ウィスラー家の災厄
よくある話です、とメイソンはそんな言い方をした。
「信じていた人間に騙され会社を失うなど、古今東西どこにでも転がっている話でしょう」
どこにでもある不幸。ありふれた災難。そう、メイソンは言った。
「父は人のいい男でした。祖父のような商才には恵まれなかったが、従業員には好かれている人間でした。お人好しで、涙もろい。人の本質が善なるを信じているような、そんな人間だったのです」
アーネストという名は父がつけたものです、とメイソンは懐かしむ顔になった。
「なんでも"誠実なる者"という意味があるそうで。親の願いに反して、残念ながら放蕩息子に育ちましたが」
その言葉にソフィアは不思議そうに目を瞬かせた。誠実なる者とは、正にメイソンを指す言葉ではないか。その思いが顔に出ていたのか、メイソンは苦笑した。
「あの頃は本当にふらふらとしていて、正に放蕩息子そのままだったのですよ」
40年前。18歳のアーネストは、まだ何者でもなかった。自分の大きささえ知らず、一体自分には何が成せるのだろうと漠然とした不安だけを抱える、ありふれた若者。
いつか家業を継ぐ事になるとぼんやり考えてはいたが、当分は先のことだろう。将来への漠とした不安を感じながら、そのくせ普段はふらふらと自分の好きなことばかりして過ごす。唯一大学に通っているという事実が、初等教育を受ければ十分という時代にあって、周囲の見る目を「放蕩息子」から「前途有望な跡継ぎ息子」に変えていた。
『こんな中途半端な気持ちで、会社を継いでもいいんだろうか。親父には甘えるなって、言われるんだろうけどさ』
『迷う事は悪いことではありません。見方を変えれば、坊っちゃんにはまだあらゆる可能性が残っているということではないですか。家を継ぐもよし、自分のやりたいことをやるもよし』
目の前に座るロムシェルは、ペンを動かす手を止め、顔を上げた。車両製造工場の奥にある一室。この頃のアーネストは、ロムシェルの仕事場をふらりと訪ねては時間を潰していた。
28歳にして父サイモンの右腕として働くロムシェルは、アーネストにとっては兄のような存在だった。ロムシェルがウィスラー家に来たのは、彼が13歳の時。それから早15年。アーネストにとっては物心ついた頃からの付き合いだったから、ロムシェルに対する態度も当然気安い。
仕事場に気まぐれのように訪れるアーネストに対して、ロムシェルは嫌な顔ひとつせず話を聞いてくれた。
サイモンから全幅の信頼を寄せられていたこの男は、当時から実に優秀だった。目端が利き、頭が切れる。ロムシェルを見ていると、己が凡百の人間に思えて仕方がなかった。学校になど通わなくても、能力ある人間には関係ないのだ。
父には言えぬ事も、歳の近いロムシェルならば相談できた。将来に対する茫漠とした不安ーーそんな青臭い話をする位には、ロムシェルは心許せる存在だった。
『焦る必要はありません。その時が来たら、嫌でも己の道が見えてくるものです』
アーネストの悩みなど、悩みの内に入らない。そう軽く言ったロムシェルに、アーネストは唇を尖らせた。
『俺ぐらいの歳なら、普通もう自分の道は決めているものだろ?』
『人によるでしょう。自分の道が定まる瞬間など、そうそうあるものじゃない』
『ふーん。じゃあさ、ロムシェルはどうなんだ? もう自分の道は決まってるのか?』
興味津々で尋ねると、さあどうでしょう、とロムシェルは笑った。
平凡な日々。退屈で、波風の立たない生活。しかしその日常の裏で、既にウィスラー家には暗雲が立ち込めていた。
アーネストは知らなかったが、経営者であり技術者でもあったサイモンは、この頃徐々に悪化する業績に頭を痛めていた。取引先がここ1年で次々に契約の打ち切りを知らせてきたのである。理由を聞いても、価格の安い他社に切り替える事にしたと、そればかり。
当時鉄道事業は魅力的な投資先として、投資家達の熱視線を受けていた。多くの資金が鉄道関連業界に流れ込み、鉄道路線の敷設計画が各地で乱立した。
金のあるところに人は集まる。甘い汁を吸おうと、有象無象の輩が新会社を次々に立ち上げた。当然のように競争は激化する。会社の苦境はこの辺りに理由があるのだろうと、当時サイモンは考えていた。
ならば他社の追随を許さぬ技術力で勝負すればよい。
「父は窮状を打開しようと躍起になっていました。このままでは先細って行くことは、目に見えていましたから……取引先が黙っていられないような新技術を開発しようと、銀行に借金をして投資を進めました」
そしてサイモンの思惑通りに、新技術は生まれた。だが喜びもつかの間、会社は更なる窮地に陥ってしまう。
新設路線に向けて多額の投資をして開発した蒸気機関車の設計図が盗まれたのである。それだけではない。盗まれた設計図そのままの蒸気機関車がライバル社であるワイルダー社から発表され、ウィスラー家の蒸気機関車導入を予定していた鉄道会社が、ワイルダー社への切り替えを一方的に通達してきたのである。
止まらない負の連鎖。サイモンはのっぴきならない状況に追い込まれていた。
そんなことさえ知らなかったアーネストは、ある日サイモンから呼び出しを受けた。会議室に入ると、役員も含めて20名程の人間が集まっている。これは一体何事だろうと、アーネストの胸がざわりと騒いだ。主要メンバーが勢揃いする中、ただロムシェルの姿だけが見えない。アーネストがその場の物々しい雰囲気に気圧されていると、サイモンから座るよう促される。
アーネストが末席に腰を下ろしたのを見てとると、サイモンは口を開いた。
『ここ最近の業績悪化の原因について、ディランから話があるそうだ』
サイモンの言葉に、一人の老人が立ち上がった。
『ーーロムシェルです』
ディランという名の老技師は前置きもなく、口火を切った。
『見たのです。あの男がワイルダー社の幹部と会っているところを。その時は自分の見たものが信じられませんでしたが……ロムシェルが設計図を持ち出し、ワイルダー社に売ったんです。あいつは裏切り者だ!』
サイモン以外の全員が信じられない、という顔をした。サイモンはディランから事前に聞いていたのだろう。渋面を作ったまま、静かに耳を傾けている。
取引先の契約解除もあの男が裏にいたはずだと、ディランは机を強く叩いた。
『ロムシェルの奴を問いただしましょう! 真実を語らせるんだ!』
呼応するように怒りに顔を染めた男達が次々に立ち上がって、誰かが叫んだ。
『ロムシェルを呼べ!』
そうしてサイモンと従業員の前に引きずり出されたロムシェルは、憎らしいまでに泰然としていた。お前がやったんだろう、という詰問にロムシェルは嘲笑した。
『証拠は?』
『ワイルダー社の人間と会っているところを見たぞ!』
『会っていただけで、私が盗んだと? 私を警察につき出すつもりなら、それなりの証拠を持ってきて下さらないと』
ぐっと言葉に詰まったディランをロムシェルは鼻で笑った。その顔には、アーネストがこれまで見たことのない冷たく、人を見下すような表情が浮かんでいる。
『そうそう、今日でこの会社を辞めさせていただきます。このように疑われていては、もうここにはいられませんからね。15年間、お世話になりました』
そう言って、あっさりとロムシェルは去っていった。アーネストを含めてその場にいる全員が言葉を失い、二の句が継げない。15年間仕えた人間が、あっけなくウィスラー家に背を向けた。兄のように慕っていた男の背信行為。その時のアーネストの衝撃は、とても一言では言い表せない。
それからわずか数日後。ロムシェルはワイルダー社に役員として迎えられた。ロムシェルが暗躍していた事をその時誰もが確信したが、証拠はない。結局ロムシェルを罰する事ができないまま、黙って見ていることしかできなかった。
ロムシェルの事ばかりに気を取られてもいられなかった。このまま何の手も打たなければ、会社は倒産してしまう。少しでもコストを削減する為に、人員整理や安く仕事を請け負ってくれる業者への切り替えを考えねばならない。
しかしサイモンは優しい男だった。優し過ぎた、と言ってもいい。その優しさ故に、先代の頃から付き合いのある下請けをサイモンは切れなかった。ウィスラー家の従業員を解雇することにも、サイモンは最後まで首を縦に振らなかった。
どうにか他に活路を見出そうと、サイモンはもがいた。なりふりかまわず頭を下げて回る。新しい契約先を求めて、朝早くから夜遅くまでサイモンは東奔西走した。
だがついに、どうにもたち行かなくなる時がくる。ーー多額の借金を抱えて、倒産。その時のサイモンの無念は、いかばかりだっただろう。
サイモンは、己を責めた。下請けの町工場で働く老人達の仕事をなくしたこと。従業員を路頭に迷わせたこと。結果的にウィスラー家に関わる全員に迷惑をかけてしまった。責任感が強すぎた故に、サイモンは自責の念に耐えきれなかったのである。
会社が倒産してひと月後、サイモンは首を吊った。借り住まいの一室でこと切れていた父親を発見したのは、アーネストであった。屋敷を手放し、新しい住まいに移り住んだ矢先。ここで自殺などすれば、残された家族に更なる迷惑がかかるという当たり前の判断力さえ、サイモンには残っていなかったのだ。
アーネストがサイモンの首に巻き付いた紐をはずし、その身体を床におろした。死の形相は凄まじいものだった。恨み、憎しみ、苦しみ。そこに優しかった父の面影を見つけることはできず、恐怖に慄きながら、アーネストは遺体に毛布をかけ、医者と警察を呼びに行った。
サイモンが自殺してわずか2ヶ月後には、後を追うように流行り病で母が他界した。穏やかだった日々から、わずか半年。アーネストの生活は激変した。
幸いにしてシュタールには資産を相続する制度はあるが、親の残した借金を子が背負うことはない。負債の責任は当人に帰すべきもの、という考えが強いからだ。
母を一人で看取った後、アーネストはロムシェルに会いに行った。全てを奪ったあの男に、これがお前のやったことの結末だと、その悪行を糾弾する為に。両親の死を伝えれば、己の所業を後悔するのではないかと、期待した。
しかしワイルダー社前でロムシェルをつかまえたアーネストが2人の死を告げても、目の前の男は冷たい表情を浮かべたままだった。
『それで、私にどうしろと?』
『お前のせいで親父は自殺したんだぞ! 少しは悪いと思わないのか』
苛立ってそう言ったアーネストに、ロムシェルは言い放った。
『この世界は弱肉強食。力のあるものだけが生き残ることができる。サイモンは力がなかった、それだけだ』
『よくもぬけぬけと……! お前が裏切って、ウィスラー家をはめたんだろうが!』
『人聞きの悪い事を言わないでもらいたい。どこにそんな証拠がある?』
『お前がワイルダー社にいることが何よりの証拠だろう! 15年も親父から恩義を受けてきたのに。恩を仇で返して、お前は平気なのか?』
怒りに頬を染めると、「恩?」とロムシェルが不快そうに目を細めた。
『サイモンを支えたのは私の方さ。あの凡庸な男に、会社を大きくする才能があったと思うのか? なんの努力もせず親の興した会社を引き継いだだけじゃないか』
ずっとずっと不満だった、とロムシェルは唇を歪めた。酷く醜悪な笑い方だった。
『どうして自分より無能な男の下で働かなければならない』
『……本気で言っているのか?』
『アーネスト、お前も同じだよ。お前の下で一生働く事を想像したら、気が狂いそうだった』
『……だから、裏切ったのか。取引先が次々に契約を打ち切ってきたのも、お前が裏で手を回していたのか』
茫然とした呟きに、ロムシェルはただ笑っただけだった。しかしその表情を見て、アーネストはその指摘が正しいことを知る。苦悶に満ちたサイモンの死に顔を思い出した。こんな男のせいで死んだのか。亡くなる前日まで、サイモンは会社を潰して申し訳なかったと何度も何度も詫びるように呟いていたのだ。
目の前の男が憎くて憎くて、仕方がなかった。兄のように慕っていた分、反動は大きい。その後どんな会話をしたのかほとんど覚えていなかったが、最後にロムシェルに言い放った言葉だけは覚えている。
『お前を絶対に許さない……!』
その後チャンスを求めて、アーネストは海を渡った。当時ティトラは急速に発展を続ける新興国家で、成功者達の話が遠くシュタールまで聞こえていたのだ。
ティトラで名をメイソン・マックスウェルと変えた。あとはもう、無我夢中で働いた。最初に雇われたボリスの電信会社で、メイソンはめきめきと頭角を現すことになる。
電報配達員からはじまり、電信技手を経て、鉄道会社の電信士として引き抜かれた。メイソンを引き抜いたのは、当時ティトラ最大の鉄道網を有する大会社の最高責任者である。男の名を、ビル・ヘインズという。有能で向学心に溢れ、骨身を惜しまず働くメイソンを、ビルはたいそう気に入った。
この男がメイソンに経営とは何たるかを教え込んだ。投資の知識も、ビルに学んだ。この頃メイソンは得た労賃を使って投資をはじめている。最初の事業を開始するための資金は、投資によって得たものだ。
やがて鉄道会社を辞めると、メイソンはボリスで製鉄業を開始した。ティトラへ来てから14年。メイソンは32歳になっていた。
ロムシェルへの恨みは消えてはいなかった。むしろボリスで成功する為の原動力になったといっていい。いつかロムシェルを見返し、復讐すること。その思いを胸に、昼も夜もなく働いた。事業で成功をおさめ、会社はどんどん大きくなっていく。
私生活においては、この頃に転機が訪れた。1つ年下の女性と結婚したのである。ステラという名の、心根の美しい女だった。周囲からはもっと若い娘がいるのにと言われたが、メイソンにはステラ以外の女性との結婚など考えられなかった。
ステラは真面目で働き者。穏やかな空気を纏う彼女の傍にいると、ほっと安心して息をつける。メイソンにとってステラは、そんな存在だった。ステラはメイソンがようやく手にした新しい家族であった。
子供には恵まれなかったが、夫婦仲は良好だった。子供がいないことをメイソンは気にしていなかったが、ステラは子供が欲しかったのだろう。結婚して数年が経つと、代わりのように恵まれない子供達を集めては、下働きとして雇い入れるようになった。
子供達が働くのは午前中だけで、午後はステラが教育を施した。読み書き、算術。たとえここを離れても生きていけるようにと、ステラは情熱を持って教育に取り組んだ。
子供のいないステラにとっては、彼らの成長を見守る事は何よりの喜びだったのだ。後にメイソンが篤志家だと周りに評されるようになったのは、間違いなくステラのおかげであろう。
だが幸せは長くは続かなかった。結婚して7年目、突然ステラが病に倒れたかと思うと、そのままあっという間にこの世を去ってしまったのである。
メイソンは再び独りになった。
自分は家族を持ってはいけないのかもしれないと、半ば本気でメイソンは思った。
ステラの意思を継いで、孤児たちを引き取り教育を施すことは続けていた。この頃にはステラが育てた子供達の多くが優秀な人材に育っていた。彼らはメイソンの元を離れず、献身的に会社で働いてくれたのである。メイソンを父と仰ぎ、ステラを母と慕う。
いつしか子供達を育てる事が、メイソンにとっても一つの生きがいになっていた。
再婚はしなかった。ステラを愛していたし、再婚相手が子供達に愛情を注ぐかどうか分からない。今更再婚しても得られるものは何もないと思ったのである。
レイモンドに出会ったのは、ステラを亡くして15年以上が経った頃。その頃にはメイソンの名は国内だけでなく、諸外国にまで響くようになっていた。莫大な富と権力。今ならロムシェルとて恐れることはない。しかし歳を重ねるにつれて、メイソンは臆病になっていた。今更ロムシェルと事を構えて、得るものがあるのだろうか。相手は遠い異国の地にいる男。本気で復讐をするならば、体力も気力も削って取り組まねばならない。
もういいじゃないかと、そんな風に思うようになっていた。復讐を諦めたとしても、父も母もメイソンの成功を見たら喜んでくれるはずだ。ロムシェルに対する恨みは消えていなかったが、今になって復讐のために心血を注ぐ覚悟をメイソンは持てなかったのである。
だがレイモンドに出会って、メイソンの心は揺さぶられた。
レイモンドとの出会いに、前触れはなかった。ある日来客があると、秘書のポールが告げたのである。
『お約束はないそうですが、ディアビルにある炭鉱を譲りたいという方が来ております。確認しましたが、確かに本物の権利書を持っています』
『炭鉱? どんな男だ?』
びっくりして尋ねると、ポールは困惑した顔になった。
『少年です。14、5歳くらいの』
そう言ったポールに、驚きながらも会ってみるから通してくれとメイソンは告げた。しばらくして部屋に入ってきたのは、黒目黒髪の、異様に整った顔を持つ少年だった。
スーツを着て大人びているが、ポールの言う通り年齢は14、5歳だろう。顔立ちに幼さが少し残っている。上等なスーツに柔らかい物腰。それだけ見れば裕福な家の子供だと、そう思ったかもしれない。
けれどその少年が纏う空気は、異質だった。全身に漂う緊張感。神経を研ぎ澄ませ、メイソンの本質を見抜こうとするようなそんな鋭さがある。黒曜石の瞳は酷く荒んだ色をしていて、彼が安穏と生きてきた金持ちの息子ではない事は明らかだった。
殺伐とした鋭さを纏った少年はメイソンの前に立つと、名乗りもせずに口を開いた。
『ーーメイソンさん、ロムシェルに復讐をしたくはないですか』




