはようやく理解した。


『待て、そこまでだ』


 と、そこで刑務官が会話に割り込んだ。2人のやり取りに不穏当なものを感じ取ったのだろう。それ以上の会話を阻止するように、『面会は終わりだ』とそう告げる。

 刑務官の言葉に抗うことなく、イライアスは立ち上がった。部屋を出る直前、最後に振り返ったイライアスの表情に、アリシアは硬直した。それは心底アリシアを信頼し、自身の言葉を遂行すると疑っていない瞳。アリシアが自分を裏切るはずがないと、確信している表情だった。

 面会を終え、逃げるように拘置所から馬車に乗り込むと、アリシアはガクガクと震えだした。生理的な嫌悪感が胸にせり上がって、吐き気を覚える。

 

 ーーもう何も信じられない。


 イライアスの不貞と汚職は、疑いようがない。これまで信じていたものが、ガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。


 ーーじゃあ殺人は本当なの? お母様の事故は?


 アリシアはこれまでの裁判を思い出した。イライアスがおぞましい殺人事件の黒幕だと証言したオズワルド。殺人の時期に符合するように引き出された現金。怯えた瞳でイライアスと暗殺者との繋がりを口にしたトム。妻はイライアスに殺されたと糾弾したトビー。

 どれほど不利な証言が出ても昨日までのアリシアなら、決してイライアスの無実を疑いはしなかった。けれどもう、アリシアは己の中に芽生えた疑念を自覚していた。

 家に帰り着くと、アリシアは自室のベッドに潜り込んで目を閉じた。何もかも忘れて眠りたかったが、一向に睡魔は訪れない。

 瞼を閉じていると、ネルの醜悪な顔を思い出した。5年にも及ぶイライアスの不貞と、カーラの死にまつわる疑惑。西日差す娼館の薄汚れた部屋。むせ返るような香水の匂い。

 

 ーー吐きそう。


 目を背けたいほどの気持ち悪さを感じて、アリシアはベッドから起き上がった。テーブルに置かれた水差しに手を伸ばし、水でハンカチを湿らせると、先程イライアスに触れられた指先をごしごしと拭った。そんな事をしてもちっとも気分は晴れなかったが、やらずにはいられなかったのだ。

 

 ーーどうすればいいの?


 明日、レイモンドは裏帳簿を警察に持っていくと言っていた。アリシアが何もしなくても、あの帳簿は警察の手に渡るだろう。


『彼から取り返して、捨てなくちゃならない』


 イライアスの言葉は、アリシアに犯罪行為の片棒を担げと言っているようなものだった。

 ぐちゃぐちゃな思考のまま、ふと視線を上げると、壁掛けの鏡に映る自身の姿が目に入る。

 流行のドレスに身を包んだ少女がそこにいた。繊細なレースをふんだんにあしらったドレスは、絹でできたものだ。胸元で光るブローチには、真珠やガーネットが使われている。

 誰もが羨む、贅沢な暮らし。

 この豊かさはどのような手段で得たものなのだろう、とアリシアは初めて考えた。


 ーーお父様が罪を犯していたならば。


 イライアスの今の地位が不正によって得たものならば、己が甘受している豊かさは何の犠牲の上に成り立っているのだろう。流行りのドレスも、美しく手入れされた髪も、誰かの不幸の上に成立しているのではないか。

 まるで服についた黒いしみのように、真っ黒な汚れがアリシアの身体のあちこちに広がっていくような気がした。洗っても洗っても落ちないしみのように思えて、アリシアは青褪める。

 

 ーー知らなかったのよ、何も。


 誰もアリシアに教えてくれなかった。


 ーー知らなかったんだから、しょうがないじゃない。


 どのような恩恵を享受しようとも、それは自分のせいではないのだと、アリシアは考えようとした。自分は何も悪くないのだと。

 これまでのアリシアにとって、正義とはとても分かりやすいものだった。自分を律し、正しい心でいさえすれば、決して道を誤ったりはしない。悪の道に落ちる人間は自らの意思でそうするのであり、仕方なく罪を犯すなどという言葉は、自己弁護の言い訳に過ぎない。善悪は明確に線引きできるものであり、そこに曖昧さは存在しないーーずっと、そう思って生きてきた。

 だが今、己の立たされた状況に、アリシアは揺れていた。罪人の娘たる自分は、果たして善人といえるのだろうか。


 ーー私は悪人じゃない。


 悪い人間にはならないと、アリシアはもう一度繰り返した。清く、正しくあらねばならない。それが18年の間に染み付いた、アリシアの価値観でもある。自分自身が汚れるという考えを、アリシアは到底受け入れる事ができなかった。

 

 ーー今からでも正しい事をすれば、間に合うだろうか。


 お前は父親と同類だと糾弾されることは、アリシアには耐え難い屈辱だった。自身が事件とは無関係である事を証明する為に、裏帳簿を警察に提出しよう、とそう思う。

 そこには打算もあった。不正の証拠をアリシアが提出すれば、娘は事件とは無関係なのだと、世間はそう見なすはず。犯罪者の娘として生きていかねばならないこの先の未来を思えば、自身の潔白を証明することはアリシアにとって重要だった。

 そこまで考えて、イライアスの殺人罪について、父親を信じる気持ちよりも疑う気持ちが勝っている事にアリシアは気がついた。


 ーーお父様を信じてない。


 そのことをはっきりと自覚した。イライアスを汚らわしいと思う感情が、愛しい気持ちを凌駕する。これまで一心に信じてきたからこそ、裏切られた反動が大きいのだ。


 ーーこの先、私はどう生きていけばいいんだろう。


 自身の将来を思えば暗澹たる想像しか浮かばない。逃げ出したい、とアリシアは思った。誰か遠くへ連れて行ってくれないだろうか。誰もアリシアを知らない所へ。その時ふと赤銅色の髪をした青年の顔が思い浮かんで、アリシアは自嘲した。


 ーー愛せないと言われたじゃない。


 はっきりと拒絶されたにもかかわらず、レイモンドに対して未練が残っている事に気づいてしまう。あの言葉は何かの間違いで、レイモンドがアリシアに謝罪し、愛を告げてくれないだろうかと、どこかで期待しているのだ。

 けれど今更レイモンドに縋り付いて愛を乞うような真似はできない。アリシアのプライドが、それを許さなかった。

 その日夜を徹して、アリシアは自分自身の心と向き合い続けた。レイモンドへの未練を断ち切り、やるべき事を成すのだと、一睡もせずアリシアは考え続けた。

 そうして東の空が白みはじめた頃、ようやくアリシアはレイモンドの屋敷に向かう決心ができたのである。


「私はお父様とは違う。そのことを証明する為に、証拠の品を提出したの」


 レイモンドの耳に、アリシアの硬い声が響く。


「ーーあなたは何者なの?」


 思いつめたようなアリシアの表情を見て、その質問がレイモンドを法廷から連れ出してまで聞きたかったことなのだと分かった。


「ただの留学生だよ」


 レイモンドは静かに、しかしはっきりとそう言った。


 ーーグウィン・バスカヴィルは死んだ。


 ここで本当の出自を明かす気は、レイモンドには微塵もなかった。自身がバスカヴィル家の生き残りであると告げる事に、何の意義も見出だせない。それを伝えて、今更何になるというのだろう。アリシアに罪悪感を抱いてほしいわけではないのだ。己の正体は、墓場まで持っていくつもりだった。


「ただ父君の不正を知って、隠しておくことはできなかったんだ。君には酷な事をしたと思っている」

「……そう」


 アリシアはぽつりと呟いた。少し失望したような声だった。


「私は確かに自分の気持ちをあなたに伝えなかった。でもあなたは私の気持ちを知っていたはずよ。知っていて期待させるような事をするなんて、やっぱり酷いわ」


 そう言ってアリシアが責めても、レイモンドは言い訳や反論をしなかった。アリシアに罪悪感を感じていても、その言葉にレイモンドが傷ついた様子は見られない。

 やはりレイモンドは自分に特別な感情を抱いてはいないのだと、アリシアは再確認する。レイモンドへの未練を断ち切るように、アリシアは話し続けた。


「あなたなんて嫌い。大嫌い」


 レイモンドはアリシアの言葉をただ静かに聞いていた。あらゆる言葉でレイモンドを非難した後、アリシアは最後にぽつりと言った。


「……でもお父様の事は、知らない方が良かったとは今は思わないわ」


 アリシアにとっては辛く残酷な真実だったが、何も知らないまま過ごす事は尚耐え難い。知らない方が良かったとは、もうアリシアには思えなかった。

 ぎゅっと唇を結んだ後、アリシアはそこで言葉を切った。数秒黙り込んだ後で、何かを決意するように再び口を開く。

 

「さようなら」


 そう言うと、アリシアは踵を返した。評決がどんなものになるにせよ、今日が終われば、もう二度と会うことはないだろうーーそんな思いを抱きながら。


「ーーさよなら」


 遠ざかる背中にレイモンドは小さく声をかけたが、アリシアはもう振り返らなかった。


 中庭で一人になった後、溜息を一つ吐いて、レイモンドも法廷に戻ろうと歩き出す。

 裁判所の入口近くでソフィアとメイソンが話し込んでいるのが目に入ったが、レイモンドはそっと視線を外した。

 再び傍聴席に腰を下ろすと、20分後にメイソンが戻ってきた。メイソンがソフィアにレイモンドには近づかぬよう伝えた事を確認して、安堵の息をつく。それから更に10分程して、ライアンがやって来た。

 空いていたレイモンドの隣に、ライアンは音も立てずに座る。評決が出るまで外で待つ者が多く、傍聴席は今は人もまばらである。それでもレイモンドは周囲に会話を聞かれないよう、声を落とした。


「ーー見つかったか?」

「いや、まだだ。だが1人怪しい医者を見つけた」

「どこで?」

「セントミラー病院だ。多分あの医者は何か知っている。マイクを連れて、医者を監視するつもりだ」


 それだけ言うと再び出て行こうとするライアンに、レイモンドは声をかけた。


「ライアン、気をつけろ。絶対に無理はするな」 


 心配そうなレイモンドの表情に、ふっと一瞬笑った後、ライアンは頷いた。


「任せておけ」


 それから約5時間。待ち続けたレイモンドの胸にあぶられるような焦燥感が生まれた頃、ついに評議は終わった。

 法廷に入ってきた廷吏は、待ちくたびれた人々の顔を見渡しながら、高らかに告げる。


「評議が終わりました。15分後に再開します」

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